第52話 アメジスタ人の心を一つにする力(5)
「きっと、この日の新聞は見たいだろうな」
ヴァージンが実家で一夜を過ごし、朝食を済ませると、ジョージが部屋に戻ろうとする彼女を呼び止めた。
「父さん、もしかしてそれは……、オリンピックの日の新聞……!」
「勿論だ。ヴァージンも、どのように国内で見られていたか、気になるだろ」
そう言うが早いか、ジョージは書斎に向かい、すぐにオリンピック当日の新聞をヴァージンに突き出した。そこには、これまでアメジスタの新聞ではほとんど見たことのないサイズの画像と、その中心にあるテレビ、そしてスタート前の彼女の姿がはっきりと映されていた。
「これ……、こんなに集まったんですか……!」
「そうだな、グリンシュタインのこちら側の人間は、たぶん半分以上このテレビの前に集まったと思う。私も見に行ったが、遠くからしか見られなかった」
「父さんも……、私を応援してくれたんだ……」
「大事な娘がレースに出ている姿を、初めて見るからな。同じ国の選手どころか、同じ家族だからな」
そう言うと、ジョージはヴァージンにその新聞を手渡した。最初は画像に驚くだけだったヴァージンは、やがて食い入るようにその記事を読み進めた。
(アメジスタ人が、国外では当たり前になったテレビを初めて見て……、そこに映る私を懸命に応援した……。陸上のルールが分からない人も多かったけど、アメジスタという言葉をテレビから聞いて、ライバルを追い続ける私を応援した……。何とも不思議な数十分だった……。そう、この記事は書いている……)
おそらく、この記事を書いた人でさえテレビを見たことはほとんどないはずだ、とヴァージンは感じた。だが、それだからこそ、人々と一体になり、最後は心を一つにしてその姿に見入ったことは間違いなかった。
「アメジスタじゅうが、あの時……、一つになった……。みんなの言ってたことは、間違いなかった……」
「ヴァージンに、そう言ってくれた人がいるんだな。私以外に……」
「たくさんいます。中継をバックアップしてくれたグローバルキャスから、いろいろメールをもらってるし、グリンシュタインの街でも何人かにそういうことを言われた。それに、あのスタジアムを修理しようと言ってくれた人だって……、いたんです」
ヴァージンは、ビルシェイドやファイエルの姿を思い浮かべながら、ジョージに告げた。すると、ジョージの表情は一気に緩み、これまで見せたことのないような笑みをヴァージンに振り撒いた。
「すごいじゃないか、ヴァージン。アメジスタで、いろいろ言われ続けたのに、その名前と、世界を相手に戦う姿が知れ渡ってから、人々の見る目が変わったな」
「変わったような気がする。父さんもあの場にいて気付いたと思うけど、最初、私のことを知らないって思っている人が多かったんじゃ……」
「そうだな。最初は、テレビだけをじっと見つめている人が多かった。試験で放送していたときから足を止めて、アメジスタで見たことのない何かが始まるという予感だけでその場にいた人も多かったからな。それが、ヴァージンの名前とアメジスタの国名だけで、アメジスタ人の心が動き出した」
そこまで言うと、ジョージは新聞に見入るヴァージンの横に立ち、その目を見つめた。すると、ヴァージンもようやく新聞から目を離し、ジョージに振り向いた。そのタイミングで、ジョージは彼女に告げた。
「これで、アメジスタは動き出した。人々の記憶の中に、ヴァージン・グランフィールドの名前が刻まれた。実際に、スタジアムを修理しようと言ってくれる人もいた。だからこそ、父さんとしては……」
そこで力を溜めるように、ジョージの言葉が途切れた。ヴァージンの目が、やや細くなる。
「父さんには……、もっと他の希望があるんですか……」
ヴァージンの声に、ジョージは一度だけ首を横に振り、それから力強く言った。
「アメジスタが、国としてヴァージンを支援しないのは、おかしいんじゃないか。アメジスタにいる、こんな素晴らしい国民を……、たった一人でアメジスタを背負って戦うヴァージンを……、支援しないのはおかしい!」
(父さん…)
ヴァージンは、そこまで言いきったジョージに拍手を送った。それから、想いを吐き出すように言った。
「それ、私……、言いたくても言えなかったのに……、父さんが後押ししてくれた……」
