第53話 最速女王に湧き上がる自信(3)
「ヴァージンよ、室内記録を出したこと以上にニヤニヤしているように見えるが……」
オメガに戻ってから数日が経ったが、レース後初めてとなるマゼラウスとのトレーニングで、ヴァージンは真っ先にそのことを突っ込まれた。決してトレーニングに集中していないわけではないが、アルデモードとの距離が縮まったことを顔の中に隠しきれずにいたのだった。
「何でもないですよ、コーチ。でも、今までいろいろな悩みがあったのが、少しずつ消えていくようで……、それで自分がもっと速く走れるようになる気がしてくるんです」
「今まであった悩み……。お前がそう言うということは、まず走りに関してではなさそうだな。おそらく……、お前が女子として一度は経験したいことだろうな」
マゼラウスの言葉に、ヴァージンの目が少しだけ細くなる。照れてしまえば、間違いなく分かってしまうシチュエーションなだけに、ヴァージンは口だけは開けまいと静かにマゼラウスを見つめていた。
「まぁ、お前に何があったか私には分からない。仮にそれが恋の予感でなかったとしても、お前の周辺で何か大きなことが動きそうな気がしてくる。私の見る目は、おそらく間違ってないだろう」
「その……、恋です……。なんか、コーチやメドゥさんを見てて……、今まで何気ないデートでも、私と彼との関係が動いたように感じる瞬間が、実はあったような気がしてならないんです」
「そうか……。まぁお前には、いずれその時が来る。知名度と、凛々しく走るその姿は世界レベルだからな」
「ありがとうございます」
マゼラウスの表情がかすかに緩んだ瞬間、ヴァージンは大きくうなずいた。アルデモードとの恋が、マゼラウスの後押しでさらに進んでいきそうな気がしたのだった。
インドアシーズンが終わり、風が爽やかなアウトドアシーズンへと季節は続いた。その最初のレースとなる、5月のリングフォレストのスタジアムに向かう日が翌日に迫った。
ヴァージンが高層マンションの部屋で支度を終えたちょうどその時、電話が鳴った。メドゥからだ。
「ヴァージン、いよいよ明日がリングフォレストね」
「はい。メドゥさんが私の代わりに申し込んでくれたおかげで、レースに向けて調子を整えられています」
「それはよかった。そこで、ヴァージンに話があるんだけど、いい?」
「どういった……話ですか……?」
突然切り返されたヴァージンは、電話の向こう側にギリギリ聞こえるような声でメドゥに返事した。
「それは……、私がエントリーを出した初めてのレースだし、出ようと思う。私の手違いで、ヴァージンにもしものことがあったらいけないし……、何より13分台の走りを、私もスタジアムに行って見たいの」
「メドゥさん。たぶん大丈夫だと思いますよ。それに、スタジアムに一緒に来てくれるだけでも嬉しいです」
「夫婦同伴になるけど、大丈夫?ヴァージン、私たちがいい関係になっているの、見たくないんじゃない?」
その時、ヴァージンの耳に、トレーニングセンターで何度も聞いている声がかすかに響いた。明らかに同じ場所に夫婦が揃っていた。
(コーチがメドゥさんと結婚したら、同じ場所に住むってことは分かり切っているのに……)
数秒の間を置いて、ヴァージンはメドゥに告げた。
「私だって、恋のレースから脱落したくありません。いま、幼馴染のサッカー選手と……」
「それ、フェリシオ・アルデモードでしょ。ヴァージンのことは、かなり昔のスポーツ新聞も含めて、代理人になるときに全部調べたわ」
アルデモードとの初めてのデートをカメラに撮られ、マゼラウスに一言言われたものの、その後は騒がれることがなかった。だが、ここに来てメドゥの口からそれが告げられたことに、ヴァージンは戸惑いを隠せなかった。
「私の彼氏の名前まで、メドゥさんはご存じなんですね」
「知ってるだけ。あくまでも、私はヴァージンの私生活に立ち入ることなんてできないから」
電話の向こうで、「二人が」笑っているのがヴァージンにははっきりと分かった。
翌日、リングフォレストのスタジアムに続く大通りで、ヴァージンとメドゥ、それにマゼラウスがちょうど横並びになり、お互いの顔を見合わせた。
「まさか、こんなところでコーチやメドゥさんと会うなんて思わなかったです」
