第55話 ゼロから作るクラス1のスタジアム(3)
ヴァージンが振り返り、その目に黒い髪が映った瞬間、彼女は思わず口を手で押さえた。
「ガルディエールさん……。まさか、こんな場所で会うなんて思わなかったです」
ヴァージンにとっては、3年前の世界競技会で契約解除を告げられて以来、ガルディエールの姿を目にすることになった。一流の代理人としての落ち着いた表情は何も変わっていない。ただ一つ変わったことと言えば、そのガルディエールが、ライバルのメリナのバックに付いたということだった。
「今日は、こんな早い時間から何しに来たんですか。レースまで、まだ6時間もありますよ」
「スタジアムの見学に来ました。アメジスタで、やっとスタジアムの改修が動き出したので……、その案を出して欲しいと、アメジスタの国会議員から手紙が来たんです」
「なるほどね……。でも、その改修が終わるまで、君が世界の頂点に立ち続けることは、たぶんないでしょう」
ガルディエールが、やや声のトーンを落としながらヴァージンに告げる。その目は、もはや笑っていた。
「私は……、まだ限界を感じていません。今までと同じように、何度も世界記録に挑み続けます」
「その世界記録も、君が太刀打ちできない選手が現れれば、あのウォーレットのようにあっけなく破られます。既に、私が全面的に支えているメリナ・ローズがそうなりつつあるように」
「メリナさんは……、たしかに去年の世界競技会でスパートを伸ばしてましたが、まだ私に付いて行けません」
「それは、どうでしょうかね……」
ヴァージンが力強く答えるよりも大きな声で、ガルディエールは笑った。その目からは、ヴァージンの未来をも見通しているような透き通った光を発していた。
「私は、君の走った全てのレースの映像を全部録画して、どのあたりでスパートをかけたり、その時の足の動きがどうだったり、見てるんですよ。勿論、私が代理人を降りた後も、それは続けています」
「メリナさんが、ラスト1周に強くなったのも、そういった理由なんですね……」
「その通り。君のスパートを打ち砕ければ、世界一、そして世界最速になるのは間違いないですから、そのために、私、そしてスポーツ科学の研究団体『SSIL』と合同で、メリナ・ローズを強くしているんです」
(スポーツ科学の研究団体……、SSIL……)
一度は聞いたことのあるその名前を、ヴァージンは頭の中で復唱した。
ウォーレットのときは、敵対するシューズメーカー・フラップがそのフォームを動かした。結果、ウォーレットの膝が耐えきれなくなり、彼女は世界記録と引き換えにトラックを去ることとなった。だが、今度は足だけではなく、フィジカルの全般的な面からメリナを支える体制が出来上がっている。
クライアントのために仕事をこなす一流の代理人は、かつてのクライアントだった最速女王のことを知り尽くし、トップ中のトップでない限り契約を結ばないようなところすら知り尽くしているのだった。
「対して、君は元トップアスリートのコーチと代理人しか、バックにいない。エクスパフォーマも一流メーカーとは言え、ギアの面でしか君をカバーできない。つまり、君自身の記録は、これ以上伸びることはないんですよ」
「私は、そんなことないと信じています。まだ、世界記録を前に進めることができると、信じてます。今日のレースでも、必ずその結果を残します」
世界でただ一人、5000mを13分台で走れる最速女王ヴァージンの口から解き放たれた言葉は、決して強がりではない。彼女は自分自身にそう言い聞かせながら、静かにうなずいた。それを見て、ガルディエールはうっすらと笑ったような表情を浮かべ、それからヴァージンに一言だけ言い残した。
「まぁ、その自信も今日までだと、メリナ・ローズの代理人として信じてますよ」
(ガルディエールさんは……、どうして私のライバルについたんだろう……。結果を残せない私を見限って、他の種目に有名なアスリートが何人もいるのに、私を知っているからという理由で、メリナさんに付いた……)
ガルディエールが去った後、ヴァージンはその場でしばらく立ち竦んだ。この日もメリナより前に出る自信はあったが、それ以上にその代理人を恐怖に感じずにはいられなかった。
(メリナさんに負けるなんて……、もうできない。どんなことがあっても、私はメリナさんより先に走り切る!)
