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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
二人の想いは いま一つに結ばれる
332/503

第54話 永遠のパートナー(5)

 女子10000mは、残り300mもない。それでも、メリナがヴァージンの背後に食らいついていた。これまで何度もライバルを引き離してきた、ヴァージンにとっての最大の武器でスパートが、この日のメリナを引き離せない。

(おかしい……。スピードは感じているはずなのに……)

 「Vモード」から溢れ出すエアーは、十二分にヴァージンのスパートを支え続けている。決してパワー不足であるはずがなかった。体感的にも、間違いなくラップ60秒を切るスピード。にもかかわらず、だった。

(メリナさんに……、このまま抜かされるわけにはいかない……!)

 3年ぶりの世界競技会優勝を目指すヴァージンが、ここで力を緩めるわけにはいかなかった。いま以上にスピードを上げるか、メリナの足が諦めるか。そのことを考える余裕すらない。いまのヴァージンにできることは、出せる限りの力で、ゴールラインを駆け抜けることだった。

(メリナさんに並ばれずに……、ゴールラインを割る……!スピードを落とさない……!)

 決して後ろを振り向くことなく、ヴァージンは無我夢中でゴールラインに飛び込んだ。メリナに並ばれたような感触は、最後までなかった。


 29分38秒73 WR


(38秒……。私、記録をギリギリ更新できるくらいだと思ってたのに……)

 記録計に輝く数字を確かめたヴァージンは、思わず口元を緩ませた。このメンバーの中で勝てたことだけでも喜ぶべきことであるにもかかわらず、自らの世界記録を3秒も縮めるとは思っていなかったからだ。すぐ後ろからやってきたメリナに、彼女の手が伸びるまで気付かなかったほど、ヴァージンは我を忘れていた。

「今日のところはおめでとう、ヴァージン。やっぱり、あなたのスパートにはかなわなかった……」

 ヴァージンを両腕で抱きしめるメリナの体は、どことなく熱くなっているように、ヴァージンには思えた。

「ありがとうございます。でも、メリナさんだって、最後まで食らいついていたじゃないですか」

「そうね。でも、それこそが私が代理人から言われている作戦だけど……」

 そう言うと、メリナはヴァージンから手を離し、目を細めた。その瞬間に、ヴァージンはメリナをなかなか引き離せないもどかしさを思い出した。

(メリナさんが、あそこまでスパートに食らいつけたのは……、やっぱり私のスパートを知っているガルディエールさんがついていたから……)

 ヴァージンの脳裏に、彼女に背を向けて去って行ったガルディエールの後ろ姿が浮かんだ。メリナをじっと見つめるように、彼女もまた目を細めるしかなかった。

「今日のあなたのスパートは、たしかに見事だった。でも、あなたが10000mで見せるスパートを考えたら、今日のはかなりオーバーヒート気味だったじゃない。この後、まだ1種目残っているのに」

「オーバーヒートなんかじゃありません。10000mでも、5000m並のスパートができるようになっただけです」

「ホントにそうかしら。数日後に、私の前で分かることだけど」

 メリナは、そう言うとワインレッドの髪に手を当て、上から下に髪を撫でた。

「メリナさんも、5000mに出るのですね」

「勿論。5000mでカリナに勝って、金メダルを取ることが、世界競技会での私の目標。10000mでここまですごいタイムを出せたのは、はっきり言ってビギナーズラックかも知れない。まぁ、今日のオーバーヒートで、あなたが5000mのラストで力尽きるのは間違いない」

「そんなことありません。5000mの決勝でも、十分本気で走れます」

 ヴァージンがそう言うと、メリナは静かに笑った。レースを終えた直後だというのに、メリナは本気だった。

「その強がりこそが、あなたが世界競技会やオリンピックの5000mで、一度も優勝できない理由よ」

(メリナさん……、私が9回とも敗退していることを知っている……。これも、ガルディエールさんから……?)

