第56話 ヴァージンの夢のせいで(6)
(戦争の力になって欲しい……)
頭を下げるビルシェイドの前で、ヴァージンの足は震えていた。ビルシェイドの顔を見つめたまま、彼女は何も返すことができなくなってしまった。
「お願いです……。グランフィールド選手は、アメジスタの中でもかなりの体力と、持久力があって……、ものすごく力になるんです……。それに、スタジアム建設に誰よりも賛成しているじゃないですか……。だから、ファイエル議員たち率いる推進派の一員として、戦って欲しいんです……」
ビルシェイドは再び顔を上げ、そこまで一気に言い切った。そして手をついたまま、ヴァージンに嘆願した。
(たしかに……、私は走るのが速くて、みんなの力になれる……。だけど、これはそのための脚じゃない……)
だが、ヴァージンはそれを言おうとしても、声にならなかった。同じくスタジアム建設を待ち望んでいる――夢と希望に溢れたアメジスタになることを願っている――ビルシェイドの目の前では、何も言えない。
気が付くと、ヴァージンは下を向いたまま、じっとビルシェイドの表情を見つめるだけだった。
(私、どうすればいいんだろう……。どう答えればいいんだろう……)
ようやく、ヴァージンは中腰になって、ビルシェイドの目をはっきりと見た。彼の瞳には、たくさんの涙が溜まり、その涙の向こう側から未来に向けて、一筋の光を向けているようだった。
「私……、ビルシェイドさんが私に告げたことは分かります。私に告げた理由だって分かります。でも、私の中では、少し迷っています……」
「そんな難しく考えないでください。一番先頭に立っているグランフィールド選手がバックアップしてくれるだけでも、推進派はものすごく力になるんです。反対派に打ち勝つための勇気だって、湧いてくると思うんです」
そう言うと、ビルシェイドは一度だけ頭を下げ、それから首を上げてヴァージンの出方を待っていた。その場で立ち竦む彼女には、残された選択肢が限りなく狭まっていた。
(私の脚は……、勝負に打ち勝つためのもの……。トラックの上で……、ライバルを負かすこと……)
彼女の目は、足元に向いていた。そこは、全く整備されていない、土だけの大地だった。それが、次の一言を決める原動力になった。
「私は……、まだ戦わなければいけない相手がいます……。少なくとも、8月まではレースが入っています……」
「8月までは……、参加できないってことですね……」
「とりあえずは、8月までは戦争に参加できません。ビルシェイドさんの気持ちだって分かるんです。でも……、私の中で、そっちに向かう一歩が踏み出せないんです……」
ヴァージンは、声を詰まらせながらビルシェイドに告げた。返事を受けたビルシェイドが、険しい表情から少しずつ緩んでいくのを、ヴァージンの目にはっきりと映っても、彼女はまだ迷っていた。
「私のするべきことは、走ることです。勝負することです……。だから、レースを優先したいんです。それに……、今すぐに答えを出せるような問題じゃないんです。それだけは……、それだけは分かってください」
最後は、逆にヴァージンビルシェイドに頼み込むようなトーンで言いきった。すると、ビルシェイドはそっと立ち上がって、小さな声で「ですよね」とだけ言った。
(ビルシェイドさん……、これが私の本心じゃないって……、分からないかもしれない……。でも、私がせめてでも言った言葉に、反対するような表情を見せていない……)
ヴァージンは、ビルシェイドにそっと手を伸ばした。すると、ビルシェイドもまたヴァージンに手を伸ばし、差し出された手を握りしめた。ビルシェイドは、それでもヴァージンを信じようとしていた。
(あとは……、保守党のジャイルズさんのところに行こうかな……。気持ちを伝えないと……)
ビルシェイドのいる場所からはっきりと見えた人だかりに、ヴァージンは決して向かおうとはせず、ロープをくぐって次に向かうべき場所を考えた。だが、人が全く歩いていない大通りを前にして、ヴァージンは行く場所を一つしか思いつかなかった。
(たしか、アメジスタ議会はここを曲がって……)
グリンシュタインの街には何度も訪れたが、国の中枢が集うエリアに向かったのは、文化省に行ったときなど数えるほどしかなかった。議事堂であれば案内も出ているので分かるが、保守党党首がいるのは党本部である可能性が高く、その場所がどこであるかは全く分からなかった。
(これだけグリンシュタインに来ているのに、私にも知らない道がある……)
聖堂の尖塔もビルの陰で全く見ることができず、そのうちヴァージンはどちらに向かって歩いているか分からなくなった。左右を見渡しながら、よりフォーマルな雰囲気が漂っている方面に向かって歩いた。
だが、10回角を曲がった後で彼女を待っていたのは、聖堂前の広場だった。
(ここに戻ってきてしまった……)
ヴァージンは、天高く伸びる聖堂を見上げながら、深呼吸した。グリンシュタインの空が澄み切っていた。だがその時、静寂が支配していたはずの広場に声が鳴り響き、ピリピリとした空気が澄み切った空を包んでいった。
――お前のせいだ!お前が全ての元凶だ!
