第55話 ゼロから作るクラス1のスタジアム(6)
走りたい。勝負したい。突然そう切り出したアルデモードが、さらに話を続ける。
「ヴァージン、この家のある区画の外周がどれくらいあるか、正確に測ったことある?」
「感覚的に、400m近くあると思う。厳密に言うと、398mくらいかな……」
「さすが、1周が400mある場所に慣れている君らしいよ。僕たちの家の前の道以外は、少し外側を走るようにすればちょうど400mだし、5000mにするためにはスタート位置を家の反対側じゃなくて、少しだけ長い距離を走るようにすればいいんだ」
アルデモードに言われるままに、ヴァージンは家の周辺の道路を思い浮かべた。コーナーこそ直角だが、仮にその角で大きく回れれば、少しはトラックの形に近くなるはずだ。
「正確に距離とスタート場所が分かれば、私も帰ってきてから一走りできる……」
「そういうこと。ただ、家の前の道で勝負できないんだよな……。あそこは歩道を通らないと、たぶん後ろから来た車にはねられるかもしれない」
ヴァージンとアルデモードの家の周辺には、それほど車通りの多い道はない。だが、入口の門を出て正面にある道路は、近くの幹線道路が渋滞しているときに抜け道として使われることがあり、大型トラックが速度を上げて通ることがある。それ故、その道には高さ10cmほどの縁石で区切られた歩道があり、ちょうどその歩道がある側がヴァージンたちの家になる。この道さえ気を付ければ、何周でもトレーニングができそうだった。
「アメジスタだと、車がそんな走ってないから、人にさえ気を付ければグリンシュタインの街中とか普通に走れたけど、オメガは車があるからコースが限られてしまう。でも、家の前で走れると知って、なんか嬉しい」
「君が食いついてくると思った。だから、僕もここで君と勝負したいんだ。15年ぶりに」
(15年ぶり……!そんなにアルと走ってなかったんだ……)
ヴァージンは、あまり音を出さずして息を飲み込んだ。
「もしかして、私とアルが初めて出会った頃に、あの聖堂の近くから陸上競技場まで勝負した……!」
「そう。それ以来だよ。その時は、僕が1分以上の差をつけて勝ったような気がする」
「思い出した。アルの背中が全然見えなくて、悔しい思いをした記憶がある。サッカーやってたら、持久力はかなりあるって、あの時思い知ったような気がする」
ヴァージンの脳裏に、アルデモードと一緒に走った記憶が断片として蘇り、それが少しずつ大きな記憶になって紡がれていく。そして、走り終えた先に待っていた荒れ果てたスタジアムまで思い出して、大きくうなずいた。
「僕は、45分間走り続けてないといけないから、持久力には自信があるよ。でも、ヴァージンだってその時から比べたら、間違いなく成長している。もし、今日とか明日とか……、君と一緒に走ったら、いい勝負になるんじゃないかなって、僕は思うんだ」
アルデモードは、チームの練習でジョギングをすることはあっても、5000mの距離を走って正確なタイムを計測したことはない。それでも、ヴァージンよりも長い時間動き続けなければならない分、彼の走り続ける力はヴァージンと同じか、上であるように、その言葉を聞いたヴァージンは思えた。
「そこまで自信があるなら、明日の夜、人が通っていない時間帯にアルと走りたい。勿論、本気で」
「僕もだよ。5000mを世界一速く走れる君と勝負できるなんて、夢のようなレースだもの」
アルデモードの右手がそっとヴァージンに差し出されると、ヴァージンはそれを強く握りしめた。ヴァージンの指には、アルデモードの体から溢れ出る熱が伝わり始めていた。
(陸上選手として、私はアルに負けるわけにいかないから!)
