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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
夢の代償 それは憎しみに満ちた戦火
343/503

第56話 ヴァージンの夢のせいで(2)

(今日はラップ68.2秒で走って、最後にいつもより少しだけペースを上げてみよう)

 オメガセントラルでの女子5000m。号砲と同時に、これまで何度も見てきたような光景――メリアムがヴァージンよりもやや大きいストライドで軽々しく前に出る――がヴァージンの前に現れた。

 メリアムはラップ67.8秒ほどのペースだが、少しずつ開いていく差でそのスピードははっきりと分かる。それでも、一度ラップ68.2秒に照準を合わせたヴァージンは、そこからペースを上げようとはしなかった。

(まだ、序盤から68.1秒や68秒ちょうどで走れるような自信はない。メリナさんが後半を意識している以上、私も後半で稼いだ方がいいはず)

 序盤のペースを上げるのはトレーニングで何度も試しているものの、ほんのわずかラップタイムを上げただけでも、最後に足の裏が重くなるのを彼女ははっきりと感じていていた。だからこそ、このレースでは無理をしないようにしていたのだった。

 1200mを、体感では3分25秒で駆け抜けたとき、メリアムはヴァージンが思っていたとおり10mほど前に出ていた。メリアムのほうは、ラップ67.5秒より少し遅いペースであるかのように見える。少しずつペースを加減しながら、中盤で最も落ち着けるペースを探しているようだ。

(ここで私が下手にペースを加減すると、足の負担が増えていく。私は、まだこのペースで行く)

 やがて、ヴァージンの後ろに付いていた数人のライバルの足音が聞こえなくなり、前を行くメリアムがトラックを踏む音が、ヴァージンの耳にかすかに聞こえてきた。ヴァージンの目が、少しだけ細くなる。

(メリアムさんを、どこでどう抜くか……。記録との勝負は、おそらくそれにかかっていると思う)

 ヴァージンの足は、いつも以上に軽く感じた。靴底からゆったりとしたエアーが、彼女の脚にパワーを少しずつ溜めていくかのように吐き出される。5周を終えて、全く変わらないペースを維持できたと感じるとき、彼女の目には、もう次の記録しかなかった。

(次の世界記録を出せば、またライバルを引き離せる……。今日は、自分との勝負しかしない)

 目の前にいるメリアムまでもが、ヴァージンと同じようなスパートを見せれば別だが、おそらくそのようなことはないと、ヴァージンは心で言い聞かせた。仮想メリナを意識した以上、少しだけでもいいからメリアムが食らいついてきて欲しいという想いもかすかにあったものの、いつの間にか頭の片隅に消えていった。


 3600mを、ヴァージンは10分14秒で駆け抜けた。普段勝負を始める4000mまで、残り1周となったところだが、彼女はその体にはっきりと言い聞かせた。

(ここからペースを上げていけば……、今の記録を大きく上回れるかもしれない……)

 コーナーを回り切ったところか、その先にある直線のどこかからか、それとも3800mのラインを駆け抜けたところか。ヴァージンは、スピードを上げるタイミングを見計らっていた。

 「Vモード」には、駆けだすだけのパワーが十分残っている。今にも本気で走りたがっているようだ。

(メリアムさんが動かない以上、きっかけを自分で作るしかない)

 これまで、何十回、何百回とスパートのタイミングを決断した彼女は、一度大きくうなずいた。その時だった。

(メリアムさんが……、少しだけペースを上げた!)

 ラップ67.5秒から68秒の間で、絶えずヴァージンを引き離していたメリアムが、軽々しくペースを上げた。それは、まるでネルスでのメリナを強く意識したかのように滑らかで、ヴァージンのスパートに食らいつく意思すら感じられる。

 その光景を目の当たりにしたヴァージンにとって、取るべき戦術は一つしかなかった。

(行くしかない……!)

 直線に入った瞬間、ヴァージンは「Vモード」でトラックを強く踏みしめた。その瞬間、シューズの底から湧き上がるような力が彼女の脚に注ぎ込まれる。普段より300m近く手前から、ラップ65秒までペースを高める。

(メリアムさんが、徐々に近づいてくる……。ラスト1周を待つことなく、私は追い抜けるはず……!)