「そうね。やっぱり、こういう関係になると、偶然も偶然じゃなくなってくるように思えるわ。でも、そんな偶然が形になったんだから、ヴァージンは今日、いいことあると思う」
メドゥの一声に、マゼラウスが大きくうなずき、それと同時にヴァージンも小さくうなずいた。その後すぐに、マゼラウスの口元がゆっくりと動き出した。
「私もな……、メドゥと夫婦になって、今まで以上にヴァージンのことを考えるようになった。人間関係に新たなステージが出来上がるとき、人そのものも大きく変わると思う」
「ヴァージンも、昨日アルデモードの話をしたじゃない。もし、現役の間にその恋が形になったら、その嬉しい出来事が、間違いなくヴァージンの記録につながってくると思う」
「ホント、そう思います。アムスブルグでデートした時も、私、そう思いましたし」
その時、ヴァージンはふとスタジアムのほうに目をやった。10mほど先を歩いている茶髪の青年が、引き合いに出した人物にどことなく似ているような気がしてならなかった。グラスベスのユニフォームやパーカーを着ていないということになれば、彼が行く先は、間違いなくヴァージンが勝負する場所ということになる。
(今回も、特に行くというメールも手紙も来ていない……。これこそ、偶然なのかも知れない……)
メドゥやマゼラウスに背中を押されるような形で選手受付に向かうと、ちょうどサーモンピンクの髪を揺らしながら、カリナ・ローズがロッカールームへと歩いて行くのが見えた。周回遅れの選手ばかりを追い抜いていたアムスブルグでのレースと違い、この日は間違いなく勝負すべき相手がいる、と直感的にヴァージンは確信した。
(最後まで食らいついてきそうなカリナさん……。自己ベストの差も、わずか3秒。これは本気の勝負ができる)
受付を済ませたヴァージンの足が、カリナの後を追いかけるようにロッカールームへと向かう。
ロッカールームに入ると、最も出口に近いところで、カリナがバッグを入れているところだった。カリナはヴァージンに軽く顔を向けたが、その視線がヴァージンには羨ましそうな表情を浮かべているかのように見えた。普段なら開口一番で明るく挨拶を交わすカリナだが、初対面から2年経ったいま、彼女が一気に大人になっていくようにさえ思えたのだった。
ヴァージンは、逆にこちらからカリナに近づいていった。
「お久しぶりです、カリナさん」
「お久しぶりでーす。あの……、なんか13分台を出せるの、羨ましい」
「カリナさんだって……、かなり近い自己ベスト持ってるじゃないですか」
ヴァージンがそう言うと、カリナは首を素早く横に振って、それからもう一度ヴァージンを見つめた。
「私だって、今日は13分台を出したい!そして、グランフィールドを追い越したい!そう思ってる」
そう言うなり、カリナはロッカールームを出ようと足を前に出した。そのままヴァージンに背中を見せると、一度だけ彼女に振り返った。カリナの目は、やはり羨ましそうにヴァージンを見つめていた。
(カリナさんは、間違いなく本気で私を狙ってくる)
レースまでサブトラックで最終調整をしているときでさえ、ヴァージンはカリナの羨ましそうな表情が気になって仕方がなかった。どんなスピードでも、ライバルに食らいつける持久力をカリナが持っていることはこれまでのレースで経験済みで、13分台に手が届いたヴァージンにさえも、彼女がためらわずに食らいつくかも知れなかった。
それでも、ヴァージンはアムスブルグの時に強く抱いた自信を、心の中に響かせた。
(もしカリナさんが、私にぴったりついてきたとしても……、追い抜いたとしても……、今の実力は私のほうが
上だということを見せつけたい。それに、屋外でのトレーニングで、何度か世界記録を上回るタイムを出せているんだから!)
サブトラックから集合場所に向かう間、ヴァージンは何度も自身にそう言い聞かせた。
「On Your Marks……」
女子5000mのスタートの瞬間が近づく。最も内側でスタートを待つヴァージンに、真横からカリナの羨ましそうな視線が貫いてくる。だが、ヴァージンはその瞬間にもカリナを軽く見て、それから正面に向き直った。13分台の自己ベストを持つその姿は、余裕さえ見せていた。
(よし……!)
リングフォレストの空に、スタートの号砲が鳴り響く。二人の一騎討ちが、いま始まろうとしていた。