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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
二人の想いは いま一つに結ばれる
331/503

第54話 永遠のパートナー(4)

 女子10000mの号砲が鳴り、ヴァージンはトレーニングで意識してきたラップ73秒でトラックに飛び出した。5000mでは常にレース序盤を引っ張ってきたメリナが、今回もその前に立つ。そこまでは計算ができていた。

(10000mのペースが未知数のメリナさんが、やっぱり外から一番内側に迫ってきたか……)

 最初の直線に出たときには、メリナがヴァージンをかわし、ワインレッドの髪と長身の体を見せていた。ヴァージンの目には、メリナがラップ72秒を少し上回るペースで引き離しているように見えた。

(メリナさんは、5000mの時のようにそれほど飛び出してはいない……。でも、このペースで走り続けたとしても、29分台――。メリナさんは、30分台の優勝タイムなんて眼中にないのかも知れない……)

 後半で巻き返すことの多いヴァージンは、2周目に差し掛かる頃には、8800mあたりからのペース配分を組み立て始めていた。あまりにも早く勝負を仕掛ければ、前年のオリンピックのように、最後力尽きてしまう。逆に言えば、5000mと同様、最後にメリナに追いつける程度の差でその距離を迎えればいいことになる。

(そして、問題は中盤……。レジナールさんが、そこから勝負を仕掛けることもあったし、何よりメリナさんにみんなが刺激されてしまえば、終盤で追い抜かなきゃいけないライバルが増えていく……)

 そこまで考えたヴァージンは、背後に感じるライバルたちの息遣いをその耳で確かめた。3周を終えたあたりで、2位のヴァージンに食らいついているライバルは、4人ほど。おそらく、その中にはレジナールやヒーストンがいるはずだ。それどころか、その二人が早くも少しずつ迫ってくるようにさえ感じた。

 そして、4周目に入って、3位集団からヒーストンが先に動いた。

(やっぱり、メリナさんにみんなが刺激され始めている……)

 10000mでも世界記録を持つヴァージンでさえも、20mほどメリナに引き離されているこの状況を、10000m専門で戦ってきたライバルたちは「異様」としか思えないのだろうか。5000mでは当たり前のシーンも、メリナの実力が全くの未知数である10000mでは、また違った光景であるかのように、ヒーストンには思えたのだろう。

 ヴァージンの真横を、ヒーストンの赤い髪が揺れていく。濃さの違う赤い髪だけを、ヒーストンは追いかけようとしていた。

(私だって、負けてられない……。本当に、このレースがハイレベルになり始めた……)

 その時には、ヴァージンの後ろで感じる気配は、一人だけになっていた。おそらくその一人もレジナールのはずだ。それ以上に、前の4人について行けそうなライバルはいない。

(この中で、私は優勝したい……。少なくとも、72秒から73秒あたりのペースで走って、最後にスパートを見せれば、私は前の二人を追い越すことができるはずだから……)

 10周目、11周目に入り、ヒーストンのペースも落ち着き始めた頃、ヴァージンは何度か心の中でそう言い聞かせた。メンバーを見たときにはレベルの高さを意識したものの、この時の彼女はその意識すら消え始めていた。逆に、ヴァージンに芽生えていたのは、自分が29分41秒32の世界記録を持っているという強い意識だった。

(トレーニングでも、このタイムを上回れるようになっている……。勝負を失敗しない限り、私はまず勝てる)

 ヴァージンの目は、40mほど前を走る二人をじっと見つめていた。メリナのペースは、相変わらずラップ72秒を少し切るほどで、72秒台後半のラップタイムで走り続けるヴァージンを少しずつ引き離していた。

(なかなか、メリナさんのペースは変わらないか……)

 ヴァージンは、心の中ではっきりとそう言い聞かせた。


 その時だった。

(あれ……?スタジアムに、どこかで見たような青年がいる……)

 ゴールラインの向こう側に、見慣れた茶髪がヴァージンの目にかすかに浮かび上がった。それどころか、優しい瞳が、トラックを走り続けるヴァージンをそっと見つめているようだった。

(もしかして……、アルデモードさんがこの場所にいる……。いや、いて欲しいけど……)

 全体像が分かる前にコーナーに進入したヴァージンは、一瞬だけ見えたシルエットを組み立て始めていた。だが、すぐに彼女は首を横に振る。スタート地点とゴールラインが同じ側に位置する10000mでは、スタートのときにそちら側の客席が見えているはずだからだ。

(スタートラインに立ったとき、アルデモードさんは見えなかった……。でも、何故ここに……)

 ヴァージンがかすかにそう思ったとき、彼女の背後にあったはずのライバルの気配が消えた。次の瞬間、レジナールの輝くような茶髪がヴァージンの目に飛び込んできたのだった。

(レジナールさんが……、勝負に出た……!)