 4000mを駆け抜けたとき、体感的には11分21秒。前回世界記録を出した時よりも、明らかにタイムは上回っていた。次の記録に手が届くかどうかは、少しだけ早く始めたスパートが最後まで続くかだけだった。

 だが、4200mを過ぎたコーナーで外側からメリアムを捕らえた時、彼女の気配に気付いたメリアムがスピードを上げた。ヴァージンのラップ65秒を意識しているのか、メリアムがそれから懸命に逃げようとしている。

(これこそ、メリナさんが最近見せる戦い方……。でも、メリナさんよりは遅いスパートであるのは間違いない)

 ヴァージンは、そこで再びギアを上げる。トップスピード一歩手前だが、メリアムはもうそのスピードにもついていけないようだ。ヴァージンが瞬く間に追い抜いた瞬間、メリアムのペースが元に戻ったようにさえ思えた。

 もはや、ヴァージンに残されたのは、己との勝負でしかなかった。だが、そこでヴァージンに欲が出た。

(ラストスパートも、少しだけ長めにいけるかも知れない……)

 4400mを、体感的には12分25秒で駆け抜けている。最後の1周に入った瞬間からトップスピードに乗せても、次の記録はもう間違いないところまで来ていた。だが、追ってくるライバルを引き離すためには、より速いタイムをその脚で叩き出すしかなかった。

 決断は早かった。コーナーの途中から、ヴァージンは一気にスピードを上げていった。

(ラップ57秒……!私はいま、いつものスピードに乗っている!)

 最後の1周を告げる鐘が、ヴァージンの耳に響く。彼女の耳から音の消えていく時間が、いつもより短く感じられた。全力で駆け抜けることしか意識になかった。そして、そのまま最後のコーナーにさしかかった。

(なに……、このブレーキがかかる感じ……!)

 足の裏に激しい衝撃を感じた瞬間、ヴァージンは右足が重くなっていくのをはっきりと感じた。早め早めのスパートを前に、溢れかえっていたはずの靴底のパワーも消え、もはや体だけで前に進むしかなかった。

(少しずつ、ラップが落ちていく……。少し早めにスパートを始めても、私の体に限界が来てしまう……!)

 それでもヴァージンは、最後の直線を力の限り駆け抜けるしかなかった。できるだけストライドを大きく取り、体の重心を前に傾けた。懸命にゴールラインに飛び込んだ後、ヴァージンはトラックに勢いよく倒れこんだ。

(たぶん、私……、記録には勝ったはず……!)


 13分56秒19 WR


 ほんのわずか目を閉じたヴァージンは、スタジアムの歓声に勢いよく目を開け、すぐに記録計を見た。そこには、ヴァージン自身が叩き出した、新しい世界記録がはっきりと刻まれていた。

(引き離すのは、まだ道半ばだけど……、次の記録を出せて……、嬉しい……)

 ヴァージンは、記録計に腕を載せ、カメラに向かって笑顔を見せる。これまで何度も経験した「儀式」は、何度経験したとしても笑顔にしかならなかった。

 その時、撮影していたカメラがヴァージンに近寄ってきた。ふと横を見ると、そこにはグローバルキャスのロゴが描かれたマイクがあった。

(グローバルキャス……。なんか、ものすごく久しぶりにインタビューされるかもしれない……)

「新記録おめでとうございます、グランフィールド選手。今日は、どんな記録が出るだろうと期待していました」

「ありがとうございます。私も、今日は記録しか頭にありませんでした」

 メリアムという有力なライバルがいて、少しだけヴァージンのスパートに食らいついてきたにも関わらず、世界記録を出した後のヴァージンは、そのことすら忘れてしまいそうだった。その後すぐに、メリアムさんも意識しました、と付け加えたほどだ。さらりと付け加えた言葉に、インタビュワーがどこか納得しているようだ。

 しかしその直後、インタビュワーからの質問に、彼女は現実に引き戻されるのだった。

「何となく、メリアム選手を抜き去ったときに、あとは流そうとしていたような気がしますが、どうですか」

「流してはいません。スタジアムで走っていた私を見たら、最後は流してしまったように見えるかも知れませんが……、それはだだ、私の力不足です」

「力不足、というのはどういうことでしょう」

「本当は、あそこからスパートを始めても、最後までスピードがついてくるような、そんなスパートを見せたかったんです。だから……、まだトレーニングが足りないように思えます」

 そのレースでただ一つの反省点に対し、ヴァージンは意識的にそう言っていた。話しているうちに、自分自身に対する悔しさがあふれ出ていた。笑顔を見せていても、尽きてしまったスパートを思い返さずにはいられない。

「では、次はもっとパワーアップしたグランフィールドを見られるってことですね」

「はい。次は、13分55秒切りを目指そうと思います!」

 間違いなく出せたはずのタイムをマイクに告げたとき、観客席の一角から拍手が湧き上がるのをヴァージンは感じた。その瞬間、彼女はすぐにでもタイムを出せるように思えた。


 だが、時同じくして、ヴァージンがショックを受けるような封筒が家に届いたことを、その時は全く知る由もなかった。

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