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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
夢の代償 それは憎しみに満ちた戦火
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第57話 夢破れたアメジスタに 陽はまた昇る(3)

 翌日、ヴァージンは重い足取りでトレーニングセンターに向かった。だが、彼女の服装は決してトレーニングをするような軽々しいウェアではなく、ワイシャツにフォーマルなスカートを履いて、真っ先にマゼラウスのもとに向かった。

「コーチ……。今日は、トレーニングをするような気持ちにはなれません」

 マゼラウスは、ヴァージンの服装を軽く見て、少しだけ下を向いた。それから彼女の目を見つめ、尋ねた。

「まぁ、とりあえず理由から話してくれ。おそらくあの事だろうと思うが、お前の口から聞かせてほしい」

 ヴァージンは、その声に後押しされるように、そっと唇を開いた。

「昨日、『オメガピース』の責任者が、テレビの前で私のことを言ったんです。痛みの分からない、夢だけの人だと……。私がずっと抱いていた夢を、無謀と言って切り捨てたんです……」

「私は、それは全然無謀じゃないと、あの会見を見てて思ったけどな……」

 マゼラウスが、静かにそう返すものの、ヴァージンは首を横に振るだけだった。

「コーチがそう言ってくれるのは嬉しいです。でも、味方はほとんど増えないのに、敵だけがどんどん増えてしまっていて……、世界中が反対派についているようにしか思えないんです……」

「そんなことはない。お前のファンは、きっといる。今回の件でも、お前を支えてあげたいと思うファンは多いだろうし、それがお前の気持ちを分かるってことじゃないのか」

「本当に、そうなんですか……。私が夢を見たことが……、戦争につながっているのに……」

 マゼラウスの言葉に、ヴァージンはいつしか涙の続きを流し始めていた。その時、マゼラウスが一歩ヴァージンに近づき、彼女の頬を掴み、彼の顔の前に引き寄せた。そして、強い声で言った。


「お前は……、ヴァージン・グランフィールドは、そこまで心の弱いアスリートか?」


(……弱くはありません!)

 声にならない声を、ヴァージンはマゼラウスに伝えようとした。それを感じたマゼラウスは、再び口を開いた。

「いくら弱音を吐いたところで、先には進まない。トラックを5000m、10000m駆け抜けるようなお前の姿と、今のお前の姿は、真逆だ。頼むから、これ以上悲しくなるな。お前のこの先に……、間違いなく響く」

「コーチの言ってることは分かります……。でも……、今の私が世界競技会に出たら……、タイムも下がり気味で、トラックに立った瞬間、何と言われるか分からないのです……」

 ヴァージンがそう言うと、マゼラウスは小さくため息をついた。

「どうやら、お前の受けたショックは、私が見てきた中で最も大きいな……。13年見ているが、ここまで深い悲しみに暮れるお前、私は見たことがなかった」

 それからマゼラウスは、静かに腕を組み、じっとヴァージンの目を見つめた。表情は険しかった。

「お前は、もう大人だ。30手前で、自分で自分のコンディションが分かる、立派な大人だ。どうしたいが、まずは自分の本心に問いかけてみろ。モチベーションが下がったとき、どう立ち直らせたか、考えてみろ」


(モチベーションが下がったとき……、私が何をしてきたか……)

 ヴァージンは、アメジスタの債務危機の時に取った行動を思い出した。人目につかない時間帯に、それでも彼女は走り続けた。それしか、アスリートとして生き続ける方法はなかった。

 気が付くと、ヴァージンは自分自身から聞こえてくる声に、そっとうなずいていた。

「どうやら、少しは分かってきたようだな……。私がどのようにお前を助けようとしているのかを」

「まだ……、少ししか分からないです。でも、私が決めていいってことは分かりました」

「そうだな……。それだけは、分かって欲しかった……。私としては、レースに出ることによって、また気分も変わるだろうと思うけどな、出る出ないは自分自身だ」

 マゼラウスは、ヴァージンの肩を軽く手で叩き、それから彼女の目をじっと見つめた。やや遅れながらも、ヴァージンの首はその言葉にはっきりとうなずいていた。


 その日は、家のランニングマシンを軽く走るだけでトレーニングを済ませて、午後は庭に出て眩しい光を浴びながら、これから先のことについて考えた。

(アメジスタのことで、これだけ縛られている以上、調整不足になるのは目に見えている……。いくら連覇のかかった大会だと言っても、それからメリナさんの実力は上がっているわけだし、今以上に世界記録を高めない限り、私に勝利はないのかも知れない……)

