第57話 夢破れたアメジスタに 陽はまた昇る(1)
「メドゥさん……。せっかく入れて頂いたケトルシティのレース、キャンセルしたいです……」
オメガに戻ってから数日後、ヴァージンは代理人のメドゥの前で静かに告げた。ホワイトスカイ・スポーツエージェントの応接室が、その声と同時に静まりかえった。
「どうしたの……、ヴァージン……」
「あまりにもショックすぎて……、今の私が、最高のパフォーマンスでレースに挑めそうにないからです……」
メドゥは、凍り付いたようなヴァージンの言葉に、しばらく固まった。それからメドゥが、何度か口元を緩ませながら、言葉を選び続ける。やがて彼女は、首を横に振り、ヴァージンに告げた。
「なんだろう……。債務危機の時もそうだったけど、ヴァージンがアメジスタのことでショックを受けていて、思うように走れないと言ってくるような気はしていた……。でも、ヴァージンは私が思っていた以上に、ショックを受けているみたい……」
「メドゥさん……。私の受けたのは、ショックという言葉でも表せないのかも知れません……」
それからヴァージンは、戦争の力になって欲しいと言われたこと、混乱の首謀者に仕立て上げられたことなどを、メドゥに説明した。時折涙声になりながらも、ヴァージンは状況を細かく告げたのだった。
「そこまで、アメジスタの人々は言うの……」
「はい……。しかも、戦争の力になって欲しいというのは、私をずっと応援している青年から言われた言葉です……。レースがあると言ったら、ひとまずは引き下がりましたが……」
「おそらく、それはヴァージンを認めているつもりの言葉なのかも知れない。でも、ヴァージンの気持ちを全く分かっていない言葉なのかも知れない……。私は、そう思う」
メドゥはそう言うと、組んでいた腕をそっとほどき、ヴァージンに尋ねた。
「ヴァージンの本当の気持ちは、アメジスタに早く希望の灯が輝いて欲しい、ということでしょ」
「そうです……。だからこそ、世界レベルのレースができるスタジアムを……、作りたいのです……」
「だったら、その夢に嘘をついちゃいけないと思う……。でも……、ヴァージンは夢を急いでいるかも知れない」
「夢を……、急いでいる……」
ゆっくりと言葉を返したメドゥに、ヴァージンは無意識のうちに首を小さく縦に振った。
「ヴァージンの気持ちは、私にだってよく分かる。アメジスタを何とかしたいという意思だって、ずっとヴァージンから感じてきた。でも……、ヴァージンが抱いているビジョンが、アメジスタの人々に間違って理解されていると思うと……、そう思えなくもないのかも知れない」
「メドゥさん……。それなら私、どうすればいいですか……」
「まずは、言われたことを気にせずに走ること。走り続けること。そうしたら、ヴァージンの気持ち、伝わると思う……。アメジスタのことを想う気持ちは、どのアスリートよりも強いじゃない」
そう言うと、メドゥはヴァージンの目を見つめながら表情を緩めた。ヴァージンは、メドゥのその表情にわずかに口元を緩めたものの、目が徐々に細くなっていくのを感じた。
(やっぱり……、私は何かに急いでいる……。急いでいるのだけど……、メドゥさんに気付かれてしまった……)
するとメドゥは、ヴァージンにはっきりと見えるように、手帳のスケジュールに小さく×を付けた。そこには、「ヴァージン ケトルシティ」と書いてあった。
「でも、ヴァージンが最高のパフォーマンスができないって言った以上、ケトルシティはキャンセルするわ。次は、連覇のかかった世界競技会になるけど、そこは……、諦めちゃいけないと思う」
「今のところは……、大丈夫だと思っています……」
「そう言ってくれてよかった……。私は、ヴァージンが走りたいって思う気持ちを、全力で支えるわ」
「ありがとうございます」
そう言って、メドゥはそっと立ち上がり、ヴァージンに右手を差し出した。ヴァージンもその手に吸い寄せられるように、右手を伸ばしかけた。
だが、その時、応接室のドアを小さくノックする音が、二人の耳にはっきりと聞こえた。
「グランフィールド選手とメドゥさんに、どうしてもお話をしたいというお客様が見えられているのですが」
(メドゥさんのほかに、私も……)