 レジナールも、既に前年のオリンピックで29分台のタイムを叩き出している。さらに、レジナールよりも前にいる二人も、ペースを落とさなければ29分台がほぼ確実だ。

(29分台が……、4人出てくるかも知れない……。少しだけ早く、勝負を仕掛けたほうがいいかも知れない……)

 最後に追い抜かなければならないライバルが、ついに3人に増えた。そのことを思い知ったヴァージンは、ほんのわずかペースを上げていた。彼女のスパートを何度も支えてきた「Vモード」は、まだ靴底にパワーを溜めているような状態だ。

(私は、この1年で、5000mの自己ベストを一気に上げた。だからこそ、10000mでも少しは成長しているはず!)

 ヴァージンは、はっきりとうなずいた。無意識のうちに72.3秒ほどのラップにペースアップしたその脚は、全く疲れ知らずだ。まだ、本気の勝負は始まってすらなかった。


 そのまま、20周、8000mを駆け抜けた。その時、それまでメリナの背後についていたヒーストンが、徐々に引き離されていくのをヴァージンは見た。決してメリナがペースを上げたわけではなく、ヒーストンの足が限界を感じたかのようにペースダウンし始めたのだ。

(自己ベストがギリギリ29分台のヒーストンさんには、全く知らないライバルとの勝負はきつかった……)

 8400mを過ぎる前に、ヒーストンがレジナールにかわされ、すぐにヴァージンの目の前にも飛び込んできた。ヴァージンはヒーストンの目を見ることなく、またペースを上げながらその横を駆け抜けた。そして、前を走るメリナに視線を合わせた。

(私との差、100mくらい……。メリアムさんの8400mの通過、25分05秒ほど……。大丈夫、私は追い抜ける!)

 8400mの通過タイムを、ヴァージンはこの日初めて記録計で確かめた。25分22秒という数字が記録計に浮かび上がっていた。残りは4周。次の1周で少しずつペースを上げ、8800mからラップ65秒までペースでメリナを追撃する。その戦術は、スタート時点から何も変わらなかった。


 その時だった。記録計から顔を戻したヴァージンに、再びあの青年の笑顔が飛び込んできた。

(アルデモードさん……?やっぱり、この場所に見に来てくれているの……?)

 ペースを上げようとするヴァージンの体は、全身でその気配を感じていた。それどころか、かすかに笑っているようにさえ見えた。

(この手で掴むことはできないのに……、何故だろう……。彼がそこにいるような気がする……)

 口元さえも「ヴァージン、ファイト」と動いている。未知の強敵に、十分立ち向かえるだけの力があると信じているかのように、その青年はそっと想いを言葉にしているのだった。


(ありがとう……、アルデモードさん……。私、力をもらったような気がする……!)


 コーナーに入った瞬間、ヴァージンの足は一気に加速していた。1周かけてペースアップするつもりが、コーナーの間にラップ66秒ほどのペースまで高まっていた。懸命にメリナを追いかけようとするレジナールを、まずはそのペースで軽く追い抜き、8800mのラインが近づくと再びペースを上げたのだった。

(メリナさんは、まだペースアップしない……!)

 メリナが最後のスパートを見せることは、これまでそれほどなかった。あるとすれば、妹のカリナだった。残り4周で17秒もあった差を1周で5秒も縮められたヴァージンは、少しずつ勝利と、新たな記録を感じ始めた。

(あとは、メリナさんをどこで抜くか……)

 9200mが過ぎ、9600mが近づいた。その直線で、ついにヴァージンはメリナの背後についた。新たな追撃者を感じたメリナが、思わず振り返った。メリナの目は、もはや血走っていた。

(メリナさんが、本気だ……。でも、私はもっとペースを上げられる……!)

 最後の1周を告げる鐘が鳴り響くと、ヴァージンは「Vモード」を強く踏みしめ、トップスピードでメリナの横に出た。5000mで見せているはずのラップ57秒ほどの走りが、10000mでも自然と出せるようになっていた。

(体感的に、9600mの通過が28分39秒……。これは、間違いなく記録を出せるはず……!)


 だが、そう思ったヴァージンは、次の瞬間に重苦しい気配をその背後に感じた。

(メリナさんが……、食らいつこうとしている……?)


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