第55話 ゼロから作るクラス1のスタジアム(1)
「お帰り、ヴァージン。アムスブルグの室内レース、今年も最高の走りができたね」
「ありがとう、アル。アムスブルグで室内記録を出したの、これでもう4回目。私にとって相性のよすぎるトラックかも知れない」
アムスブルグの遠征から戻ってきたヴァージンは、バッグを玄関に置くなりアルデモードに抱きついた。レースの後に汗だくで抱きしめ合うときとは違い、アルデモードのそっと撫でる手は温もりに満ちていた。
「ホント、ヴァージンはどんなトラックでさえも記録を出してしまいそうな走りをするから、見てて楽しい。今回の記録は、たしか14分03秒72とかだったよね」
「アル、正確に覚えてる。72まで合ってる」
ヴァージンが、昨日出したばかりの女子5000mの室内世界記録の書かれた紙をアルデモードに手渡すと、アルデモードは、抱きしめるようにその紙を受け取り、その紙に向かってそっとうなずいた。
「結婚してから、初めての世界記録更新だから、今日はヴァージンの好きな物、何でもディナーで作るよ」
「ありがとう。アルの作るごはん、いつもおいしいけど……、今日は特別においしいような気がする」
「そんなんでもないよ、ヴァージン。で、今日は何を食べたい気分なんだい?」
アルデモードの顔が微笑み、その目がかすかに輝いた。笑顔を絶やさないアルデモードに、ヴァージンは少し考えるしぐさを見せた後、両手を胸の前で合わせながら言った。
「アルの作る、鶏料理が食べたいかな。もちろん、栄養のバランスを考えた付け合わせにして」
「分かった。……なんか、すぐに思いついたよ。少しだけ買ってきてから作るから、できるまで待っててね」
「私は、遠征で使ったウェアを洗濯しておく。アルの練習で使った服も、洗濯機に入ってるよね」
「もちろん。世界最高の走りを見せる君に、迷惑なんか掛けられないよ」
陸上とサッカー、同じ国で生まれた二人のアスリートが結婚生活を始めてから、わずか2ヵ月。ほぼ全てのシーンで丁寧な言葉遣いを心掛けているヴァージンがアルデモードを「アル」と呼び、アルデモードも常にヴァージンに微笑みながら話しかけていた。結婚生活を始める直前でさえ想像しなかった光景が、毎日顔を合わせる関係になってから広がっていた。
「はい、今日のメインはカリカリチキンのトマトソース」
「アルの料理、私が言った通り、今日は特別おいしそう……!見るだけでよだれが出ちゃう!」
「見た目から褒めてもらえてうれしいよ。今日は見た目というか、色合いも意識したよ」
二人だけの家には広すぎるテーブルに並べられた料理の数々に、ヴァージンは思わず口を大きく開けた。そして、アルデモードに勧められるままに、もう一度メインの鶏料理に目をやった。
「これ……、もしかして『Vモード』の色……。明るいレッドが、トマトでちゃんと出てる!」
「この色、実は1週間くらい考えてたんだ。君の『Vモード』が、ものすごく惹かれるような色をしてるから」
エクスパフォーマがヴァージンのために「Vモード」を開発してから4年間、細かい改良こそ加えられているものの、燃えたつような赤のモデルを履き続けている。勝負に挑む激しい力が、慣れ親しんだ色を見るだけで湧き上がってくるのだった。
「トマトソースでここまで作るのが、アルらしい。色もそっくりだし」
「でも、僕だってこの色出すのは難しかったよ。昨日も、キッチンで色が出るか試してたんだ」
「ありがとう。じゃあ、アルの作ってくれた料理、食べるね」
「勿論。これは、君だけのために作ったんだから。僕は、君が一口食べたときの表情が見たいんだ」
アルデモードは、ヴァージンに再び微笑んだ。
「ところで、ヴァージンさ。僕たちの結婚生活も、やっと落ち着いてきたじゃない。そこで、提案があるんだ」
二人が食べ終えた頃、アルデモードはヴァージンにそっと話を切り出した。
「アル、何かしたいことあるの?」
「したいことと言うかね……、ほら、僕もヴァージンも、現役アスリートじゃない。家の中でもトレーニングができるようにしたいかな……、と思ってね」
そう言うと、アルデモードは食卓からやや離れたところにある丸テーブルに行き、ランニングマシンのカタログを持ってきて、ヴァージンに向けて広げた。
「ほら、この家は、僕がヴァージンと、将来生まれてくる子供たちのために買った、オメガセントラル郊外でも相当広い家だし。まだ使ってない部屋、いろいろあるはずだよ。そこに、これを置こうかなって思ってるんだ」