メドゥがヴァージンを待たせ、応接室のドアをそっと開く。エージェントの事務員と目が合った直後、メドゥの表情が険しくなったのを、ヴァージンは後ろからはっきりと見た。それから、メドゥがゆっくりと戻ってくるが、ヴァージンに向けてため息をついた。
「私たちに会いたいとおっしゃっているお客さん、誰ですか」
「『オメガピース』の最強剣士。それと、オールオメガ新聞の記者が一緒に来ているわ」
「『オメガピース』……。私、アメジスタの空港で会いました……。アメジスタの戦闘に入るそうです」
ヴァージンの声は、次第に震え上がっていた。空港で見た「オメガピース」兵たちの列が、その言葉を聞いた瞬間に思い出された。
「ヴァージンが嫌なら、断っておくけど……」
「いえ、『オメガピース』にも会わせて下さい……。伝えたいことがあるんです」
軍事組織「オメガピース」。様々な武器を操り、世界の正義と平和を守る「世界最強の軍隊」と言ってもいい存在だ。出動の依頼があれば、オメガ国内のみならず世界中に兵士を送り、戦力となって活動する。アメジスタで「オメガピース」が活動するようになったのも、推進派と反対派のどちらかが呼んだからに他ならなかった。
程なくして、ヴァージンよりも年齢が10歳近く上の女剣士が、茶髪をなびかせながら入ってきた。場所が場所だけに、剣を持っていることはなかったが、どことなく冷たそうな表情は、同時に高い戦闘能力を感じさせる。その後ろから付いてきた記者は、特に取材メモをとるだけのようだ。
「私は、『オメガピース』のソードマスター、ソフィア・エリクール。初めてお目にかかるわね」
「ソードマスター……。こちらこそ、よろしくお願いします……」
ソフィアは、ヴァージンと軽く握手した後、応接室の中でメドゥと同じ側に座った。日々剣を持っている手であるからか、ヴァージンとは比べものにならないほど、手を握る力に強さを感じた。
「それで、私がここに来た理由は、あなたが今回のアメジスタでの任務を、どういった形で終わらせて欲しいかということを聞くため。オメガにいるアメジスタ人ということもあるし、そもそも今回の任務のきっかけになったのは、あなたの無理難題な夢だと聞いているのだから、答えて欲しいわ」
(ソフィアさんの声が、ものすごく冷たい……。これが「オメガピース」の兵士……)
ヴァージンは、ソフィアの言葉が終わると、目線を下に向けた。彼女の体は、軽く震えていた。
「ヴァージン、思った通り言えばいいのよ。アメジスタをどうしたいか、いつものように……」
「メドゥさん……。この状況で自分の気持ちを伝えるのは、なかなか難しいです……」
ヴァージンは、メドゥの目を見ながらそう答えるが、時折視界に飛び込んでくるソフィアの表情が気になって仕方がない。ソフィアに何か伝えなければならない緊張感が、ヴァージンの心臓の鼓動を少しずつ高めていた。
10秒ほどの空白が過ぎ去った後、ヴァージンはようやくソフィアに話を切り出した。
「ソフィアさん。私は……、スタジアムを建設することが、アメジスタ人に夢や希望を与える素敵なことだと思っています。もし、世界中の選手が集まるようなスタジアムができれば……、アメジスタは今とは比べものにならないくらい、元気な国に……、未来に希望が持てる国になると思っています」
そこまで言って、ヴァージンはソフィアの表情を伺った。だが、ソフィアはうなずかない。
「でも、その夢でアメジスタは戦争になってしまった。莫大な金を掛けることを、アメジスタ人は納得していない。それだけじゃなく、アメジスタが貧しい国の身の丈に合わない投資をしているの、世界中がおかしいと思っているはず」
「でも、スタジアムは必要なんです……。それだけは、分かってもらえませんか」
ヴァージンは小さく頭を下げたが、ソフィアは頭を下げたヴァージンに目を合わせようともしなかった。
「『オメガピース』がどちらを救うか、誰がどう見たって明らかね。あなたの主張に、世界は誰も味方しない」
(誰も味方しない……)
はっきりと言い切ったまま去って行くソフィアを、ヴァージンは目で追いかけることもできなかった。やがてソフィアと新聞記者が出ていくと、ヴァージンは目にいっぱいの涙を浮かべ、力なく立ち上がった。メドゥも呆然としたまま、ヴァージンに声一つ掛けることもできなかった。
(私の夢は、誰も味方しない……)
剣士たちをまとめる一人の女性に言われた言葉は、ヴァージンの心を深く切り裂いていくしかなかった。