第54話 永遠のパートナー(1)
6月、ヴァージンは初めてとなる、ユーレリア共和国イルカンシアでのレースに臨んだ。世界競技会に向けてレース参加を調節しているのか、ヴァージンと優勝争いを繰り広げるようなライバルもいなかった。その中で彼女は懸命にトラックを駆け抜けたが、タイムは14分06秒73に終わった。前年5月のネルスでのレース以来、久しぶりに14分05秒にも届かなかった彼女は、優勝してもそれほど笑みを浮かべることがなかった。
それでも、ダッグアウトに向かったヴァージンを、マゼラウスは温かく出迎えたのだった。
「よくやった、ヴァージン。タイムも、それほど悪くないぞ」
「コーチ……。久しぶりにこのタイムを出して……、私としてはものすごく悔しいです」
「そんなことはない。序盤のスローペースに、体が飲まれただけだ。もっとハイレベルな勝負を強いられたとしたら、お前は間違いなく次の世界記録を出せるはずだ」
「言われてみれば……、最初の3周くらいは少しだけストライドを緩めてしまっていました」
ヴァージンは、先程まで走っていたレースのことをすぐに思い出すことができた。考えるしぐさすら見せなかったが、マゼラウスはそう言ったヴァージンをやや細い目で見つめたのだった。
「ヴァージンよ。あまり過去は振り返らないほうがいいかも知れない。とくに、ビッグレースの前だからな」
(ビッグレースの前……)
ヴァージンは、意識的に強くうなずく。ヴァージンにとって、1年の中で最も重要なレースがこれまでどういう結果に終わってきたかは、言われなくても分かっていた。
(コーチにそう言われてしまうと……、なんか振り返りたくなる……。でも……、振り返っても過去のレースの成績が優勝に変わるわけないんだから……)
そう心の中で叫んだ彼女は、マゼラウスに向かって静かにこう言った。
「もう過去を振り返るほど、私は弱くありません。13分台で走れるようになって、この半年ぐらい、自分の中で最速女王としてのプライドが生まれてきたような気がするんです」
「そうか……。お前にしかできないという、今や硬い自信だものな。……お前は、強くなった」
マゼラウスは、ヴァージンにそっと手を伸ばし、やや体を前のめりにしながらも、これほどまでに成長した彼女の肩を軽く叩いた。
イルカンシアでのレースが終わると、次は8月の世界競技会までレースはなかった。6月から7月中旬にかけては、このところ1年に一度しか走っていない10000mのタイムトレーニングを中心にトラックを駆け抜けた。それでも、5000mで次々と壁を破ってきたヴァージンにとって、29分41秒32という3年前に出した世界記録を破るのは少しだけ簡単なことのように思えた。
そんなある日のこと、ヴァージンがマゼラウスに会いにいつものトレーニングセンターへ向かうと、門を通り抜けたところでマゼラウスの横にメドゥも立っていた。お互いに手をつなぎながら、二人はヴァージンが来るのを待っているようだった。
「メドゥさん、エクスパフォーマのトレーニングセンターにやって来るのは珍しいですね」
「今まで、何回かヴァージンがトレーニングしている様子を見ていたわよ。ヴァージンを支える立場なんだし」
「気が付きませんでした……」
そう言うと、ヴァージンはマゼラウスのほうに首を動かそうとした。その時、メドゥがその動きを声で止めた。
「ヴァージン、今日はテレビ局のカメラマンが、トレーニング中の姿を撮るのよ。マゼラウスには言ったけど、できれば5000mを本気で走る画像を撮りたいって。その後には、軽くインタビューもあるわよ」
「本当ですか……。でも、どこのテレビ局がやってくるんですか」
ヴァージンは、あえてメドゥに尋ねた。尋ねなくても分かってはいたが、あえてヴァージンは確かめたかった。
「グローバルキャス。アメジスタでのビジョンを手掛けたところ」
「やっぱり……。ここしかないなって思ってました」
その時だった。メドゥとマゼラウスのすぐ後ろを流れるように、一人の人物が通り過ぎた。グローバルキャスの副営業部長、ディック・ディファーソンに間違いなかった。3年前、サウザンドシティでインタビューを受けたときの彼の表情を、ヴァージンは今もなお思い出すことができた。
ヴァージンとちょうど目が合ったように思えたのか、ディファーソンは何度かヴァージンを振り返っていた。
