第57話 夢破れたアメジスタに 陽はまた昇る(2)
メドゥに相談した翌日から、ヴァージンはトレーニングを再開したが、タイムをそれほど伸ばすことができなかった。だが、マゼラウスもメドゥから話があったようで、5000mを14分10秒切れなかったヴァージンに「今は、気持ちを落ち着かせる時期だ」と励まし、決してきつく言うことはなかった。
(債務危機の時は、コーチとのトレーニングもしばらくやらなかったから、記録が戻るまで時間かかってしまったけど、今回はまだ世界競技会の連覇という目標がある。ここでトレーニングを投げ出すわけにはいかない)
トレーニングセンターから自宅まで戻るヴァージンは、いつも以上に足の裏が重くなっているように感じたが、それでも一歩ずつ前に向かって歩き出した。
「ただいま。今日は、ヴァージンのほうが早かったんだね」
トレーニングウェアをベランダに干し終わると、ヴァージンの耳元にアルデモードの声が響いた。
「おかえり、アル。ちょっと、本気でトレーニングをやれるような状況じゃなくて……」
「そうだよな……。僕だって、アメジスタの今後が気になって仕方ないよ……」
ボストンバッグを下ろすと、アルデモードのほうからヴァージンのいるベランダに近づいていった。そして、ヴァージンの目の前までやって来ると、少し難しい表情を浮かべたのち、腕を組んだ。
「チームメイトから言われたよ。オールオメガ新聞にヴァージンのことが載ってて、その夢は誰からも支持されないって、『オメガピース』に言われたことを……」
「オールオメガ新聞……。昨日代理人に相談しているときに入ってきたけど、記事になるとは思わなかった」
「そんな小さな記事じゃなさそうなんだ。ネットにも載っていたみたいだけど、ヴァージンは見た?」
「見る気もしない……。私があの場所で何と言ったか、今でも思い出せるもの……。スタジアムを作れば、アメジスタは希望が持てる国になれるって、私はそう言っただけ」
「それは、ヴァージンがずっと夢見てきたことだと思うけど……、それが戦争の原因だと思われている雰囲気の中で言っても、やっぱり難しいかも知れないよ。それに、『アメジスタ・ドリーム』にある何千万リアかのお金だけで作れるようなものじゃないわけだし……」
「たしかに、アルの言うことも間違ってないけど……」
そう言うと、ヴァージンは少しだけため息をついた。すると、そのため息を遮るかのように、アルデモードが微笑んだ。
「でもさ、ヴァージンの夢は……、今までずっと形にし続けてきたわけじゃん。だから、いつか君のこの夢だって、形になるって。僕だって、スタジアムを作って夢や希望をアメジスタに伝えるのは、必要だと思ってるし」
「アル……」
ヴァージンは、思い切ってアルデモードの胸に飛び込んだ。一人でも多くの支援者を、彼女は知りたかった。最も身近にいるアルデモードは、たしかに彼女の味方だった。
だが、それ以上味方が増えることはなかった。アメジスタで反対派に追われてから1週間も経つ頃には、アルデモードの元気そうな顔を見て安心することに、ヴァージンは慣れてしまっていた。
(今は……、世界競技会に集中しないといけないのに……)
トレーニングが終わった瞬間、次に思いつくのはアメジスタの現状だった。ネットではそれが文字で伝えられるものの、状況が改善しているという報告をしている記事は一つもない。むしろ、その逆だった。
オメガセントラルに、珍しく滝のような雨が降り出した日、あと少しで家にたどり着こうとしていたヴァージンは、雨に濡れまいと急いでドアを開いた。
「ただいま、アル。いきなり雨が降ってくるとは思わなかった……」
ヴァージンは雨粒を含んだ金髪に手を当て、急いでシャワールームに向かった。その時、リビングからアルデモードが険しい表情で飛び出してきて、シャワールームに入ろうとするヴァージンの横にやって来た。
「本当に、戦争が始まったよ。聖堂の南西側で……」
「えっ……。アル……、それ、本当の話……?」
シャワーの音でほとんど聞こえなかったはずのアルデモードの声は、この時だけヴァージンの耳にはっきりと聞こえていた。その言葉を聞いた瞬間、彼女は思わず息を飲み込み、一緒にシャワーの湯をも飲みこみかけた。
「本当だって。いま、夕方のニュースで、グリンシュタインの中継をやってるんだ」