 ヴァージンは、その視界がまた少しずつ開け始めているのを感じていた。メリナやカリナと言った、ここ数年ライバルと思える存在の走る姿を、彼女にははっきりと思い出すことができた。

(少なくとも、本当は6月くらいから始めたかった10000mを、コーチにもメドゥさんにも出るって言えなかったから、今年の10000mはゼロからの状態で始めなきゃいけない。さすがに、7月の今から調整するのは難しい)

 少しずつ、この先の方向性が決まり始めてきた。もしこの場でメドゥから電話がかかってくれば、すぐにでもその答えを告げるつもりだった。

 そして、その予言通りに電話が鳴った。ディスプレイにメドゥと書いてあった。彼女は、すぐに電話を取った。

「メドゥさん……。こんにちは……」

「急に、かしこまった感じになってどうしたの、ヴァージン。マゼラウスから、今日のことを聞いたわ」

「あの時が、一番落ち込んでいました。でも、さすがに……、今は少しだけ立ち直っています」

「よかった……。実際、あの会見を見て、ヴァージンがどう思うか、私はずっと気にしてた」

 電話越しのメドゥの声は、なるべく普段通りの声を心掛けているように、ヴァージンには思えた。逆に、ヴァージンもなるべく低い声にならずに、普段通りに伝えようという気持ちが芽生えた。

「で、ヴァージン。今日電話したのは、今回の件で謝らなきゃいけないことがあるの……」

「謝らなきゃいけないって……、どうしてですか」

「私、世界競技会の連覇がかかる以上、ヴァージンがもし出られなかったらいろいろと宣伝の機会を失うって思ったの。だから、ヴァージンが事務所に来たときに、諦めないでと言ったのよ……。でも、それはヴァージンの気持ちを分かっていたようで、実は何一つ考えていなかったような気がする……」

 電話越しに、メドゥが軽く息継ぎをする音が聞こえる。その息継ぎにつられるように、ヴァージンも軽く息を吐き出す。二人はその緊張が、知らず知らずのうちにほどけてきているように思えた。

「それで私は思ったの。たしかに、レースには出たほうがいい。でも、連覇とかそれだけの理由で出て欲しいんじゃない。たぶん……、アメジスタで戦争が起きているってニュースを見て、それでも走り続けるヴァージンの姿を、みんなが待っている」

「走り続ける……、私の姿……。トラックに立つ私を、みんなが応援してくれる……」

 「オメガピース」の女剣士ソフィアに「誰も味方しない」と言われた中で立とうとするトラック。その場所でさえ神聖な場所だとメドゥが伝えていることに、ヴァージンは気付いた。

「そう。それこそ、アスリートができる一番のことだし……、もし走らなければヴァージンの気持ちは……、夢は……、もっと分かってもらえないと思う」

「メドゥさん……」

 そこまで言いかけて、ヴァージンは目にたまった涙を拭い、それから電話を強く握りしめた。

「それが今回、私の走る理由になるかもしれません……。そのことを、私、忘れてました!」

「ヴァージン……」

 これまでで一番高い声を、メドゥは電話口ではっきりとヴァージンに響かせていた。ヴァージンは思わず電話を耳から離すほどだった。

「あの……、メドゥさん……」

「どうしたの?何か思い出した?」

「私も、今さっき、8月の世界競技会には出ようと思ったんです。まだ調整がききそうな、5000m一本で」

「5000mは、先月も世界記録出したばっかりじゃない。今のヴァージンなら、すぐに力を取り戻せると思う」

 メドゥが、電話口にはっきりと聞こえるように、メモ帳にペンで〇をつける音を作っていた。その音が止まったと同時に、ヴァージンは電話の向こう側には見えないにもかかわらず、小さくうなずいた。

「本当に、今日ヴァージンの気持ちが戻ってきてよかった……。今日が、世界競技会のエントリー〆切の日だったのに、私、怖くて申し込めなかったの……」

「そうだったんですか……。でも、最後の最後で走るって決めた以上、私は今度の世界競技会で出せる限りの自分を出します。みんなに、私がどういう気持ちで走っているか伝えるために……」

「それよ、それでこそヴァージンは『女王』よ……」

 そう言って、メドゥは電話を切った。電話を握るヴァージンの手に、はっきりとした力強さが残った。

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