その日、午前中の終わりのほうに行われた5000mのタイムトライアルは、トレーニングで久しぶりに13分台を叩き出した。マゼラウスの口から彼女のタイムが告げられると、ヴァージン本人よりも早く、ディファーソンの喜ぶような表情が彼女の目に飛び込んできた。
(そうだ……。この後取材があるんだった……)
タイムトライアルでは全く意識しなかったこの後の予定を、彼女はその表情を見ただけですぐに思い浮かべた。ヴァージンは、クールダウンを終えると、トレーニングウェアを羽織り、チャックを閉めてから、グローバルキャスのカメラの前に向かった。
「グランフィールド選手。お忙しいところ、取材にご協力して頂き、ありがとうございます。今日は、グローバルキャスが世界競技会で最も注目するアスリートとして、インタビューをしたいと考えています」
「ありがとうございます」
「カメラを何ヵ所か回していますが、放送に流しちゃいけない質問とかありましたら、言って頂けると幸いです」
「はい」
ヴァージンが静かにそう言うと、ディファーソンはいよいよ持っていた紙を取り出して、ヴァージンに尋ねた。
「さて、今年も世界競技会が近づいてきました。率直に、今の意気込みを聞かせてください」
「私は……、5000mを13分台で、10000mを29分台で走るだけです。どちらのレースも、最後まで食らいついてきそうなライバルがいますが、最後はタイムしか考えないことにします」
「なるほど、やっぱりグランフィールド選手の代名詞と言っていい、世界記録を狙いにかかると」
「そういうことです」
ヴァージンはそこまで言うと、カメラに向かって軽くうなずき、それからジェファーソンに顔の向きを戻した。彼女の背後では、時々100m走の選手が走り込みを行っており、そのコーチの声がトラックに響くものの、この時は本気で走っているときのように、ヴァージンの耳にはそれほど障るようなものではなかった。
「さて、グランフィールド選手にとって、コメンテーターの中に、世界競技会は鬼門だと言う人もいるようです。ご存知の通り、グランフィールド選手は世界競技会とオリンピックに9回出場して、女子5000mで一度も優勝できていませんが、そのあたりはどう考えていますか」
(この質問が来た……)
いずれは、誰かから聞かれる質問だと分かっていながら、ヴァージンは軽く息を飲み込んだ。それからすぐにもう一度息を吸い込んで、落ち着いた表情に戻ったのち、カメラにこう言った。
「今までの9敗は、過去のデータでしかありません。これから走るレースで、そんなことを引き摺るつもりもありません」
「そうですか。そうなると、10回目の挑戦は、ものすごく前向きで走ろうということですね」
「はい」
そう短く答えたヴァージンは、数秒の間、次に続ける言葉を考えた。過去を振り返るつもりはないが、いま彼女自身が置かれている状況と、そこからどうやって抜け出せばいいのか、わずかの間に考えたのだった。
それからヴァージンは、ジェファーソンに向かって、落ち着いた声で答えた。
「私は、世界記録を何度も打ち立ててきました。けれど、陸上界の最高峰と呼ばれる世界競技会、私は得意の5000mで一度も勝てていません。今の私は、『無冠の女王』と言われたっておかしくない状態です。でも、私はそんな『無冠の女王』という鎖を、引きちぎるだけの力はあります。私のほかに、誰も13分で走れないのですから」
「なるほど……。今のグランフィールド選手の言葉、ものすごく強そうに思えたので、ノーカットで使ってもよろしいでしょうか」
ジェファーソンの言葉が聞こえたとき、ヴァージンはようやく我に返った。言ってしまった、とさえ思った。再び息を飲み込み、彼の目を見つめたものの、そこまで納得しているように見えたジェファーソンに向かって、今更使って欲しくないなどと言えるはずもなかった。
(引きちぎる、という言葉だけは言っちゃいけなかったかもしれないけど……、自分の想いなのかも知れない)
ヴァージンは、静かに首を縦に振った。それでも、体からあふれ出てくる冷や汗を隠すことはできなかった。ありがとうございました、とヴァージンに告げるジェファーソンに、軽く作り笑顔を見せることしかできなかった。
(私のインタビュー、グローバルキャスではどのように放送されるのだろう……)