第56話 ヴァージンの夢のせいで(3)
ヴァージンが家に戻ると、ポストに封筒が入っていた。1ヵ月前に届いた議会報告と同じ筆跡で宛名が書かれており、その瞬間にヴァージンはその中に何が入っているか、おおよその想像がついた。
(新しいスタジアムが、ようやく動き出す……。間違いなく、その報告が入っている)
もう少し早いタイムを出せるはずだったこの日の結果を忘れるほど、ヴァージンは玄関の前で喜んだ。鍵を開け、バッグを置いて、汗だくになったレーシングウェアを洗濯機に入れると、彼女はすぐに封筒を手に取って、おもむろに中から紙を少しだけ取り出し、タイトルだけ読んだ。
次の瞬間、ヴァージンの手が止まった。
「アメジスタ国内情勢報告……。執筆者がファイエルさんになってるけど……」
議会報告と書かれているはずの見出しが、全く違うものになっていることに、ヴァージンはすぐに気が付いた。封筒の中から紙を取り出そうとするが、紙に書かれていることに不安を感じるしかなかった。
(どういうことなんだろう……。もし嬉しいニュースなら「スタジアム建設決定報告」と書けばいいものを……)
まるでワインのボトルからコルクを抜くかのように、ヴァージンは手紙を封筒から引き抜き、広げた。
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ヴァージン・グランフィールド様 & フェリシオ・アルデモード様
早速ですが、スタジアム建設をめぐって、アメジスタ議会が混乱に陥っていることを報告いたします。
新しいスタジアムの建設費を計上するかどうか、採決を行おうとしたとき、ある反対派の議員が、議場で推進派議員5名に、次々と暴力をふるいました。その議員は別の議員に取り押さえられましたが、暴力を受けた議員のうち数名は入院となり、採決どころではなくなりました。
その暴力をふるった議員の口からは、信じられない言葉が飛び交いました。
「アメジスタ国民をこの先何年も苦しませる、とんでもない箱ものを作る。それを阻止するための強硬手段だ」
入院となった議員が採決に参加できないとなれば、反対多数でスタジアム建設も否決になります。こんな強硬手段によって、議会運営がなされていいわけがありません。
当然、俺も含め、推進派が問い詰めました。まさに一触即発の状態で、互いににらみ合ったままその日の議会は閉幕、以来1週間、採決は行われていません。それどころか、「街で決着をつけてやる」と叫ぶ議員が、日に日に増えている状態です。はっきり言って、危険な状態に近づいています。
俺たちは、新しく建設することを含めたスタジアムの改修を提案しただけです。それが、どうして国を二分する議論になってしまうのか、未だに分かりません。
今後、アメジスタがどうなっていくのか、無事採決が行われるか、予断を許しません。
アメジスタ人が希望を持てるような実績を残す国会議員 ファイエル
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(スタジアムを建設するどころか、議会がこんなことになっていたなんて……)
手に持っていた紙に、ヴァージンは思わず力を入れた。クシャッという音と同時に、彼女は何度も首を横に振った。これ以上、文面を読み返す気にもなれなかった。
そこに、ちょうどアルデモードが家に戻ってきた。
「ヴァージン、先に帰ってたんだ。世界記録、おめでと……」
ヴァージンがアルデモードに振り向いた瞬間、アルデモードが思わず言葉を止め、一歩後ずさりした。
「どうしたんだい、その顔……。レースでいい結果残せたはずなのに……」
「レースは、たしかに記録を出せた。でも、ファイエルさんから、こんな手紙が来たの……」
ヴァージンは、アルデモードにその紙をそっと差し出した。タイトルを読んだだけで、アルデモードもまた息を飲み込み、その先に書かれた文章を読みながら、徐々に顔を曇らせていった。
「アメジスタの議会、いまこんなことになっちゃってるのか……。対立しているというか……」
「アルの言う通り、対立しているのは間違いない。でも、お互いが強い意思を持ってしまっているのが問題」
「強い意思か……。ヴァージンも、僕だって、こうしたいと思うことは何度もあるけど、ここまで事を起こしてしまったら、それはもう人間のエゴとエゴの闘いみたくなっちゃってるよな……」