 ヴァージンは、そう思った瞬間、すぐに首を横に振った。

「私は、強がってなんかいません。今度こそ『無冠の女王』を断ち切るために、必死なんです。それだけは分かって下さい」

「それが強がりじゃないことを、その走りで証明できるかしら」

 そう言って、メリナは後ろを振り向き、立ち去った。表彰式で再び顔を合わせるとは言え、ヴァージンはメリナに言われたことを、心の中で否定するのだった。

(大丈夫。5000mを13分台で走れるのは、私だけなんだから……。それに、アルデモードさんだって応援……)

 その時、ヴァージンは思い出したかのようにスタジアムの客席に目をやった。

(そうだ……。このレースを、アルデモードさん、見ていたんだっけ……。たしか、ゴールラインの先……)

 8400mを駆け抜けたとき、ヴァージンはアルデモードの笑顔をはっきりと見たはずだった。まだレースが終わって数分しか経っていないことを考えれば、まだアルデモードがその場所に座っているかも知れない。

 ヴァージンは、アルデモードが座っているはずの場所に視線を向けた。だが、彼女の目にアルデモードの姿は見えなかった。それどころか、アルデモードが座っていた可能性が最も高いところには、やや太り気味の中年男性が腕を組みながら座っており、10000mのレース前からそこにいたかのようだった。

(もしかして、アルデモードさんを見たのは……、幻だった……)


――おそらく、その場所で人生最大のドラマが、ヴァージンに待っていると思うわ。


 不意に、メドゥが電話口で告げた言葉が、ヴァージンの脳裏に蘇る。世界競技会に来てくれるとは言ったものの、人生最大のドラマがどのシチュエーションを指すのかが、これまで何となくでしか分からなかった。だが、ヴァージンにとって最大の目標が、この世界競技会の5000mで初めて優勝することだと気付いたとき、アルデモードがいつ来るのかも読めたのだった。

(でも、アルデモードさん、今日も私を見守ってくれた……。これが、誰かを気に留める凄さなのかも知れない)

 ヴァージンは、心の中でそう言って、右手の拳を握りしめた。彼女の心は、早くも5000mに向けて燃え上がっていた。


「お前のスパート、だいぶ研究されているようだな」

 その日、スタジアムからホテルへと戻るタクシーで、マゼラウスがヴァージンに告げた。

「コーチも、メリナさんが食らいついてきたことを気にしてたんですね」

「見ているだけで脅威だったからな……」

 そう言うと、マゼラウスは軽く咳払いをして、再びヴァージンの目を見つめた。

「お前が世界の舞台に立つまで、長距離の選手で最後にあそこまでのスパートを見せるような人は、一人もいなかった。持久力と瞬発力は、絶対に相容れない存在だという先入観があったからな。だが、お前が次々と世界記録を破っていく中で、持久力だけでは勝負できないことを、ライバルたちが思い知った」

「おそらく、そうだと思います。もう、私は走り方でも追われる立場なのかも知れません」

「だがな……」

 マゼラウスの手が、優しくヴァージンの肩を叩いた。ヴァージンが振り返ったとき、マゼラウスは微笑んだ。

「お前の武器を、他のライバルが使いこなすのは、全てを変えるほど危険だ。いつしかのウォーレットのように」

(ウォーレットさんが……)

 ヴァージンは、心の中でその名を叫んだ。ヴァージンの記録を破るために、無理して高速フォームを作り上げた末、世界記録更新とともに表舞台から消えてしまったライバルが、少しだけ蘇ってくるようだった。


 女子5000mの予選を全体の1位で通過し、ヴァージンにとって勝負となる決勝の瞬間が近づいてきた。メリナとカリナ、それにメリアムと、ここ数年最高峰のレースに集まる顔ぶれが、今回もメンバー表の中に揃っていた。

 10000mの後にあれこれヴァージンに忠告したメリナは、この日はヴァージンどころか、カリナすら見ていなかった。ただ、己の実力で金メダルを目指そうと、やや目を細めてトラックを見つめているだけだった。

 そして、当のヴァージンも、本当はいるはずの「彼」のことを、レース中は気にしないことに決めていた。もし意識すれば、このメンバーならわずかな隙につけ込まれる可能性だってあるからだ。

 だが、スタート場所に向かって歩きだそうとしたその時、ヴァージンは何者かに肩を叩かれた。振り返ると、そこにはカリナが立っていた。

「あれでしょ、グランフィールドの彼氏は。なんか、ものすごくイケメン」

 カリナの右腕が、ゴール近くの客席、それも最前列に真っ直ぐ向けられる。スタート地点とは真逆であるにも関わらず、ヴァージンの見慣れた青年が、祈るような目で遠くから見つめていることに、ヴァージンは気付いた。

(ダメだ……、意識しちゃいけないのに……、カリナさんにバレてしまった……)

 ヴァージンは、首を小さく横に振り、すぐにレースへの集中を取り戻した。

(アルデモードさん……。私、最高の結果を残すから)

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