第55話 ゼロから作るクラス1のスタジアム(4)
ネルスのオレンジがかった空の下で、背の高いメリナが序盤から引っ張っていく。
ヴァージンとメリナとの差は、最初の1周で5mほどだったが、2周で10m、3周を終えた頃には15mほどと広がっていった。それでも、ヴァージンは序盤からスピードを上げようとはせず、これまで何度も意識してきたラップ68.2秒のペースを守り続けた。
すると、4周を駆け抜けたあたりでメリナの目が突然ヴァージンに向けられた。
(メリナさんが、この段階で私を睨んでいる……。やっぱり、私を意識しているのは間違いない……!)
長距離選手が後ろを振り向くのは、徐々に迫られていると気配で感じたときが多い。メリナもそうすることが多い。一方で、突き放しつつあることが分かっているにも関わらず振り向くのはほとんどない。ヴァージンは、鋭く向けられたメリナの目を、牽制のためだと即座に確信した。
(そんな目をされても、私は最後の1000mでスパートをかけ、勝負しなければいけない。勝つための力はある)
踏み慣れた材質のトラックを、「Vモード」が大きなエアーを弾かせながら駆け抜ける。足元に宿るパワーは、この後のメリナとの勝負に挑むには十分すぎるほどだった。
(メリナさんのスピードは、この先も上がっていかないはず。きっと私が動き出してから、メリナさんもスパートを見せ始めると思う。どこで勝負を仕掛けるか……)
ヴァージンの読み通り、3000mを過ぎたあたりまではメリナのストライドが大きくなることはなく、ラップ67.5秒ほどのペースで進んでいった。一方のヴァージンは、3000mを駆け抜ける時に8分33秒という数字を記録計で見て、早くも世界記録との勝負をしようと確信した。
(あと1周したら、ペースを上げていいかも知れない……)
ヴァージンが、メリナの後ろ姿を睨みつけるようにしてそう言い聞かせたときだった。突然、前を行くメリナが、明らかにギアを上げたような動きを見せた。
(ほんのわずかだけど、メリナさんがペースを上げた……!)
それまで少しずつ引き離していたメリナが、ここに来て本気で突き放しにかかった。3200mで40mほど開いていた差は、次の直線が終わる頃には45mほどの差になっている。これまでとは明らかにペースを変えていた。
(ラップ67秒か……、それよりも少し速いペースを見せている……。このままスパートまで決まると、メリナさんは軽く13分台に手が届くかもしれない……)
3600mを過ぎたあたりで、ヴァージンはメリナのタイムを軽く計算した。これまでのメリナであれば、そこから一気に速くなることがなく、最終的には14分台に少し食い込むほどのタイムで終わる。だが、ガルディエールの言うように、ヴァージンのスパートをも打ち砕く走りを見せれば、ヴァージンの持つ世界記録を軽く更新してしまいそうな勢いだった。
そのような計算結果が出たとき、ヴァージンは自分に語り掛けた。
(違う……。13分台で走れるのは、私だけ……。その記録を出せているのは、私だけのはず……!)
ヴァージンは、4000mのラインを待つことなく、3800mの手前から少しずつ加速を始めた。普段のスパートで最初に見せる、ラップ65秒ほどのペースで、50m近くの差まで広がったメリナを追撃にかかった。
その時だった。一度はラップ67秒ほどのペースまで上がったメリナが、またラップ67.5秒ペースに戻した。
(私がスパートを見せ始めたのに、メリナさんがペースを緩めた……)
少しずつしか縮まらないはずの差が、4000mを過ぎたあたりから、ヴァージンの目にメリナの背中がはっきりと近づいてくるように見えた。だが同時に、メリナの走りにまだ余裕があるように感じた。
4200mに近づいたとき、メリナはヴァージンに振り向いた。その表情は、かすかに笑っていた。
(メリナさんは、私と勝負をしたがっている……。13分台のタイムを持つ身として、引き下がるわけにいかない)
4400mを駆け抜けたとき、ヴァージンとメリナの差は30m弱になっていた。普段であれば、最後の直線に入る前にあっさりと抜ける差だ。ヴァージンは、普段と同じようにラップ62秒までペースを上げようとした。
そのわずか1秒早く、メリナの体が再び加速を始めた。今度はラップ67秒で止まることはなく、一気にラップ65秒を上回るペースまで上げていった。ヴァージンも普段のようにトップスピードの一歩手前まで加速するが、差がなかなか縮まらない。ラスト1周の鐘がメリナの横で鳴り響いたとき、二人の間には20m以上の差があった。
(ここは、私の本気を見せつけるしかない……!)
