第56話 ヴァージンの夢のせいで(5)
(グリンシュタイン行きの飛行機、こんなにたくさん乗るんだ……)
オメガ航空8729便、グリンシュタイン行きの搭乗口の前に、人だかりができていた。ざっと数えただけで200人ほどだ。ヴァージンが遠征を含めて何度も飛行機を使っていたとしても、搭乗口の前にこれほどの人が待っているのは初めてのことだった。
彼女がよく見ると、「報道」と書かれた腕章をしていたり、手荷物で小型カメラを持っていたりする人が数多く待っている。空港の中を撮影している様子ではなく、むしろこれから向かう先――アメジスタで取材しなければならない場所――でどう動くかの打ち合わせをしているようだ。
――グリンシュタインの南西部で、推進派と反対派がにらみ合っているようだ。この道で両者を撮影できる。
――お互いの陣営が、聖堂は狙わないとしている。だから、広場には難民が集まっているはずだ。
(にらみ合い……。難民……。まだそんなことになっていないって、私は信じている)
彼らの声は、意識しなくてもヴァージンの耳に入ってくるのだった。アメジスタの「今」だけを見に行きたかったヴァージンにとっては、オメガを立つ前からそのことを知りたくなかった。その目で確かめ、少しでも反対派に声を掛けたい。そのためだけに、1日も満たない滞在時間で帰国しようとしているのだった。
数多くの報道陣が飛行機に乗り込んだものの、飛行機の中はところどころ空席ができていた。あれだけの人数が待っていても満席にならないことに驚く反面、逆にこれで臨時便の存在意義が分からなくなってしまった。
(いったい、何のために6時間後に臨時で飛行機を出すのだろう……)
飛行機がいつもよりも重々しく離陸し、やがて飛行機の外に青空が広がった。ヴァージンが何度も渡ってきた青い空の中で、彼女はアメジスタの方角を窓から絶えず追っていた。まだ全く見えるはずのない祖国に、少しでも変わっているところはないか気にするあまり、ヴァージンは飛行機の中で全く眠ることができなかった。
「間もなく、着陸態勢に入ります。シートのサインが点灯しますので……」
アテンダントが乗客にそう伝えたとき、ヴァージンの眼下にアメジスタの大地がはっきりと見えてきた。すぐそこに見えるのがドクタール博士の研究施設に近い海岸だと、彼女はいつものように確信した。
そこからグリンシュタインまでおよそ300km。着陸態勢に入ろうとしているとは言え、まだ首都までは遠い。それでもヴァージンは、絶えずアメジスタの大地を見つめていた。残りの距離が200km、150km……と徐々に近づいても、眺める景色に異変は全くなかった。
そして、グリンシュタインの街並みが飛行機の窓にはっきりと現れた。その瞬間、ヴァージンは息を飲んだ。
(やっぱり……、争っている……。さっき言ってたように、街の南西側が、どう見たって物々しい……)
議会の中で行われているだけだったにらみ合いは、報道の打ち合わせで予告されていたように、グリンシュタインの街中で行われていた。それどころではない。同じようなにらみ合いが、グリンシュタインのあちこちで行われているように、彼女の目には見えた。
(幸い、まだ殴り合いにはなっていない……。でも、議会じゃないところで対立しているだけでも、グリンシュタインは、やっぱり混乱している……)
ヴァージンは、債務危機の時に帰国することもできなかったため、これほどまでに荒れた祖国を目の当たりにするのは初めてだった。彼女には、目に見える何もかもが、異常と思うしかなかった。
(アメジスタに、スタジアムを作って欲しい……。そのためには、建設反対派を私が説得するしかない……)
ヴァージンがそう心の中で誓ったとき、飛行機がグリンシュタイン国際空港に着陸した。
「グリンシュタインの大聖堂まで」
ヴァージンは、空港からタクシーに乗り、まずロープの向こう側を目指した。ネットのニュースで、反対派が支持を取り付けていると報じられたことをそのまま信じるわけにはいかなかったからだ。
(ビルシェイドさんが……、いや、少なくともビルシェイドさんだけは……、反対派について行くわけがない!)