翌日のトレーニングが終わると、二人は普段よりも早めに夕食を取り、その時に3時間後に走ることに決めた。21時を過ぎれば、トラックもまず通ることはなく、人通りもほとんどいない。一方で、この区画には照明が多いため、アルデモードやコースを見失う心配はなかった。
勝負の1時間前まで、買ったばかりのランニングマシンで体を慣れさせ、それからはコースとなる家の正面を30mほどの幅で行ったり来たりと、レースの間隔を掴んでいた。
やがて、アルデモードが玄関から出てきた。レーシングウェアの上にトレーニングシャツを羽織り、トレーニング用の「Vモード」を履いたヴァージンに対し、アルデモードも試合用のスパイクに、グラスベスのユニフォームと、いかにも戦闘態勢の着こなしをしていたのだった。
「やっぱり、アルは自分の力を出せる最大のギアで臨むのね」
「勿論。そのために、僕は君がいないときに、10周くらい本気でここを走ったんだ」
「じゃあ、余計勝負し甲斐がある」
そう言うと、ヴァージンはゴールとなる家の門の横にトレーニングシャツを置き、二人並んでスタート位置に向かった。スタートは、二人の家を出て反時計回りに回り、角を二つ曲がった先にある公園の入口だった。
「ここなら、距離的にも12周半でちょうど5000mになると思うんだけど、どう?」
「いいんじゃない?角からの距離もちょうどいいし、角を大きく曲がればちょうど5000mになると思う」
「じゃあ、ここで決まりだね」
そう言うと、アルデモードはレース前のヴァージンがそうするように、軽くジャンプする。ヴァージンもやや遅れて小さく飛び跳ねる。その隣にいるのが、決してパートナーではなく、ライバルであるかのように。
「On Your Marks……」
二人は、息が合わせるように同時に走り出した。最初の「コーナー」までの距離が普段よりいくらか長いことに違和感を覚えかけたが、すぐ横からアルデモードもスピードを上げながら曲がってくるので、その違和感すらすぐに消えた。それから間もなくして、家の前の通りへと続く「コーナー」を回り、歩道の内側に回り込むが、ここで早速アルデモードが先に「コーナー」を回り切った。
(歩道の幅を考えると、大きく横に出て回ることができない……。最後の直線で勝負しようにも、このコースはかなり厳しい……。だから、普段より早めに勝負をかけたほうがいいのかも知れない……!)
アルデモードのペースは、ラップ68秒かそれよりも少し速いほど。前日のレースでのメリナのように、序盤からじわじわと差をつけられるようなことはないが、勝負できる場所が少ないため、意識しなければアルデモードの背中に食らいつくようにペースを上げてしまいそうだった。
(アルの走りは、ピッチを駆けているぶん、力強い。でも、かなり小刻みで……、私たちのようにゆったりとしたストライドで走っていない……。持久力はあると思うけど、たぶん長距離を本気で走っていると、この走り方だと疲れそうな気がする……)
3周が終わり、10m近く先にいるアルデモードが電柱からの白いライトに照らされる。陸上選手のほとんどが見せないような細かい動きを、アルデモードは見せていた。
(問題は、最後私のスパートに付いて来られるだけでの実力が、アルに残されているか……。アルに力が残っていたら、このレースはかなり面白いことになるかも知れない……)
5周、6周と、徐々に周回を重ねていくヴァージンは、早くも4000m手前からのスパートを意識し始めた。と同時に、15年前と明らかに展開が違うことにも気付いた。少なくとも、15年前はこの時点でアルデモードの姿が全く見えなかったのだから。
(私は、アルに支えられてきた15年で、どれだけ速くなったか……、その力を見せつける!)
残り3周ちょうどとなる、家の門の前を駆け抜けたとき、「コーナー」に消えかけたアルデモードを、ヴァージンはじっと見つめ、アスファルトの道に、右足を力強く叩きつけた。トラックで使われているゴムチップウレタンと比べるとアスファルトは硬いため、少しだけエアーの反発力に違和感を覚えるものの、ヴァージンはその瞬間から一気にスピードを上げていった。そこからわずか1周で20m以上離されたアルデモードの背中にぴったり付き、歩道から「コーナー」を回ったところで一気にアルデモードを抜き去った。
(アルデモードがサッカーで負けたくないように、私はこの種目で負けるわけにいかないから!)
勝負すべき相手はいないにも関わらず、ヴァージンは普段と同じように、そこからトップスピードまで徐々にペースを上げていった。アルデモードの気配は、いつの間にか遠くに消えていた。
結果は、30秒以上の差を付けてヴァージンが勝利し、遅れて入ってきたアルデモードの息は、ヴァージン以上に上がっていた。
「やっぱり、トップアスリートの君にはかなわないよ……。でも、本気のスパートが、君の後ろから見れて、本当に幸せだよ……」
「私も……、15年前の悔しさをここで晴らせて、本当に良かったと思う」
二人のアスリートは、家の前で互いに手を取り合い、本気で走り続けたお互いをねぎらった。
二人の結婚生活は、まだ始まったばかりだ。