「私も、アメジスタのために走り続ける以上、支援してって言いたかったんだろうと思うよ。けれど、アメジスタがどういう国か知っているから、これまでヴァージン一人の力で……、賞金や記録、そしてトップアスリートという生き方を築き上げたんじゃないのか」
「言われてみれば、そうかも知れません……。心の中に、その気持ちだけはしまいっぱなしでした……。けれど、アメジスタで、少しずつ名前が伝わっていって……、いつそれを言おうか、待っていたかも知れません……」
ヴァージンは、数秒だけ下を向いて、それからジョージに向き直った。すると、ジョージは軽く首を横に振りながら、彼女に告げた。
「本当は、国のほうから声を掛けるのを待っていたほうがいいのかも知れない。ヴァージンの気持ちも、私にはよくわかる。けれど、ここまで酷い財政の中で待つよりも、ヴァージンのほうから国に売り込んだほうがいいように、父さんは最近思えてきたんだよ」
「ということは、私が政府に支援をしてもらうよう、言うってことですね」
「支援と言うか、例えば国の強化指定選手にしてもらうとか……、そんなところでもいいと思う。勿論、4年後のオリンピックに向け、今までアメジスタになかったオリンピック委員会を立ち上げてもらう、というのもいい」
「それも……、国が後押ししてくれる一つの道ですね……」
ヴァージンは、これまで3回のオリンピックが全て特例枠で挑まなければならなかったことを、今更ながら思い出した。今や5000mのトップレースにいなければならないほどの選手でありながら、故郷の国にオリンピック委員会がないため、今なおそうせざるを得なかったのだ。
「どうだ、ヴァージン。来週のフライトまでの間に、文化省に会ってくるがいい。おそらく、今年の夏にグリンシュタインを沸かせた一人の女子と言えば、分かってもらえるはずだ」
「文化省……、になるんですね……。スポーツ関係の支援だと……」
文化省と言えば、五つの省庁しかないアメジスタ政府の中でも、ほとんど目立たない省だった。アメジスタの主要産業を支える農業省や、貧困対策からインフラ修理まで全てを受ける支援省ばかり名前が目立っており、まるでアメジスタには文化すらないかのように、その名前が表に出てくることは少なかった。
「父さんが、こうやって本を出すのも、文化省の支援があってこそだ。そうじゃなければ、書店どころか本そのものがアメジスタから消えているかもしれない」
「そっか、本も文化省の管轄になるんですね……」
「そう。私は、今日グリンシュタインまで打ち合わせに行ってくる。その時に、文化省と話が持てる時間を決めてあげるよ。ヴァージンが、わざわざアポイントのために文化省まで出向く必要なんかない」
「ありがとうございます!」
はっきりとした口調でヴァージンに告げるジョージは、アメジスタでの代理人であるかのように、彼女には思えた。よし決まった、と一言言い残して、ジョージはゆっくりと書斎へと消えていった。
(いよいよ、私がアメジスタの国から支援を受ける日がやって来る……)
ほとんど変わっていない、いつものトレイルランニングのコースを駆け抜けるヴァージンは、アメジスタの風を感じるたびに、何度もそう言い聞かせた。アメジスタを背負うと言って、その脚と2000リアのお金だけを持って世界に挑んだ11年前と比べれば、その支援には格段の差があった。それは決して、金額だけではないはずだ。
(私は……、ずっとアメジスタの選手として走り続けた……。それが、本当にアメジスタ代表と呼ばれるようになる……)
アメジスタは、弱い。勝てない。そして、世界の壁に跳ね返されるだけ。おそらく、人々のアスリートに対する意識がそうなってしまってから、文化省も誰一人支援してこなかった。それすらも、いま変わろうとしている。
(私は……、今まで以上にアメジスタのことを思って、走り続ける……)
全力を出し切り、実家の前でクールダウンしているとき、彼女の脳裏は既に文化省の「お偉い方」に言うべき言葉を思い浮かべるようになっていた。それだけ、彼女にとって大切なイベントが転がり込んできたんだった。
その夜、4日後に文化省との話し合いの場が持てると、彼女はジョージから告げられた。
「勝負」の時が、やって来た。