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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
二人の想いは いま一つに結ばれる
324/503

第53話 最速女王に湧き上がる自信(2)

 体を前に出しながらゴールラインを駆け抜けていったヴァージンに、スタジアムのあちこちから大きな歓声が上がった。誰もが我先にと、ゴール横の記録計に映し出されたタイムに目をやり、その瞬間に再び歓声を上げる。

(この歓声は……、間違いない……。私は、次の記録を出せたはず……!)


 14分05秒87 IWR


 その数字を見た瞬間、ヴァージンはいつも以上に落ち着いていたところから一気に解放されたように思えた。肘を曲げたまま手前に引き、彼女は全身で喜びを感じたのだった。

(難しい室内レースになったけど……、出せると思っていた室内記録が出て、本当に良かった……)

 ヴァージンは、記録計に右腕を伸ばし、まるで記録計を手繰り寄せるかのように寄り添った。そして、「IWR」の文字に左手の人差し指を当て、出せる限りの笑顔を見せたのだった。

 すると、次の瞬間、ヴァージンの目に見慣れた茶髪の青年が飛び込んできた。その姿に、左手を記録計から口元まで動かして、その口をふさいだ。

(えっ……、アルデモードさん……?観客席に……、いる……?)

 アルデモードが、ヴァージンに向かって優しく手を振っている。ちょうど記録計の正面から真っすぐ見えるような場所で、彼女のゴールの瞬間を待っていたかのようだった。それも、メールなどで全く予告されることなく。


「アルデモードさん……。まさか、アムスブルグまで来てくれるなんて思わなかったです……」

 選手用の出入口の前、しかも最も入口に近いところでアルデモードがヴァージンを待っていた。ヴァージンはアルデモードの手を掴むと、甘いマスクを浮かべたアルデモードが小さく笑った。

「ちょうど、今はリーグ戦がない時期だから、弾丸でアムスブルグに応援しに来たんだよ」

「アルデモードさん……。リーグ戦がないから……って、グラスベスの練習には参加しないんですか……?」

「ま……、まぁね。……実は、今日はヴァージンに折り入って話をしたくて……、確実に出会える場所にね」

「そうなんですか……。その話、楽しみにしています!」

 合計で30回近く追い抜きを繰り返したヴァージンの体は疲れ切っていたものの、アルデモードの言葉で一気に軽くなっていくように感じられた。そのような中で、アルデモードはヴァージンの肩を叩いた。

「じゃあ、僕がこの街を歩いて一番いいと思ったカフェで話そう。今日の君の室内記録と、君の13分台樹立のお祝いとして、僕が全部おごってあげるよ」

「ありがとうございます!」


 アルデモードの少し後を歩きながら、ヴァージンは都会の中のオアシスとも言えるような、緑に包まれたカフェに吸い込まれていく。緑から溢れる空気だけでも、疲れ切ったヴァージンの体を癒してくれるようだ。

(何この……、不思議な空気……。店内にもところどころ置かれている緑に、室内にいることも忘れそう……)

 ヴァージンが店内で左右を見渡していると、アルデモードの優しそうな目がヴァージンに眼差しを浮かべた。

「ヴァージンは、なに飲みたい?レースの後だし、さっぱりしたドリンクにする?」

「そうですね……。さっぱりしたドリンク、いいですね。お願いします」

 ヴァージンがそう答えると、アルデモードはゆっくりと立ち上がり、カウンターへと向かった。ほどなくして、ヴァージンの目の前に3種類のカップが並べられた。

「アルデモードさん……、もしかして、これ……。アルデモードさんが私と同じものを頼んだとか……、ですか」

「いや、そうじゃないよ。これが、この店で一番さっぱりしているパインのスムージー。これが僕の頼んだ、ホットレモンティー。そして、このバナナとピスタチオの甘いジュース……、たぶん君も僕も好きなんじゃないかな……って思うんだ」

 アルデモードの言葉が終わると同時に、ヴァージンは並べられたカップの先にあるストローが全部で4本あることに気が付いた。そこで、ヴァージンはもう一度口に手を当てた。

「えっ……、えっ……。一緒に、ってことですか……」

「もちろん。ヴァージンにとって、僕が身近な存在だって分かってるからさ……!」


(これは……、もしかして……、アルデモードさんから、何かものすごいメッセージが発せられ……)

