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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
二人の想いは いま一つに結ばれる
326/503

第53話 最速女王に湧き上がる自信(4)

 ヴァージンとカリナ。そして、そのスピードに食らいつく数名のライバルが、ほぼラップ68秒台のペースで先頭集団を作る。これまで何度もその場面に遭遇したように、カリナは1周目からヴァージンの後ろに回り込み、勝負の瞬間までぴったりついて行く作戦に出たのだった。

(やっぱり、カリナさんはそう来たか……。なら、私は最後に振り切るしかない……)

 カリナが勝負をかけるのは、最後の1周。ヴァージンは昨年のオリンピックで、ゴール寸前からカリナが飛び出すのを目の前で見ていた。逆に言えば、その瞬間までパワーを残していることになる。

(そして、振り切るとしたら、最後の1周。逆に、トップスピードにカリナさんが付いてきたら、勝負がギリギリまで分からなくなる)

 最初の1周を、普段から意識する通りに68.2秒で駆け抜け、ヴァージンはそこで背後からの息遣いを聞いてみる。明らかにカリナが後ろの集団にいるように思えた。あまり意識する気はないが、カリナの実力を考えればあっさりとヴァージンから引き離されるようなことはないはずだ。

(1対1の、トップスピードでの勝負。今から楽しくなってくる……!)

 間違いなくカリナが後ろに付いてくる。そのことを軽く意識したヴァージンの走りは、普段にも増して軽かった。シューズがトラックを叩きつけるたび、勝負の瞬間に向けてその足に少しずつパワーを送っているようだ。

(前に誰もいない、この退屈な時間は……、カリナさんと勝負するための時間……!)


 だが、ヴァージンの目論見は8周を過ぎたあたりで外れることとなる。2000mを過ぎたあたりからカリナの鼓動しか聞こえなくなったヴァージンの耳に、少しずつカリナが迫ってくるように思えた。いや、この時点でカリナがぴったりとヴァージンの背後に付いていたのだった。

(私が、4000mからスパートを始めるのを、カリナさんだって知っている……。それよりも先に仕掛けるか……)

 世界のトップレースで12年近く走っていれば、ヴァージンの戦術も多くのライバルが知るところになっている。カリナは、あえてそこを突いたのだ。ラップ68.2秒のペースを維持しているうちに、勝負するのだと。

(出てくる……!)

 カリナの髪の揺らぎで風向きがわずかに変わるのが、ヴァージンの肌にはっきりと感じた。右目には、カリナの肌がかすかに見え始めている。最後までついて行くと思われていた相手が、あっさりとヴァージンの前に出る。

(ここで、負けてられない……)

 4000mよりもはるかに速い段階でスパートのタイミングを作れば、間違いなく次の記録に手が届かない。ヴァージンは、トレーニングでもあえて3200mからスパートをかけるような危険は冒さないようにしていた。だが、ほぼ必ず同じくらいの実力を持ったライバルと戦うことになる本番は、やはりそれではいかなそうだ。

 次の瞬間、ヴァージンはほんの少しだけストライドを大きく取った。まだラップ65秒に上げないどころか、ラップ68秒すら切らない程度に、ヴァージンはかすかにペースを上げた。

(これくらいの微調整なら……、最後のスパートまで響かずに済む!今日の私が、それを証明する)

 ラップ68秒に上げたヴァージンの様子を伺ったのだろうか。一度前に出かけた体を、カリナが再びヴァージンの後ろに移し、改めて勝負に出ることとしたようだ。3600mを過ぎ、そのままカリナとの距離に変化なく、勝負の4000mを迎えた。

(ここからカリナさんを引き離せば、間違いなく次の記録に手が届く……!)

 体感的には、4000mの通過が11分24秒ほど。ここでヴァージンは、「Vモード」の底で強くトラックを蹴り上げ、一気にペースを上げていった。だが、それを見計らったように、カリナもそのペースに合わせていく。追いつこうとしているぶん、カリナのスピードのほうが少しだけ上であるかのように、ヴァージンはその息遣いから感じた。

(14分03秒台の自己ベストを持つカリナさんが、ここで引き下がるわけがないか……)

 4400mのラインが目のまえに迫ると、ヴァージンは再びペースを上げた。これでラップ62秒。そのペースを体で感じたとき、彼女はもう一段ギアを上げるだけのパワーが、その脚に残されていることを彼女は確信した。

 同時に、カリナとの勝負がまだ終わらないということに気付いた。

(まだ、私の真後ろにカリナさんがいる。最後、私より前に出ようとしているはず……)