(私に向かって……、誰かが叫んでいる……。どういうこと……)
ヴァージンは、その声のする方向を耳だけを頼りに探って、静かに振り向いた。顔も知らないグリンシュタイン市民が、一斉にヴァージンに迫り、彼女の10m四方をぐるりと取り囲んだ。
(私を取り囲むということは……、彼らはおそらく反対派なのかも知れない……)
ヴァージンが少しずつ目を細める中、取り囲む人々はヴァージンに向けて、一歩足を踏み出す。
「ヴァージン・グランフィールド……!お前がスタジアムを改修すると言ったせいで、街はこんな状況だ!」
「みんな、落ち着いてください……!私は……、ここまで混乱させるつもりなんて……、なかったんです!」
ヴァージンも、迫りくる市民たちに力強く言った。だが、100人以上もいる市民の前では、その声は全く響かない。彼らは、逆にヴァージンにもう一歩足を近づけた。
「アメジスタには……、夢や希望を持てる場所が必要……。だから私は、アメジスタが世界から見て恥ずかしくないような新しいスタジアムを、議会に……送っただけなんです!」
「いい加減にしろ……。国がここまで荒れた責任を取ってもらうからな。スタジアム建設事件の首謀者として!」
(首謀者……って!私が……、何の罪を犯したって言うの……)
ヴァージンは、囲みが最も手薄そうな方角を見極め、そこに向かって大股で飛び出した。ヴァージン自身をも糾弾する反対派に、これ以上何を言っても無駄だった。
数人の反対派に体当たりして囲みを抜け出すと、ヴァージンはできるだけ遠くに向けて走り出した。それから数秒で、彼女は向かうべき場所を空港に定めた。その後ろから追っ手が何人も付いてくるのを、彼女は感じた。
(私は……、空港まで走れるだけの力はある……。でも、相手は全速力で私を追ってきている……)
ヴァージンのペースは、体感的にラップ63秒ほどまで上げていた。ゼロからのペースアップは、もはや無意識だった。5000mのレースでさえ最初からこのペースで走り出すアスリートはおらず、このペースで走り続ければ、さすがのヴァージンも空港に着く前に力を消耗してしまうのは分かっていた。それでも、逃げるしかなかった。
(どうして……、どうして私はここで走らなきゃいけないの……)
いつの間にか、彼女の背が追っ手たちの息遣いを感じなくなっていた。だが、振り返るつもりも、そこから歩くつもりもなかった。勝負するべき相手もいないはずの空間で、世界最速のアスリートが一人で逃げ続けていた。
4000mも走らないうちに、ヴァージンの足の裏が重くなり、徐々にペースが落ちていく。だが、彼女にそこからのペースをどうしていくか考える余裕もなかった。ただ、空港に着いてセキュリティを通ることしか考えなかった。
(悲しい……。とても悲しい……。私は、追っ手から逃れるためにアスリートになったわけじゃないのに……)
グリンシュタイン国際空港にたどり着き、彼女は真っ先にオメガ行き臨時便のチケットをセキュリティチェックの係員に見せた。臨時便に乗ろうという客が珍しいのか、係員は何度もそのチケットを見返し、最後は便名を手でなぞってOKを出した。
その時だった。ちょうど空港に着いた臨時便から、多くの客が降りてきた。
(雰囲気が違う……。なんか、ものすごく物々しい……)
その中にビジネス客も観光客もほとんどいなかった。大勢乗っていたのは、「オメガピース」マークの腕章をつけた兵士たちだった。彼らは、隊列を組んで出口へと向かっていく。
名前だけは聞いたことのある組織を、ヴァージンは心の内で繰り返し呟いた。
(世界最強の軍隊「オメガピース」……。臨時便は、アメジスタに兵士を送り込むための飛行機だった……)
「オメガピース」兵たちは、ヴァージンに目をくれることもなく、出口へと向かう。通常であれば飛行機に持ち込めるはずのない武器を抱え、アメジスタの大地へと踏み出していく。推進派と反対派が議会でにらみ合っていたはずの対立が、国外の軍隊をも巻き込んだ事態に発展していた。
(おかしい……。こんなの、絶対おかしい……)
ヴァージンは、空港を出ようとする兵士たちの列を止めようとした。だが、ここまで全力疾走で駆け抜けた彼女に、次の一歩を踏み出すだけの力もなかった。セキュリティエリアを通った以上、一人だけになる可能性もある臨時便の乗客として、今更エリア外に出ることもできなかった。
(嫌だ……。アメジスタは、これからどうなってしまうんだろう……)
ヴァージンしか乗客のいない臨時便は、グリンシュタインから大空に飛び立った。ヴァージンは、首を横に振ることもできないまま、眼下に広がる、戦争前夜のアメジスタを見つめるしかなかった。
(このままだと……、私のせいで、アメジスタが戦争になってしまう……)