第52話 アメジスタ人の心を一つにする力(6)
(ここが、アメジスタ文化省……。ただのアパートの一室みたいな感じがする……)
聖堂前の広場から3区画だけ北に行った、通りに面した建物の中に、看板一つだけでその存在を知らせるかのように、それはあった。それも、2階の一番奥の部屋のようだ。あの時テレビが置かれた産業開発局と比べれば、それだけ小さな組織だということが、ヴァージンが見るまでもなく分かった。
本当に、この小さいスペースで国の文化振興事業の全てを取り扱っているのだろうか。ヴァージンは、2階へと続く階段を上がるうちに、予め考えてきた言葉とは別に、そのことが気になって仕方なかった。
(こういう場所を借りる予算すら、アメジスタにはないのかも知れない……)
やがて、黒塗りのドアに「アメジスタ文化省」と書かれたプレートが掲げられている場所にやってきた。そこでヴァージンは、大きく息を吸い込んで、ゆっくりとノックした。
どうぞ、とアメジスタ語で返されたと同時に、彼女はゆっくりとドアの取っ手を引いた。その瞬間、グリンシュタインの街の中ではまず見かけたことのない、黒い帽子と引き締まったような紺色のスーツの男性が、右手を額まで持っていき、敬礼した。
(省庁になんて行ったことないから、こんな周りと違う人ばかりだなんて思わなかった……)
ヴァージンは、敬礼に対して長く礼をして、それからゆっくりと口を開いた。
「ヴァージン・グランフィールドと申します。本日は、よろしくお願いします」
「ようこそいらっしゃいました。今日は、文化省の長官に会いたいということで、予約を承っております」
「はい、分かりました」
「では、早速長官がお見えでございます。奥の部屋へどうぞ」
ヴァージンは、案内の人について行くように、赤い絨毯の上をゆっくりと歩いた。外見からは全く想像できないほど、壁には金箔の装飾がされている。ただ、その金箔もところどころはがれかかっているようだった。
「こちらが、文化省長官、エスカ・ルネーブルの部屋でございます。ノックをしてお入りください」
「分かりました」
ヴァージンは、先程よりもゆったりとしたスピードで、扉を軽く叩いた。すると、ヴァージンを待っていたかのように、中にいる人物がその扉を開けた。短めの黒髪に、やや小太りな体格をした60歳ほどの男性がヴァージンを見つめている。どうやら、この男性が文化省の長官のようだ。
ヴァージンがドアを閉めると、ルネーブル長官は一度うなずいて彼女の手を握りしめた。
「君が、世界じゅうで有名な陸上選手、ヴァージン・グランフィールドだな。会えてうれしいよ」
「はい……。こちらこそ、ここまで来られることを光栄に思っています」
「なかなか、省庁との関係を築けるような国民は、いないからな……。君のお父さんが、出版申請をするときに出版社の人とよくここに来られる」
「そうですか。父がここに足を運んでいるとは、知らなかったです」
ヴァージンは、ためらうことなくルネーブル長官にそう答えた。すると、長官はヴァージンを応接椅子まで案内し、彼女は案内されるがままに、ふかふかの椅子に腰かけた。
「さて、今日君がここに来た理由は……、事前に話があったように、支援ということでよかったんだな」
「はい、おっしゃる通りです」
(いきなり、私を支援してください、だと、ここはまずいかも知れない……)
ヴァージンは、はやる気持ちを抑えつつ、考えてきた言葉を一つずつ思い返そうとした。だが、外の喧騒が全く聞こえないこの長官室では、時間が経てば経つほどその雰囲気に呑まれ、思い出せなくなりそうだった。
(いつものように、この一瞬に集中しよう……。そうすれば、必ずいい結果が生まれてくるはず……!)
