第6話 ヴァージンにスポンサーがついた日(6)
「残り3周で途中棄権になったシュープリマ・シェターラは大丈夫でしょうか」
時折シェターラの苦しそうな表情がカメラに映るたびに聞こえる、心配そうなアナウンサーの声がどことなく悲痛だった。テレビを見つめるヴァージンは、もはや喜んでいるメドゥよりもシェターラの苦しそうな表情にしか目がいかなかった。
(姿の見えないところで、私に勝ったばっかりなのに……)
全く体を動かしていないのに、ヴァージンの呼吸は少しずつ速くなっていく。何度か首を横に振り、カメラの映像が他の競技を流すなり、大股で休憩室を出た。
「ヴァージン、どうした。肩を落として」
「コーチ……。これは、喜ぶべきことなんですか。悲しむべきことなんですか」
「どうしたんだ、急に」
マゼラウスの目が、次第に細くなる。だが、それに臆することなくヴァージンは言った。
「シェターラさんが……途中で棄権して、苦しそうにもがいてたんです……」
「そうか。私は、メドゥにしか目がいかなかったが……」
「たしかに、メドゥさんの走りは、私だって注目します。けれど……、シェターラがこんな苦しんでいるなんて信じることができないんです。ライバルとして」
ヴァージンは、今までため込んでいた涙を懸命に外に流そうとしたが、それすらもできないほどだった。だが、その表情を見るなり、マゼラウスは首を横に振った。
「ヴァージン。自分のことを考えろ」
「でも……」
「自分のことを考えろと言ってるんだ」
「……はい」
マゼラウスは、先程よりもはるかに細い目でヴァージンを睨みつける。時折震える右手からは、今にも手が出そうなしぐさすら伺える。
「たしかに、ライバルが苦しんでいて、共感する気持ちも分かる。だが、そればかりに気を取られてたらいかん。今は、数多くいるライバルよりも一歩前に出なきゃいけない。そういう時だろ」
「……分かりました」
ヴァージンは、少しだけ目線を落として、重苦しくうなずいた。だが、その後の練習に熱が入るわけもなく、自ら練習を早く切り上げてしまった。
さらに悪い知らせは続いた。その夜のニュースで、シェターラの故障は右太腿の筋断裂と診断され、トレーニングを再開できるまで数ヵ月はかかると報道された。もはや、シェターラが8月の世界競技会に出場することも絶望的な状況だった。
この緊急事態に、イクリプスもすぐに動き出した。筋断裂と診断されるまで、イクリプスのホームページでヴァージンとシェターラのモデル争奪バトルの特設ページがあり、先日の直接対決の動画を数日後にアップする予定も掲載されていた。だが、その翌日の昼休憩のときにヴァージンがアクセスすると、「バトルプロジェクト中止のお知らせ」の案内とともに、それ以外の項目が全て削除されていたのだった。
(プロジェクト自体……、なかったことになるの……?)
ヴァージンは、思わずパソコンの前で首を横に振った。一度、右手を丸めて、パソコン台に叩き付けた。
(私、このプロジェクトでシェターラに勝ってないのに……)
5月のリングフォレストでの大会と、8月の世界競技会で直接対決する機会は流れたと言ってもよい。このままでは、シェターラの1勝でプロジェクトが終結することになる。
ガックリと首を落としたヴァージンの目に飛び込んだ、イクリプスのシューズが、履き始めて1ヵ月も経っていないのに色褪せて見えた。
その時、ヴァージンの耳に久しく聞いていない足音が飛び込んできた。椅子を回転させ、顔の向きを変えると、そこにはグラティシモが立っていた。
「当確じゃない。イクリプスに」
「当確……ですか?」
「ヴァージン、嬉しくなさそうじゃない。どうしたの」
膝を屈めて表情を見つめてくるグラティシモに、ヴァージンは作り笑いを浮かべることしかできなかった。
「嬉しい……って思えないです。逆に、プロジェクトがなくなっちゃったと思うと……」
「たしかに、それは言える。けれど、シェターラは戦線離脱したし、私はもうヴァージンでいいと思うけど」
「グラティシモさん……」
ヴァージンは、思わず目を細めた。両手にグッと力を入れ、狂ったように椅子から立ち上がった。
「シェターラさんが、これじゃあまりにもかわいそうです!せめて……、せめて勝負で勝って、イクリプスと契約を結びたい……」
「勝負師らしくない、優しさね……」
グラティシモは、ヴァージンの強い口調に動じることなく、軽く唸る。
「でも、グラティシモさん……。優しさとか……そうじゃなくて、こんな結末に私が満足できないだけなの」
「ヴァージン。その悔しさは、イクリプスのシューズを履いて、跳ね返していけばいいじゃない」
「履いて……」
聞き返すヴァージンの目に、軽く笑ったグラティシモの表情が映る。
「イクリプスの契約選手として、シェターラの分まで頑張ればいいじゃない」