「中継……って、アメジスタにテレビカメラが行ってるってわけ……」
ヴァージンがアメジスタに向かったとき、そこには小型カメラを持った報道陣が乗っていたものの、現地から中継を流せそうな大掛かりな器具を持った人は見なかった。だが、この2週間の間に状況がそこまで悪くなっているということに、ヴァージンはすぐに気づいた。
ヴァージンは軽く頭を洗うと、シャワーを止めてテレビの前に向かったが、既に他のニュースに変わっていた。アルデモードが、テレビ画面を前に立ち止まったヴァージンの後ろにやってきて、そっと肩を叩いた。
「『オメガピース』が、反対派についた。人数的には、反対派の数が多そうだけど、推進派がそれを懸命に追い返そうとしている。今までは小競り合いだけだったけど、剣まで使いだし、血を流す市民も出てきている」
「そんな……。ここまで来たら、完全に戦争じゃない……」
その時だった。突然テレビの画面が、ヴァージンでさえ見たことのないグリンシュタインを映し出した。テロップには「速報!『オメガピース』ソードマスターの会見」と映し出され、すぐに画面の左側から、冷たそうな表情のソフィアが現れた。
(ソフィアさん……。やっぱり反対派についた……。やっぱり私を信じてはくれなかった……)
ヴァージンは、テレビ越しにソフィアと目を合わせ、最強剣士の放つその言葉を聞こうとした。程なくして、ソフィアがマイクを手に持ち、原稿を読むことなく、カメラ目線になって口を開いた。
――今回、私はアメジスタを守るために「オメガピース」を動かした。お金もなく、ただ夢だけで、スタジアムを作ろうとする人々が、アメジスタを壊そうとしている。そんな対立を、私たちは放置するわけにはいきません。
(アメジスタを壊してなんかない……。そんなの違う……。みんな、夢のために戦ってるのに……)
叫んだところで、決してソフィアの耳に届かない。ヴァージンが声を出そうとしても、かすれ声以上に大きくはならなかった。それどころか、ソフィアの会見はそれと無関係に進んでいく。
――私が武力行使を指示したのは、今回最も「夢」という言葉を言い続けている一人のアスリートが、この状況になっても夢を言い続けたこと。誰も支持しない無謀な夢を言い続けたこと。彼女は、アメジスタ国民の痛みも分からない、残酷な人。だからこそ、痛みも分からないような人たちに、痛みを与えるしかないのです。
(ソフィアさん……!)
それが誰のことか、名前を言わなくても世界中にはっきりと伝わった瞬間、ヴァージンはついにテレビの前で涙を流し始めた。アメジスタ生まれの女子アスリートは、未だにたった一人しかいなかった。
「悔しい……。私、こんなこと言われて、悔しい……。でも、私にソフィアさんをどうすることもできない……」
「ヴァージン……。とりあえず、もうこのテレビ切らない?ますますショックを受けるだけだと思う」
「もう……、付けてても同じ……。しばらく、またソフィアさんの言葉を思い出してしまう……」
そう言うと、ヴァージンは涙を拭い、ようやくテレビの画面をはっきりと見た。だが、その努力も空しく、その直後にソフィアから画面が切り替わった。
「グリンシュタインの街並みが……、炎に包まれている……。炎から逃れてくる人を、剣で攻撃している……」
そう言って、ヴァージンはついにテレビを消した。そして、泣き崩れた。
「もう嫌だ……。私、世界中で首謀者として扱われてしまう……」
「そんなことないって……。ほら、顔を上げなよ、ヴァージン」
アルデモードがヴァージンを軽くさするものの、石のように固まったヴァージンはその後1時間、その場を動くことはなかった。時折涙を流すだけで、アルデモードの温かい手にも反応しなかった。
(私の夢は……、ほとんどの人にとって無謀だった……。お金もないのに、世界レベルの競技場を作ろうなんて、そんな夢を考えた私が責められるのも、無理はないのかも知れない……)
ヴァージンは、考えれば考えるほど先に見える光景が細くなっていくように思えた。彼女の感じることのできる景色は小さくなり、どの角度から入ったとしても、すぐ先に闇があるようにしか思えなかった。
(こんなの絶対おかしいのに……、どこがどうおかしいのかも、私にはもう分からない……)