第56話 ヴァージンの夢のせいで(1)
ネルスでの敗北から3週間後、ヴァージンはマゼラウスと約束した時間よりも3時間も早く、エクスパフォーマのトレーニングセンターで室内トレーニングをしていた。
(どれほどのスピードで走れば、最後のスパートでも全力を出し切れるのか……。それとも、ラップ68.2秒で走って、最後の1000mでどれだけスパートを速くできるか……)
予約していた時間は、まだ先だ。外のトラックは他の選手が使っており、全力で走ることができない。その中で彼女は、室内のランニングマシンを使って、ペースを自ら修正しようとしていたのだった。
(私は……、まだ立ち止まっていられない……。次の世界記録を出して、ライバルを突き放したい……)
不意に、トレーニングルームのドアが開いた。ちょうど5000mを走り終えたところだったので振り返ると、そこにはマゼラウスがドアから顔を覗かせていた。
「いつものようにトラックにいないと思ったら、やっぱりここにいたか……」
「あっ……、もう時間ですね……。もうちょっとウォーミングアップできるかと思っていました」
「なんか、5000mを全力で走ったような汗を流しているようだが、これから外のトラックに行っても大丈夫か」
「大丈夫です。さっきまで、自分のペースをどうすればいいか考えていただけです」
「そうか……」
マゼラウスは、腕を組みつつ、ランニングマシンの横でスポーツドリンクを飲むヴァージンに近づいた。
「お前にも、危機感があるようだな。ついこの間までは、絶対的な自信にあふれていたような気もするが」
「危機感は……ありますね。13分台を出しても勝てるとは限らないですから。でも、成長を止めない限り、私が世界最速という自信は揺らがないとも思っています」
そう言って、ヴァージンは一度うなずいた。すると、マゼラウスがヴァージンの目の前でかすかに唸った。
「お前も、十分覚悟を決めたようだな。また一つ、大人になったというか……、そうやって考えること自体がトップアスリートそのものなのかも知れない」
覚悟、という言葉を告げたとき、マゼラウスの表情が軽く緩むのを、ヴァージンははっきりと感じた。それに動かされるように、ヴァージンの表情もかすかに緩んだ。
「コーチのその表情を見て、きっとコーチにもそういう時期があったように思えます」
「まぁな。絶好調の時は、そういう気持ちで私もトレーニングに臨んでいた。何もかもが前向きだったな」
そう言うと、マゼラウスは手招きをして、ヴァージンをトラックへと誘った。その日の5000mタイムトライアルは、数時間前にランニングマシンで走ったにも関わらず、ヴァージンは13分台を叩き出したのだった。
「ただいま、アル」
「おかえり」
夕方、トレーニングから戻ってくると、先にチーム練習から戻っていたアルデモードが一枚の紙を眺めていた。印刷の質感が、明らかにオメガではなさそうに思えたその時、アルデモードがその紙をヴァージンに見せた。
「今日、ヴァージンと僕宛に、議会報告が来たんだ。アメジスタのファイエル議員からね」
「ファイエルさん……。こんなに早く議会報告が来るなんて思ってなかった。……でも、アルの名前も書いてるって、なんか信じられない」
「ほら、この前のスタジアム改修案、同じ封筒に二人の案を入れたじゃん。だから、一緒に届いたんじゃない?」
「そう言えば、アルの案も入れてた……。すっかり忘れてた」
「まぁ、僕の案はどうやら採用されなかったぽいけど……。で、今はこんな感じなんだって」
アルデモードが議会報告をヴァージンに渡すと、ヴァージンはそれを食い入るように見た。
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ヴァージン・グランフィールド様 & フェリシオ・アルデモード様
いかがお過ごしでしょうか。
先日は、スタジアムの改修案をご提示いただきありがとうございました。読ませていただきましたが、走ることしか知らない俺から見ても、グランフィールドの考えるスタジアム案が、俺たちアメジスタの人々にとって、ものすごく夢のある施設のように思えます。
頂いた案をもとに、アメジスタの議会で3回ほど文化委員会を開きました。この案に賛成してくれる議員は、委員会の中では6割ほど。ただ、全議員に働きかけていますが、今のところ支持が不支持を少しだけ上回っているような感じです。中には「生活重視だ!」と声を大きくして主張する、農村出身の有力議員もいるので、巻き返されないか少しだけ心配しつつ、自分と、グランフィールドの夢を俺は信じます。