4月の終わり頃、ヴァージンはイクリプスの本社に日時指定で呼び出された。廊下を歩くときに感じた懐かしい匂いはもはやなく、案内された部屋にヴァージンはひたすら向かうだけだった。
だが、前回と同じ控室の前に立ち、ドアを開くと、がらんとした部屋の中に痛々しい様子を見せる、車椅子姿の女性の姿が見えた。
(どうしてシェターラが……)
ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。シェターラは、ダッシュすることもできないと言われるほど重い故障を抱えており、しかもそれが原因で、今回スポンサー契約を断られることになる可能性が高いはずだ。だが、ヴァージンは飲み込んだ息を吹き飛ばすように、口を開いた。
「シェターラ!」
「ヴァージン……」
一度は勝負に打ち勝ったライバルの姿を見たシェターラの目に、すぐに大粒の涙が溜まった。ヴァージンにはそれが痛みや衝撃のように映った。
「大丈夫……?すごく痛そうにうずくまってたから」
「今は、まだ大丈夫じゃないわ」
シェターラは、軽く首を振る。彼女の茶髪が、力なく揺れる。
やがて、シェターラはゆっくりと口を開く。
「ヴァージンと、最後まで勝負がしたかった……」
シェターラの膝に次々と落ちていった涙は、見る見るうちに大粒になった。
「最後に勝った方が、イクリプスと……スポンサー契約を結べるから……、私もここまで頑張ったのに……、ここで終わりたくなかった……」
「シェターラ……」
(私だけじゃ、なかった……)
ヴァージンの目に映る、シェターラの悔しそうな表情。間もなく告げられるであろう現実を前に、二人の若きアスリートの情熱は、かすかに燃え上がっていた。
しかし、その諦めに近いシェターラの涙に、ヴァージンは一度首を横に激しく振った。
「私だって、そう思う。けれど、私たちが勝負できる場所は、これからもいっぱいあるじゃない!」
「ヴァージン……」
すすりなく声が包み込んでいた控室を、ヴァージンの力強い声が優しく撫でていった。
「これで終わりじゃないんだから!……私は、イクリプスのシューズを履いて、いつまでも待ってるから!」
「……そうね」
「シェターラ。早く戻って来てね……」
ヴァージンがそこまで言うと、シェターラは両腕を大きく広げ、ヴァージンの表情をはっきりと見た。その広い腕に向かって、ヴァージンは彼女の左から飛びついた。
(私は……、もっと勝負がしたい……から……!)
その時、控室のドアが開き、面接のときにも立ち会っていたイクリプスの社員の男性が顔を覗かせた。あまりにも間が悪かった。親友になりかけているライバル同士とは言え、このフォーマルな空間で女どうしがこのような状態になっているのをイクリプスの社員に見せてしまったのだ。
「どうしたんだね、二人とも……」
「すいません……」
ヴァージンは深く頭を下げ、すぐにシェターラの隣の席に座った。すると、すぐに男性から二人に一枚の封筒が手渡された。その際、封筒の宛名を確認することはなかった。
(あれ……?)
ヴァージンが戸惑っている表情を見せると、男性はすぐに封筒を開くように指示した。
「……っ!」
そこにあった文字を見て、ヴァージンとシェターラは同時に息を飲み込んだ。その文字が意味する言葉を、二人は信じることができなかった。
「本来なら、新しいスポンサー契約を交わすのは一人に絞りたかった。だが、こういう結末になってしまった以上、うちとしては二人をイクリプスの契約選手にしたい」
「……ありがとうございます!」
「イクリプスが、儲かってるからこそ、できる大盤振る舞いだ。くれぐれも、我が社のイメージアップにつながるよう、結果を残すんだぞ」
「はいっ!」
その後、ヴァージンの手元にかなり分厚い契約書類が届き、練習の合間の時間を見つけて、マゼラウスなどの協力のもと契約書にサインした。メドゥなどのトップアスリートと言えるような実力ではないため、当面はイクリプスのシューズを安価で購入できたりなど、イクリプスのブランドを宣伝する最低限の支援しか受けられない。また、大会で獲得した賞金の10%をイクリプスに還元するなど、聞いたこともない規則づくしで、ヴァージンにはほとんど実感が湧かなかった。それでも、たった一つでもスポンサーを掴み取ったヴァージンにとっては、イクリプスはかけがえのない企業となった。
だが、それは次なる段階――契約料を支払ってくれるアスリートになる――へのステップアップへとつながる。今の時点では、セントリック・アカデミーとマゼラウスが事実上ヴァージンにかかる費用を全て負担していることになるが、他のスポンサーから契約料をもらえるようになれば、より彼女自身の意思でお金を使えるようになる。
(私は、もっと上を目指さないと!)
ヴァージンは、イクリプスの黒のシューズを履き、ロッカールームを軽々とした足取りで出た。来るべき、5月、そして8月の大会に向けて……。