わずかな時間で、心にそう言い聞かせたヴァージンに、ルネーブル長官は一度唸ってから尋ねた。
「して、君は何故支援を受けたいと思っているのか、聞かせて欲しい」
(いきなりそう来た……。これが、形式的な質問なのか、それともアメジスタにはそんなお金がないということを遠回しに言っているのか……、落ち着いたトーンだと見分けがつかない……)
ヴァージンは、ほんの1秒だけ下を向き、それから顔を上げた。
「それは、夢を形にすることを……、もっと多くのアメジスタ人に伝えたいからです」
ヴァージンの声が、長官室に滑らかに響く。その声に乗るかのように、ルネーブル長官が、ほうと唸る。
「夢を形にする。なかなか、そういうことを言えるようなアメジスタ人は少ないな。だが、どうしてそれで支援ということに結びつくのか、それを教えて欲しい」
「私は、16歳の時にジュニアの大会に挑戦して、そこで初めてアメジスタ人以外のライバルと戦いました。そのとき、私の夢に……、アメジスタの人々が2000リアを出してくれました。そして、私はたった一度のチャンスで……、アスリートとして生きる夢を、形にしました」
ヴァージンの脳裏に、途方もない夢を強く語る16歳の彼女が映った。それを思い出しながら、言葉を続ける。
「けれど……、その時、ほとんどの人が私に言いました。無理だと。アメジスタ人に生まれた以上、アスリートになんかなってはいけないんだと」
「たしかに、私の時代も親にそう言われていたな」
「ルネーブル長官も、そうだったんですね。でも……、そこで夢を諦めてしまうほど、悲しいことはないと思うのです。私が、ここまで頑張れたのは……、自分の実力もありますが、それと同時に、ほんの少しだけ、支えてくれる人がいたからです……」
ヴァージンは、少しずつ思い出しながら、夢を形にしてきた自分自身の経験を言葉にしていく。
「私は、いろいろな人に支えられながら走ってきました。それでも、アメジスタの人々に私の活躍を伝えることができなくて……、アメジスタでの私の知名度は全くないに等しかったのです」
「そうか……。たしかに、新聞で国外のことは扱わないからな」
ルネーブル長官が、軽く唸る。それを見計らって、ヴァージンは少しずつ声に力を込めながら告げた。
「たしかに、そうだと思います。でも、この夏のオリンピック中継で、大きく変わったんじゃないでしょうか。テレビに映った私を見て、どれだけの人が……、私に夢や希望を抱いたか……、そしてどれだけの人が、同じアメジスタ人に……、こんな立派に世界と戦えるような人がいるって感じたか……。誰かがそう抱くだけで、私はそこに走る意味を感じます」
「なるほどな……。だが、どうしていま支援を必要とするのかね」
「今しかないからです。多くのアメジスタ人が、私をアメジスタの陸上選手だと認めてくれたんです。だから……、世界で戦い続ける私を……、アメジスタの代表選手として支えて欲しいんです!」
最後は、かすれそうな声でルネーブル長官に告げたヴァージンは、しばらく長官の表情を伺った。すると、10秒ほど経ってから腕組みを始めた。
「もし支援を受けるとすれば、どういった支援がいいと思っているのか聞かせて欲しい」
「はい。遠征の費用、大会の参加費用、用具代やシューズ、ウェアの費用。それらの一部をお願いできればと思います。相当のお金がかかります」
そう言うと、ヴァージンは8ヵ月ほど前に税務コンシェルジュと二人三脚で作った申告書をカバンから取り出した。その額に、ルネーブル長官は思わず震え上がった。
「き……、君一人だけで……、国家予算を超える収入を……」
アメジスタとオメガでは、お金の感覚がこれほどまで違っていたことを、ヴァージンははっきりと分かった。震えが止まらない長官を前に、ヴァージンは静かにこう告げた。
「これが、夢を形にした結果です。でも、ここ見てください。私の手元には、ほとんど残りません」
「の……、残らないのか。それが、さっき言っていたウェアとか、そういう感じのものなのか」
「はい。レースに出られなかったり、出ても賞金に手が届かなかったりすれば、私の生活はすぐに大変になります。アメジスタのために基金を作っていますが、それも自分からはほとんど入れられていません」
ヴァージンの言葉に、ルネーブル長官が何度もうなずく、そして右手に頬を当てながら、言った。
「そうか……。言っていることは分かった。けれど、ここから先は文化省の予算との相談だ」
「そうですか。ありがとうございます」
長官の声は前向きで、それでも告げた言葉は全く前に進んでいない。そのことに気付いた彼女は、そっと返すしかなかった。だが、すぐにルネーブル長官の表情が変わったことに、逆にヴァージンのほうが驚いた。
「それでも私の中では、君がアメジスタを背負う、大切な人間だと思ってるよ」
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文化省からの返事を待つことなく、オメガに戻る日になったヴァージンに、ジョージがこう告げた。
「ここから先は、私のところに連絡が来る。どういう結果になっても、ヴァージンに手紙で伝える」
「ありがとう、父さん。文化省からいい答えが来るように……、願ってます」
「私もだ。ただ、ヴァージン本人と会えて、長官もきっと心を変えたはずだ。そのことだけは忘れるな」
「はい」
空港へと向かうタクシーの車内で、ヴァージンは何度も後ろを振り返りながら父の表情を見た。その表情を見るだけで、彼女自身に明るい知らせが待っているように思えた。