アルデモードは、紙に書かれた文字を読みながらそう言い、全て読み終わった瞬間、紙から目を反らすように振り向き、ヴァージンに返した。
「たしかに、ヴァージンが気にしちゃうのは分かるよ。アメジスタの陸上選手として、一番待ち望んでいるわけだし。でも、政治の話だよ。僕らがとやかく言う話じゃない。もう少ししたら、入院した議員も戻ってきて、もう一度採決が行われるよ。反対派も、今回の一件でかなりイメージ悪くなったはずだし」
アルデモードが、そこまで一気に言い切ってヴァージンの表情を見つめている。ヴァージンは、そのアドバイスに、首を縦に振ることができず、黙るしかなかった。
「少なくとも、8、9年前のアメジスタ債務危機の時のようにはならないと思うよ。すぐに終わるさ。いくら、一部の議員が街で決着をつけたいと言ってても、彼らが戦う場所はあくまでも議場なんだから」
「まぁ、それがルールのはずだけど……。アルが言う通りに、このまま終わってくれるとも思えない……」
ヴァージンは、そこまで言ってため息をついた。すると、アルデモードがヴァージンにそっと微笑んだ。
「少なくとも、グリンシュタインの人間が、たった8年、9年で、血生臭い戦争をもう一度起こすと思う?」
「そのことだけが、数少ない支えなのかも知れない……」
そう言い残して、ヴァージンは紙を封筒に戻し、テーブルの片隅に置いた。その日一日、その手紙からなるべく遠ざかるようにして生活するしかなかった。
だが、騒動はそれだけで収まらなかった。その1週間後、再びアメジスタからの封筒が届いた。
「最初に殴りかかってきたのは、スタジアムの建設を推進するグループの一人です。先日ファイエル議員がそちらに手紙を送りましたが、明らかに脚色しています……、か……」
差出人が「アメジスタ保守党」としか書かれていない手紙を、ヴァージンは声に出して読み、再び手で握りつぶしかけた。普段トラックに叩きつける足で、家のリビングを強く踏みつけるほどだった。
(アメジスタの議会は、決してテレビで中継されることがないから……、やった、やらないの話はどちらを信じていいか分からなくなってしまう……)
ヴァージンとしては、アメジスタ保守党を応援することはできなかった。同時に、アメジスタの議会が想像していた以上に荒れていて、一向に事態が良くならないことだけは、文面から分かった。
(本当に、アメジスタはどうなってしまうんだろう……。アルの言ってたように、こんな短い期間でグリンシュタインの人々が戦ったり、略奪したりすることは、本当にないのかな……)
「なかなか13分台のタイムを出せないな。10000mだって、29分台は今年1回だけだ」
オメガセントラルでのレースが終わって2週間ほど経った頃には、その不安がヴァージンのタイムにも表れるようになった。珍しくマゼラウスにタイムを気にされたものの、ヴァージンはその最たる理由を口にすることすらできなかった。
(まだ、そこまで報じられていないし、議会内部の対立で収まっているけど……、心配になってくる……)
ヴァージンは、なかなか本気で走れない両足をわずかに見た。今にも走りたがっていた。
(でも……、レースでは出せる限りの力を出さなきゃいけない。それが、アスリートなんだから……)
普段のようにクールダウンを終え、明日こそ世界記録に近いタイムを出すとマゼラウスに告げてから、ヴァージンはトレーニングセンターを後にした。家までの道のりを走るつもりではなかったが、ヴァージンはボストンバッグを抱えたまま、歩道の上を軽く走り始めた。
だが、交差点で信号待ちをしているとき、すぐ横で信号待ちをしている車から、聞き覚えのある国名が流れた。
(アメジスタ……、反対派……?)
ヴァージンの脳裏で、その二つがわずか1秒にも満たない速さでリンクした。ついにニュースでアメジスタの対立が流れるほどになってしまったのだ。
さすがに、債務危機の時のように街中で崩れ落ちるようなことはなかったが、ヴァージンは信号が変わってもその音声が聞こえなくなるまでその場に立ち止まってしまった。
(いったい、アメジスタで何が起きているんだろう……。大ごとになっていなければいいけど……)
ここまでくれば、明らかにネットのニュースにも流れている。それ以上走る気力を失ったにも関わらず、彼女の中で「早く帰らなければ」という焦りが生まれていた。