来月、採決を行うそうです。次の議会報告で、素晴らしいニュースを伝えられるよう、最後まで頑張ります。
アメジスタ人が希望を持てるような実績を残す国会議員 ファイエル
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「貧しいアメジスタで、そう簡単にみんながスタジアム建設推進ということにはならないのかな……。でも、少しだけ上回っていると聞いて、僕は少しだけ安心したよ」
「私も……。アメジスタにとって、きっとかけがえのない存在になるスタジアムになると信じてるから、私は絶対、議会で通って欲しいと思ってる。いや、絶対通ると思う!」
そう言うと、ヴァージンは天井を見上げた。眩い天井に、アメジスタの青空が映し出されているように見えた。
世界競技会連覇を狙うヴァージンにとって、この3ヵ月は、メリナをはじめとしたライバルたちを少しでも引き離すための期間と言ってよい。6月のオメガセントラルでのレース、7月のケトルシティでのレースと、かつてヴァージンが世界記録を叩き出したスタジアムで、さらにタイムを伸ばすというスケジュールが、それから数日のうちに決まった。代理人のメドゥも、ヴァージン自身が決めた方針にすぐにうなずいたほどだ。
6月に向け、トレーニングでも何度か13分58秒台を出しており、彼女の中で間違いなく世界記録を先に進められるという実感が溢れていた。そして、モチベーションを高めたままの状態で、レース当日を迎えた。
(そろそろ議会で採決されると思うけど、間違いなく、アメジスタの新しいスタジアムの話は通ると思う。私は、その新しいスタジアムで走るために……、その姿を見せるために……、今日もレースで最高の力を出す!)
家からそれほど離れていないオメガセントラルのスタジアムに向かうヴァージンは、左手の拳を軽く握りしめながら受付に向かう。普段から早めに会場入りする彼女は、この日もレース4時間前に入った。だが、受付で出場選手一覧を見たヴァージンは、既に一人のライバルが先に受付を済ませていることに気付いた。
(メリアムさんが……、私よりも先に来ている……。いつもこんな早く来ないはずなのに……)
受付で、ヴァージンはかすかに息を飲み込んだ。ローズ姉妹がこのレースに出ていない分、メリアムにとっては、ヴァージンと真剣勝負をする絶好の機会であるかのように捉えているようだ。
(今のメリアムさんは……、そこまで強敵じゃないかもしれない。序盤から飛ばすけど、最後にペースを崩すことも多い。でも、私のスパートを研究すれば、メリナさんと同じようにタイムを上げるかも知れない)
ロッカールームに向かうヴァージンの中で、この日のメリアムが仮想メリナであるかのように思えた。イメージしながら歩き、ちょうどロッカールームに入ろうとしたとき、紫の髪が出てくるのがはっきりと見えた。
「メリアムさん……。すごく早く来てますね……」
「当たり前よ。今日は、グランフィールドと真剣勝負をしたいから、レース前に集中できるじかんが欲しいの」
そう言うと、メリアムはヴァージンから素っ気なく顔を反らし、やや大股で歩き出した。
(メリアムさん、今日は本気だ……。私もそれに負けないようにしないと……)
ヴァージンの中で勝手に抱いたはずの「仮想メリナ」が、少しずつ現実のものになるのを、彼女は感じた。
サブトラックでも、メリアムとはほとんど顔を合わせることなく、本番のレースを迎えた。世界屈指の大都市オメガセントラルのスタジアムには、ヴァージン自身の世界記録を大きく掲げた観客が何人かいるなど、会場全体がヴァージンに追い風を送っているように思えた。
(それでも、私はレースに集中する……。立ち止まっていたら、いつか抜かれてしまうのだから……!)
メリアムの表情を、ヴァージンは横目で見る。メリアムは、じっと前を見つめ、瞳をヴァージンに向けようともしなかった。カメラに映るメリアムの表情も、どことなく険しそうだった。
「On Your Marks……」
ヴァージンにとって、ライバルを引き離すためのレースが始まろうとしていた。ヴァージンの瞳の内には、13分57秒72という、いまの世界記録しか映っていなかった。