第54話 永遠のパートナー(6)
世界競技会、女子5000m決勝の号砲が鳴り、ヴァージンは普段から意識しているラップ68.2秒のペースで最初のコーナーに突入した。ここ数年意識し続けたペースで、彼女は普段のように滑らかなスタートを切った。
だが、次の瞬間、彼女は別の異変を感じた。
(メリアムさんどころか……、メリナさんも前に出てこない……?)
終盤までぴったりと付いて行くカリナはともかく、その二人が次の直線を終えても前に出ず、ヴァージンの後ろに付いていることが不思議でならなかった。最初、自分のペースが速いのかと思えたが、体感的にも普段見せているラップを貫いている。
(もしかして……、二人とも、作戦を変えた……?それとも……)
最初の1周を過ぎたあたりで、ヴァージンは目をわずかに後ろにやった。メリナはすぐ後ろに付いているのか、彼女の目からは見えなかったが、メリアムのやや黒い肌が2位集団の後ろのほうに見えた。
(メリアムさんの走り方が……、なんかいつもと違う……)
この日も、そして二日前の5000m予選の日も、スタジアムでメリアムと話をしていない。エクスパフォーマのトレーニングセンターでも最近は行き違いになることが多く、特に何かあったという話は聞いていない。だが、ヴァージンの目から見えるメリアムは、どことなく普段の走りとは程遠いように思えた。
(メリアムさんは調子が出ていないだけかもしれない……。でも、メリナさんのほうは……、この前も私のスパートに付いてきた……。おそらく、その前に体力を残しておきたいと考えているのかも知れない……)
普段とは全く違うメリナが、この後どう出てくるか、トレーニングと同じペースで順調にラップを重ねるヴァージンにとっては、逆に不安でならなかった。
それでも、ヴァージンは一言こう言い聞かせ、走り続けた。
(でも私は……、メリナさんやカリナさんを自己ベストではるかに上回っている。今日だって、きっと勝てる!)
ヴァージンの強い意思が2位集団にも響いたのか、中盤に差し掛かる2000mを過ぎても、ヴァージンの横に出ようというライバルは現れなかった。体感的にも、2000mの通過が5分41秒と、スパートさえ決まれば13分台で走り切れそうなペースになっている。
(あとは、どこで後ろが仕掛けてくるか……、それに対して、私がどう巻き返すか……)
背後に、メリナとカリナの息遣いをはっきりと感じる。この段階では、メリナのほうが前を走っているようだ。しかし、もう一人の実力者メリアムの息遣いは、ここでもなかった。そして、彼女の状況はすぐに思い知った。
(メリアムさんが、ほとんど最下位に近いところで……、苦しそうに走っている……)
周回遅れとなるライバルに、ヴァージンは少しずつ迫っていく。その中に、何度も見慣れたライバルの姿があった。メリアムの足は、普段見せている軽快な走りとは違い、重そうだった。
(世界競技会ということで、無理をして走り出したのかも知れない……)
メリアムの予選タイムは、ヴァージンとほんのわずかな差で2位。だが、他のライバルが予選ではそれほど無理をせずに走っていることを考えれば、ヴァージンとメリアムの出した14分05秒前後の予選タイムは異端とも言えるものだった。
その時、ヴァージンの脳裏に、10000mの後メリナが言った言葉が浮かんできた。
――あなたが10000mで見せるスパートを考えたら、今日のはかなりオーバーヒート気味だったじゃない。この後、まだ1種目残っているのに。
(予選で、メリアムさんはオーバーヒートして、だから今日は最高のコンディションで臨めていない……。そのメリアムさんを上回っているし、10000mでも最後まで食らいつかれた私は、メリナさんから疲れているようにしか見えていない……!)
メリナがメリアムに、予選でヴァージンに迫るよう働きかけるはずがない。だが、今のメリアムは、メリナが忠告したことをヴァージンに思い知らせているかのようだった。
(メリナさんが言った通りに……、なるはずがない……!私は、そんなの信じない……!)
その時だった。ヴァージンがそれに気付くのを待っていたかのように、背の高いメリナの体がヴァージンの後ろから一気に加速し始め、2400m直後のコーナーを回っているうちに外側からかわしていった。その瞬間、ヴァージンは無意識のうちにペースを緩めていることに、体で気付くのだった。
(大丈夫……。私は、まだ戦える……!)