「ランニングマシンを……?」
ヴァージンは、そう言うなり、やや言葉を詰まらせた。ダイニングの両側にあるドアのうち、玄関から遠い方の部屋に続くドアはほとんど開けたことがなく、ヴァージンの目は無意識のうちにそのドアに向いていた。
「そう、そっちの使ってない部屋にね。ヴァージンは、トレーニングセンターに行くし、僕だってチームの練習で体を動かしてるけど、家にいる時だってトレーニングしたいと思わない?」
「アルがそう言うなら、買ってもいいかな……。今まで、マンションとかだったから下の階に迷惑かけられなかったし……。でも……」
そう言うと、ヴァージンはカタログをゆっくりと進め、最も場所を取らなそうな小型のマシンを指差した。
「これ、200リアくらいの安物だけど、走りのプロのヴァージンは……、それでいいの?」
「私はこれで大丈夫。ある程度のスピードをつけて走れればいいんだし。それに……」
そう言って、ヴァージンはアルデモードにそっと顔を向けた。アルデモードは、やや首を傾けて、それでもヴァージンに向けて笑顔を見せていた。
「あまり大掛かりなものだと、場所はともかく、お金がかかってしまう」
「僕たちのもらっているお金に比べたら、大したことないのに。そんな、お金のことなんかさ」
「アルの言ってることは、間違ってない。でも、できれば私の稼いだ賞金で、アメジスタのことを支えてあげたいと思ってる。文化省からいろいろと支援を受けているわけだし、アメジスタのためにできることをしなきゃいけないと思う」
「……そうだね。ヴァージンの言う通りだと思う。それに、君が溜めてきた『アメジスタ・ドリーム』にだって、たしかまだ手を付けてなかったよね」
「……ほとんど。でも、そろそろ何か行動を起こす時だと思っているの」
アメジスタの債務問題で一度は凍結された「アメジスタ・ドリーム」の口座には、今や賞金やファンからのサポートを合わせて5000万リアをはるかに超える残高があった。しかも、それは昨年初めて5000mで優勝した世界競技会より前に確認しただけであり、7000万リアほどの額になっている可能性もある。
ヴァージンは、その資金をアメジスタの人々の夢を支えることと決めていたが、アメジスタ政府から正式に国の指定強化選手と認められるまでの時間が長すぎて、ほとんどその資金を回せていなかったのだ。
「1年ちょっと前に、アメジスタに行ったとき、一人の青年からスタジアムを改修して欲しいと言われた。その人、国会議員に立候補して……、アメジスタの人々の夢に向かって動こうとしている」
「そ、そんな勇気ある人、いたんだ……」
「アルも、一度は会ったことがある。私が、聖堂の周りを回っていた、その相手。ファイエルっていう人」
「その人が!?……そうなんだ。あの時は、ヴァージンなんて、とか言ってたのに……」
「私が走る姿をテレビで見て、やっと私がどんな思いでトラックを駆けているか、気付いたの」
ヴァージンの脳裏には、ヴァージンを本気で支えようとしているファイエルの表情がうっすらと見えた。荒れ果てたままのスタジアムに、今にも向かおうとしているように見えた。
「私も、ファイエルも……、それにアルもきっと思ってる。あのスタジアムやその周りを、自分の夢に向かって一生懸命走る姿、そして目標が達成されたときの笑顔を……、アメジスタのみんなが見て欲しいって」
「勿論だよ。だからこそ、ヴァージンや僕、その国会議員が早く動いて欲しいと思ってるよ。早く、スタジアム改修の話が出てくるといいんだけどね」
「すぐに出てくる。そう信じましょ」
二人は、同時にうなずいた。それは、結婚という大きなイベントを経験する前と後で全く変わらなかった。
ヴァージンやライバルたちにとって、本格的なアウトドアレースの始まる4月を迎えた。前年の世界選手権を制している彼女にとって、次の世界記録こそがたった一つの目標だった。
(タイムトライアルでも、3回に1回ぐらい13分台を出せるようになって、今年もレースでどんどん記録を縮められそうな気がする……!)
自信に満ちた表情で、アルデモードと暮らす家に戻ったヴァージンは、まだ慣れない大きな郵便受けに手を伸ばした。そこには、アメジスタ語で宛名が書かれてあった。父ジョージの筆跡ではなさそうだ。
その瞬間に、ヴァージンは確信した。
(ファイエルさんだ……)