メリナと、そして世界記録との勝負に挑む「Vモード」のボルテージが、シューズの底に描かれた炎のように燃え上がった。これまで何度も世界記録を叩き出してきたその脚が、トップスピードに向けて加速を始めた。
だが、メリナもほぼ同時にペースを上げ、ラップ63秒、62秒、61秒と加速していく。瞬く間に、メリナが本気のスパートをヴァージンに見せつけた。背の高いメリナが、よりダイナミックにトラックを駆ける。
(これが、世界競技会の時に私の横で見せたスパート……。引き離すだけでも大変だったペース……)
ヴァージンの最大の武器と言っていい、残り1000mからのスパートが、少しだけペースが遅いとは言えメリナも「習得」しつつある。それが現実だった。
アドバンテージの小さくなったヴァージンに、つけられた差を0にすることはあまりにも難しかった。懸命にメリナを追い続けるが、直線に入って外側に出る分、タイム的にはロスになってしまう。
背中に手が届くか届かないかのところで、メリナが先にゴールラインを駆け抜けた。
13分59秒37
記録計の文字がヴァージンの目に飛び込んだ瞬間、彼女は首を横に振り、スタジアム上空のオレンジ色の空を見上げた。明らかに、ヴァージン自身が出したタイムではなかった。
(一昨年のオリンピック以来かも知れない。私が負けたの……)
13分台の世界記録を出してから、一度も負けたことのなかったヴァージンは疲れ切った表情を隠すようにメリナまで歩き、その肩を抱いた。かたや、ヴァージンのタイムは14分01秒32。世界記録を出されたわけではない
にもかかわらず、「おめでとうございます」と言うヴァージンの声は、かすれていた。
(ガルディエールさんの言っていたように、スパートを打ち砕かれ……、それに、13分台で走れるのが私だけじゃなくなった……。私の自信につながっていただけに、ものすごく悔しい……。でも、これで、また私の体に火が付いたような気がする……!)
二回、三回とメリナの肩を叩きながら、ヴァージンは早くも次の勝負のことを考えていた。
「やっぱり、メリナが13分台で走れる力を身につけていたか……」
スタジアムの外で待っていたマゼラウスもまた、悔しそうな表情を浮かべていた。だが、その表情を見た上で、ヴァージンは落ち着いた声で返した。
「メリナさんは、スパートを手に入れた時点で、いつ13分台になってもおかしくなかったと思います。それに、私以外にも13分台で走れるライバルがいると知って、悔しさは感じましたが、逆にもっと強くなりたいと思うようになりました」
「そうか……。ライバルが強いほど、本気になれると言われるからな……」
「その通りです。だから……、もう少しだけ早くからスパートを始めていきたいし……、できるなら少しずつスパートを底上げしたいくらいです」
悔しさを通り越して、真顔でマゼラウスに告げるヴァージンに、マゼラウスは腕組みをしながらしばらく考えるしぐさを見せた。そして、数秒の間を置いて、口を小さく開いた。
「お前の一番の武器を壊さない程度に、少しだけ底上げするか……。それともしないほうがいいか……、少し考えさせてくれ。ただ、今のラップ68.2秒のままでは、いずれ記録にだって限界が来るから、そこは何とかしなければならないと思っている」
「ありがとうございます。私も……、できれば55秒とか54秒とか、もっと記録を伸ばしていきたいです」
「ただいま」
その日、ヴァージンが家に着くと、アルデモードがいつものように笑顔で出迎えた。決して笑顔で帰ってくるはずがないと分かっていたのか、彼はヴァージンを抱くことはせず、小さくうなずいて、肩を何度か軽く叩いた。
「あと少しがどれだけ遠い距離なのか、今日スタジアムで見てて分かったよ」
「そうね……。アルの言う通り……、少しだけ強くなった相手に追いつくの、私でも大変だった」
そこまで言って、ヴァージンはバッグをリビングのテーブルの横に置いた。その時、彼女は何かを思い出したかのようにアルデモードの顔を覗き込んだ。
「もしかして、今日スタジアムに行った?私を応援してたんだ」
「まぁ、時間があったからね……。でも、もう一つ理由があって……、僕も国際規格のスタジアムがどうなっているか気になったんだよ……」
アルデモードはメモ帳を取り出し、スタジアムの様子がびっしりと書かれたページをヴァージンに見せた。