ヴァージンの右手の拳に、いつの間にか力が入っていた。一度は客席へと続く階段に向けられていたはずの足も、選手受付のほうに向かっていた。今は、それどころではなかった。
(やっぱり私にとって、スタジアムは戦う場所。自分の力を見せつける場所……)
結局、その後ほどなくしてヴァージンはサブトラックで調整を始めた。レース3時間ほど前に客席で食べるはずだった軽食すら、ヴァージンは普段と同じくサブトラックの横にあるベンチで食べるほどだった。
サブトラックは、メイントラックと比べると規模は小さいながらも400mトラックが8レーン用意され、大会が開かれているときは主に選手のウォーミングアップ用に使われている。そればかりか、このサブトラックだけでもオメガ国内の小さな大会が開けてもいいサイズになっている。
この日はウォーミングアップの場として使われるため、ヴァージンがレースに出場するライバルを本気で抜き去るようなことはしなかった。だが、同じ場所にいる以上、ヴァージンの目にもこの日の相手の調子がはっきりと分かる。サブトラックもまた、勝負の場の一つであった。
日が少し傾きかけた頃、ヴァージンは13人のライバルとともに集合場所に向かった。この日のレースでヴァージンに食い下がってきそうなライバルはメリナだけで、メイントラックに足を踏み入れるとところどころにメリナを応援するボードも見られた。
(やっぱり、トップが集うスタジアムは、客席の数もそれなりに用意されているし、しかもその席がほとんど埋まっている……)
気持ちを落ち着かせようとしたヴァージンは、思い出したようにスタジアムの客席に目をやった。もともとはそこで観戦しようとしていたことも、レース直前になってようやく思い出すほどだった。
国際的な大会が開かれるスタジアムは、国際陸上機構の基準では15000人以上の収容人数が基準となる。そのことすら知らなかったヴァージンは、その目で客席の数を数えたが、1面だけで8000人ぶん以上の席が用意されていそうな気がして、そこで数えるのを止めた。
(スタジアムのことについて考えるのは、レースの後にしよう……)
ヴァージンは、メリナの後を追うようにして、集合場所に急ぐ。薄青に彩られたトラックは、その外側を含めて表面の硬いゴムチップウレタンでできている。排水性が高いため雨の中のレースでも滑らないようになっており、このようなトラックこそが国際レースが行われる基準となっているのだった。その表面をゆっくりと踏みしめながら彼女は進んでいった。
「グランフィールド、代理人から言われたと思うけど、今日こそあなたをスパートで抜き去るわ」
集合場所からスタートラインに向かったとき、ここまで全くヴァージンと話してこなかったメリナから、ようやく声を掛けられた。
「私も同じことを言われました。でも、今の私を、メリナさんは抜けないと思います」
「本当?もし私が、去年の世界競技会と違って、序盤から前に出ていたらどう勝負するつもり?」
「そうなったときは、いつものように最後に抜き返すだけです」
ヴァージンは、目をやや鋭くして、メリナにそう告げた。その時、スタジアムのビジョンに映し出されるカメラが近づき、そこで彼女は正面に体を戻し、カメラに向かってそっと微笑んだ。
「On Your Marks……」
勝負の時を告げる合図が、スターターから静かに告げられた。客席が少しだけ静まり、その瞬間にヴァージンの背後からオレンジ色の夕日の光が差し込む。
ヴァージンの目からかすかに見えたメリナは、まるで獣のような目をしている。その目が見えたヴァージンは、かすかに首を横に振り、レースの始まる瞬間を待った。
(よし……!)
号砲が鳴り、最も内側からスタートしたヴァージンは、普段のようにラップ68.2秒ペースまでスピードを上げた。すると、それを待っていたかのように、メリナも同じようにスピードを上げ、コーナーを回ったところでヴァージンの真横にぴったりとくっついた。
(今日は、この後ラップ68秒を切るようなペースメーカーになるのかもしれない……!)
ヴァージンがそう心に言い聞かす間もなく、メリナが少しだけスピードを上げ、ひらりとヴァージンをかわしていった。メリナのペースは、ラップ67.5秒ほどといったところだ。
(メリナさんは……、やっぱり今日のレースで私のスパートをかわそうとしている……。でも、まだ私のほうが実力は上のはずだから……!)