 そうヴァージンが全身に言い聞かせたとき、最後の1周を告げる鐘がスタジアムに響いた。残り400m、お互いがトップスピードまでペースアップする。カリナとの本当の勝負だ。

 ヴァージンは、トレーニングとほとんど変わらないスピード――ラップ60秒を軽く切れるような、これまでとは明らかに違う力――をはっきりと感じた。空気をも切り裂くような速さで、スタジアムを駆け抜ける。

 だが、次のコーナーを回ったとき、それでもカリナの足がはっきりとヴァージンに食らいつくのを感じた。同時に、ロッカールームで13分台を出すと言ったカリナが、有言実行する空気がスタジアムを包み込みだした。

(カリナさんが……、間違いなく自己ベストを大きく縮めようとしている……。でも、実際に13分台で走ったのは、私一人のはず……!)

 世界中の女子でただ一人、5000mの自己ベストが13分台。そのことが、ヴァージンをより冷静にさせた。まだ14分台のカリナは、次の記録が手に届きそうな彼女にとって敵ではなかった。

 やがて、ヴァージンの背後から不思議な息遣いが消え去る。そのことをはっきり意識する間もなく、ヴァージンはゴールラインまで一気に駆け抜けていった。


 13分57秒86 WR


(57秒台が出た……!)

 記録計に映る数字に目をやったとき、ヴァージンは口を大きく開き、力強い声で「やった」とこぼした。トレーニングでは14分を切る走りを何度も見せているものの、実際にスタジアムの記録計に13分台の世界記録が映し出されるのが初めてだっただけに、ヴァージンは思わず記録計に飛びつこうとした。

 そこで初めて、カリナがゴールラインを駆け抜けたのだった。

(カリナさん……、最後まで私に食らいついてきていたのに……)

 おそらく、カリナの記録は14分06秒台に届くかどうか。自己ベストの更新どころか、ヴァージンが見た中ではカリナの最後の1周が最も遅いペースであるかのように思えた。

 ゴールラインを駆け抜けたカリナは少しだけ下を向き、両手の拳で右足を軽く叩いた。ヴァージンがゆっくりと近づくと、カリナは顔を上げてヴァージンの肩を優しく抱き、そっと彼女に告げた。

「悔しい……」

 カリナの声は低く、これまで何度となく見せてきた明るい声から考えれば、明らかに別人のようにさえ聞いて取れる。ヴァージンは、その声に小さくうなずき、言葉を返した。

「カリナさんだって、最後まで私を苦しめたじゃないですか……」

 すると、カリナはヴァージンの肩から手を離し、そっと首を横に振って、再び低い声で答えた。

「苦しめた……。そんなことない……。私は、アスリートになって、初めて限界を見たような気がする」

「急にペースが落ちたのは、もう限界って体が言ってたからですか」

「それしかない。グランフィールドが……、あのスピードで走れるのが、あの時すごく羨ましかった」

 そう言うと、カリナはヴァージンの肩をもう一度抱いて、訴えかけるような目でヴァージンを見つめた。


「グランフィールド……、どうしたら、13分台が出るんですか……?」


 あの瞬間から半年以上経つにもかかわらず、これまで一度も尋ねられなかった質問に、ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。カリナの声は低いままで、切実にそのことを知りたがっているようだった。

 だが、ヴァージンは小さく首を横に振った。

「私だって、まだ2度目です。ちゃんとしたことは言えないんです」

「でも、どうやったら13分台を出せるか……、知ってるだけでいいんです。トレーニング方法とか……」

 カリナは、それでもヴァージンに語り掛ける。そこで、ヴァージンはこうカリナに告げた。

「私が13分台の壁を破れた理由は、たった一つ。壁を破りたいっていう気持ちだけです。たとえ心が折れそうになっても、13分台を叩き出すまで走るしかないって、心でそう強く思ったんです」

 ヴァージンの静かな返答に、カリナは小さくうなずいた。

「強い気持ち……かぁ。でも、私だって今まで強い気持ちで、みんなを追い抜いた。気持ちだけは負けてないと思う。だから……、やっぱり次も13分台を狙いに行く!」

 そこでようやく、カリナの手がヴァージンの肩から離れ、カリナがじっとヴァージンを見つめた。レースを終えた直後にも関わらず、カリナの表情から「負けたくない」という言葉が聞こえてくるようだった。

(次は、間違いなく世界競技会の優勝を狙ってくる……)

 2年連続、最高峰のレースで優勝を重ねてきた一人の女子が、今からヴァージンの前に出ようとしていたのだった。

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