 ヴァージンの手は、すぐにストローを二つ持ち上げ、袋を破ってほぼ同時にカップに突き刺した。そして、そのストローのうち一つをアルデモードに向け、それからもう一つを彼女自身のほうに向けた。

「なんか、少しずつしか動かなかったものが、大きな一歩を踏み出したような気がします……」

「そうかな。君だって、僕だって、走り続けなければその先は見えてこないんだからさ」

「言われてみれば、そうですね」

 ヴァージンは、自然と笑っていた。だが、その肝心な一言がアルデモードの口から言いたそうで言わないことにも、彼女は同時に気付いていたのだった。

 その代わり、アルデモードはそっとヴァージンに尋ねたのだった。

「ヴァージンさ。もう、何度聞いたか分からないけど、今の君の夢って何だろう……」

「今の私の夢……。そうですね……、アメジスタで、スタジアムの歓声が上がることだと思っています……。アメジスタに勇気や希望を与えたいって……、私は今でもその気持ちは忘れていないですから」

「とうとう、そこまでいったんだ。アメジスタで、やっと君の名前が知られるようになったわけだし」

「本当に、そう思います。この前、アメジスタに戻ったときに、ものすごく手ごたえを感じました」

 ヴァージンがそう言うと、アルデモードは静かにうなずいた。そして、二つのストローが入ったドリンクを、水面が動いたか分からないくらい飲むと、ゆっくりと口を開いた。

「僕は……、そうだね……。グラスベスのサポーターに笑顔になって欲しいっていう夢かな。君と一緒」

「アルデモードさん、アメジスタじゃなくて、すっかりチームに染まったんですね」

「まぁね。でも、君が力強く走るのを見て、アメジスタ頑張れって思うんだ……。僕は、夢のために国を出たけど、アメジスタのことも、まだまだ忘れられないんだ」

 アルデモードの表情は、照れていた。だが、まだ何かを言い出せないような硬さが、体のどこかに見え隠れしているように、ヴァージンには見えた。

「なかなか、故郷を捨てることはできないです。……そうそう、私、アメジスタの文化省に行ってきました」

「文化省……。あの、アメジスタで一番小さな省庁……?」

「小さかったです。でも、そこに行けば、アメジスタ代表として支援してもらえるんじゃないかって思ったんです。そこのトップにも、私を支えてくださいってお願いしたら……、かなり前向きな返事がきました」

「そうなんだ!」

 アルデモードは、ヴァージンの言葉が終わると同時に、速いテンポで手を叩いた。

「まだ、決まったわけじゃないんです。でも、なかなかアメジスタ国内からそう言ってもらえなかったから……、あの時ものすごくうれしく思えました!」

「嬉しいどころじゃないさ。今まで、アスリートなんて、とか言われてきた国で、アメジスタを背負うアスリートに選ばれるわけだもの。今でもそうだけど、アメジスタの顔になるんだから」

 そう言うと、アルデモードの手がヴァージンの肩をそっと撫でた。そして、二つストローの入ったカップをヴァージンに向けて少しだけ差し出した。

「ほら、ジュースが溶けちゃうよ。僕の気持ち、感じてくれたんだから、素直になろうよ。ねっ」

「ア……、アルデモードさん……」

 その時、二人の口が同時にジュースを吸い上げた。結局、その日のデートで肝心な一言がアルデモードの口から出ることはなかったが、これまで長いことすれ違い続けた二人の距離が、一気に縮まっていくのをヴァージンは感じていた。

(私も……、もう少し恋のジャンルに詳しくなった方がいいのかも知れない……。アメジスタで最初にいいと思っていたアルデモードさんが、少しずつ近づいてきているのに……)

 ヴァージンは、そっと天井に目をやった、やはり緑色に飾られた天井がそこにはあり、まるで緑を撫でているかのように、空調の心地よい風が吹き抜けていた。

(コーチとメドゥさんのように、何かのきっかけで転ぶことだってあるはずなんだから、近いうちに私とアルデモードさんの関係だって……、動き出すかも知れない……!)

「どうしたんだい、僕のほうが多くジュース飲むなんて、君に対して失礼だと思うよ」

「ご……、ごめんなさい……。アルデモードさんの言葉に、どう答えていいか分からなくなって……」

「それはね、君の気持ちで答えていいんだよ」

 その瞬間、二人は同時にストローから口を離し、軽くうなずきながら笑った。タイムラグひとつもなかった二人が、次の一歩を踏み出すのはそう遠くないように、ヴァージンには思えた。

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