薄青のトラックを、燃え立つような色の「Vモード」で、ヴァージンは強く踏みしめる。まだシューズの底からパワーを爆発させることは十分できると、彼女はわずか1秒で感じた。そして、すぐにペースを取り戻す。
メリナのペースは、これまでヴァージンの前で何度も見せてきた、ラップ67秒ほど。残り3周と少しで本気のスパートを見せ始めるヴァージンであれば、追いつけない距離ではなかった。
(メリナさんを……、私は絶対に抜き去ってみせる……。私はまだ、本気のスパートを持っているのだから)
少しずつメリナに引き離されるものの、残り3周となる3800mでは20mほどの差に過ぎなかった。白線を駆け抜ける時に記録計に目をやると、10分49秒から50秒に変わろうとしているところだった。
(最後に混戦になれば、世界記録を狙えるか分からない。ここは、早めに勝負に出るか……)
ヴァージンは、普段よりも100m以上早く、ペースアップに出た。コーナーの途中でトラックを強く踏み、世界最速の実力を誇るその脚が、すぐ前を走るメリナに迫る。
その直後、ヴァージンの後ろにぴったりと付いていたカリナも同じようにペースを上げ、ヴァージンの数歩後ろをキープし続けていた。ヴァージンは、カリナを振り返りこそしなかったが、ローズ姉妹の二人に狭まれている気配は感じていた。
(いつものペースで走り続けたら、ちょうど最後の1周を告げる鐘が鳴るとき、3人が同じ場所に……)
4000mから4200mへと、レースは進んでいく。ヴァージンがメリナに追いつく時何が起こるか、ヴァージンはメリナとのタイムの差ではっきりと思い知った。ヴァージンがメリナを追い抜こうとしても、カリナがどう出てくるかで、大きなロスを生んでしまう可能性だってある。
(二人が並ぶ前に、私がメリナさんの前に出てしまえばいい……!)
ヴァージンは、4400mの直前でもう一段ギアを上げた。5mほどに縮まっていたメリナが、一気にヴァージンの目の前に迫ってくる。そこで、ようやくメリナがヴァージンの気配に気が付き、後ろを振り返った。
だが、メリナの表情は落ち着いていた。カリナの動向も、そしてヴァージンがここで出てくることも、全て計算していたかのように、メリナは心の中で笑っていた。
(メリナさんが……、今までと全く違う……。あの時言ったことを、形にしようとしている……!)
ヴァージンは、一度首を横に振った。そして直線に入った瞬間に、得意のスパートでメリナの横を駆け抜けた。だが、それと同時に、メリナの体が力強く震え出すのをヴァージンは感じた。
(メリナさんは、まだ諦めてなんかいない……。ここは、私の力で引き離すしかない……!)
ヴァージンは重心を前に傾け、一気にトップスピードに躍り出た。それでもヴァージンは、メリナがストライドを広く取り、そのスピードに食らいついてきたように、背後からの風の動きで察するのだった。
(勝負がつかない……。力尽きたほうが、このレースを落とすことになる……!)
少しずつ早めにギアを上げたことで、ヴァージンは普段以上に体力を消耗していた。メリナの言う通り、10000mからの疲れも残っている。「Vモード」を踏みしめる足裏が、少しだけ重くなったように感じた。
ヴァージンの限界は、近かった。
だが、トラックを鐘の音が包み込んだとき、一人の青年が件名に応援する姿が、彼女の目に飛び込んできた。
(アルデモードさん……。アルデモードさんは、私を……、信じている……。13分台で走れるはずの私を……!)
そう思ったとき、ヴァージンは右足が少しだけ軽くなったように感じた。あと1周、トップスピードで走れるだけでの力は残されている。
これまで、ヴァージンの可能性を一番信じていた青年に、彼女は心の中で応えた。
(私は……、ここで負けるわけにいかない……。私はもう、「無冠の女王」なんかじゃない!)
次のコーナーまで食らいついていたメリナも、そしてその後ろから二人とも抜き去ろうとしていたカリナも、ヴァージンの本気のスパートを前に、徐々に後ろに引き離されていく。あとは、ヴァージン自身の持つ記録、13分57秒86との勝負だけだ。
(最高の結果を、私は叩き出す……!)
スピードに乗ったヴァージンが、最後の直線を力の限り駆け抜ける。ゴールの先で待つ最高の瞬間のために、彼女は全く力を緩めることなく、ゴールラインへと飛び込んだ。