タクシーで現地に向かう間も、ヴァージンの脳裏に青年ビルシェイドの表情が何度も浮かんできた。ビルシェイドのその目は常に好奇心に満ちていて、たとえロープの向こう側に追いやられたとしても、夢や希望を捨てないたくましさに満ちているはずだった。
やがて、タクシーは両側に所狭しに建物が立ち並ぶ、グリンシュタイン中心部に入っていった。前回はアルデモードとの結婚式で中心部を訪れたが、その時は崩れた聖堂を修理するため、あちこちで通行止めになっていた。だが、今回は聖堂の前までタクシーが入っており、聖堂の尖塔もかつての姿を見せていた。
(今のところ、空港から大聖堂までは、特に荒れているような様子もなかった……)
ヴァージンは、タクシーを降りると左右を見渡した。聖堂前の広場で休んでいる人の姿がほとんどなく、普段にぎわう場所が早朝のように閑散としていた。その光景に、ヴァージンはかすかに不安を覚えた。
(工事が続いていたから、広場から人が消えた……。でも、もしそうじゃなかったとしたら……)
この近辺で暮らしていた人々が、どちらかの陣営に取り込まれた可能性――ヴァージンは、それを少しだけ思いつき、すぐに首を横に振った。はっきりとしたことが分かっていない以上、ネガティブに捉えたくなかった。
(誰か、知っている人がいたら……、街がどうなっているか声を掛けよう。いや、私の姿を見て声を掛けられるかも知れない……)
ヴァージンは、通い慣れた書店のある方角を目指した。だが、時折窓から顔を覗かせる人がいるだけで、通りを歩いている人は一人もいなかった。普段は狭く感じられるはずの道路が、この時ばかりは広々としていた。
(本当に、街を歩いている人がいない……。この街で起こっていることに、みんな怯えているかもしれない……)
そう考えているうちに、ヴァージンの目の前に書店が見えてきた。その書店すら、臨時休業を知らせる紙とともに、シャッターを閉めていた。その反対側にある、街を二分するロープが、誰も見えない街の中で揺れていた。
(あとは……、この近くにビルシェイドさんがいるかどうか……。できれば、いて欲しい……)
ヴァージンは、ロープをくぐって、分断された側のエリアに入っていった。その時、彼女の目の前で、黒い髪が風に揺らぎ、何かの気配を感じたかのように、一人の青年がそっと顔を覗かせた。
「ビルシェイドさん……!」
「グランフィールド選手……!ずっと会いたかったです……!」
ビルシェイドが、ヴァージンに向かって勢いよく走り出し、彼女を両腕で抱きしめた。会えただけにも関わらず、その目には涙がいっぱい溢れていた。
(ビルシェイドさん……、やっぱり何かに怯えていたのかも知れない……)
ヴァージンは、ビルシェイドの肩を優しく叩き、それからビルシェイドの目を見つめながら尋ねた。
「元気そうでよかったです……。ビルシェイドさんのこと……、私、ずっと心配してましたから……」
「そうですね……。もう、街が戦場になろうとしていますから……、毎日が怖くて怖くて……」
ビルシェイドは、涙を拭いながらヴァージンに告げた。それから、左腕を路地の奥に伸ばしてみせた。その腕が指し示す先には、多くの人々がにらみ合っていた。
(やっぱり、一般市民がこの争いに参加している……。もう議会だけの対立じゃなくなった……)
ヴァージンは、一度だけ首を横に振り、ビルシェイドに最も聞きたかったことを尋ねることにした。
「ビルシェイドさんは、いまアメジスタで起きている対立……、知ってますよね」
「スタジアムの建設か、市民の生活か……。そういう対立ですよね」
「そうです。ビルシェイドさんは……、夢や希望のある場所を……、信じてますよね」
「勿論です。グランフィールド選手が、アメジスタで走って欲しいと思ってます……。それは、この地区の人みんなに伝えています……。おそらく、大半は反対派に寝返らなかったと……、信じてます」
そう言って、ビルシェイドは再び涙を拭った。その言葉を言うだけでも、ビルシェイドがかなりのエネルギーを使っているように、ヴァージンには見えた。
「それはよかったです……。ビルシェイドさんだけは、信じていました。それで、建設推進派を応援しているんですね……」
「そういうことです」
ビルシェイドは、そこで一度言葉を止めた。それから大きく息を吸い込んで、一歩だけヴァージンに迫った。
「お願いがあるんです、グランフィールド選手……!とても速く走れる……、5000mや10000mを、世界一速く走れるグランフィールド選手に……、ぜひ戦争の力になって欲しいんです!」
ビルシェイドは、その言葉を言い終えた瞬間に膝をつき、ヴァージンに頭を下げた。