第52話 アメジスタ人の心を一つにする力(4)
ヴァージンが振り返ると、ロープを大きく飛び越えながら迫ってくるビルシェイドがその目に飛び込んだ。通りを歩く人々などまるで眼中にないかのように、彼はヴァージン目がけて一直線に走った。
「ビルシェイドさん……。久しぶりです……」
「やっぱり、僕の出した手紙でアメジスタに戻ってきてくれたんですね……」
「半分は、そうかも知れない。それに、アメジスタじゅうが応援していたって聞いて、帰らなきゃって思った」
「そうだったんですね」
つい先程ヴァージンがそうしたように、今度はビルシェイドがヴァージンの胸に飛び込んだ。ヴァージンの手が、ビルシェイドの肩を優しく撫でる。
「ビルシェイドさん。私、5000mで13分台を出せました。世界中の女子の中で、ただ一人」
「すごいじゃないですか……。僕が見たときは、たしか14分……ちょっとだったような気がします」
「そうでした。あの時も、世界記録を出したと思います……」
「やっぱり、グランフィールド選手は……、強いですね」
頬を赤くするビルシェイドの表情にうなずいたヴァージンは、静かに言葉を返した。
「ありがとう……。それに、ビルシェイドさんにはもう一つお礼を言わないといけないですね」
「もう一つ……」
「アメジスタに私の名前を広げてくれたこと。ビルシェイドさんがいなかったら……、今もまだアメジスタ人の心の中に、私はいなかったような気がします」
ヴァージンは、もう一度ビルシェイドの肩を二回、三回と叩いた。すると、彼は目をわずかに上に傾けた。
「そうかもしれないですね……。僕だってあの中継の後、書店に雑誌が並ぶなんて、思っていなかったです……」
ビルシェイドの手は、書店に積まれた「ワールド・ウィメンズ・アスリート」をはっきりと指差していた。その手の指し示す方向をヴァージンははっきりと見て、それから強くうなずいた。
「たしかに、書店に本が並ぶようになったのも、一つの成果かも知れません。けれど、そのおかげでもっと大きな変化がアメジスタに起きるかも知れないって……、ここに来て思うようになったんです」
「そうなんですか……」
ビルシェイドが言葉を返すと、ヴァージンはビルシェイドを抱いたまま、書店から数軒離れた建物の路地裏へと彼を導いた。まだはっきりとしたことが言えないにしても、彼にだけは伝えなければならなかった。
ヴァージンは、あの時ファイエルが見せたように、誰も路地裏に入ってこないことを確かめて、口を開いた。
「メリハリのファイエル。その名前を、聞いたことありますか」
「ファイエル……。たしか、怖い人ですよね……。分断した側のボスみたいな……感じの人だと思います」
「怖いって……、その感触は合ってるかもしれないです。私にも、最初はアスリートなんて役立たずって言われてしまいましたし……」
「こんなにも、夢にあふれた職業のはずなのに、そんなことを言ったんですね……」
「そうですね……。実際、アメジスタで生まれたアスリートは、世界の壁に遠く及ばないって言われてましたし。こうやって、世界じゅうにその名前が知られるようになったアメジスタの選手は、たぶん私が最初です」
ヴァージンがそう言うと、ビルシェイドは信じられないと言わんばかりに口を大きく開けた。
「そ……、そうだったんですね……。じゃあ、アメジスタ人があまりよく思わないのも、それにつながって……」
「ビルシェイドさんが言った通りです。私の父だって、アスリートの夢を捨てろと何度も言いました。……ファイエルさんだって、きっとそういう考えを持っていた人でした」
そこまで言って、ヴァージンはもう一度通りを振り返った。それからもう一度、ビルシェイドにうなずいた。
「でも、ファイエルさんは……、テレビに映った私を見て、変わったと思うんです」
「変わった……。あのファイエルが……、怖い人間じゃなくなったってことですか」
「そこまで大げさに変わったわけじゃないです。でも、少なくとも私のことを、アメジスタ人の心を一つにできる存在って言ってくれました……。それに、アメジスタにいてはいけない人なんていないって言ってましたし……、ここにいる全ての人間が同じアメジスタ人だということも……」
その時、ビルシェイドが恐る恐る尋ねた。
「僕たちも、ですか……」
「勿論です。私だけじゃなく、ファイエルさんだって、そう思うようになりました」
「心を一つにするってこと……、言葉だけじゃなかったんですね……!」
ビルシェイドは、通りまで響いてしまいそうな声で、微笑みながら返した。ヴァージンは首を小刻みに横に振りながら、ビルシェイドの浮足立つような気持ちを止めるしかなかった。
「まだ……、それは形になっていないです……。ファイエルさんが、アメジスタの議員になって……、国を変える、その中でいろいろとこれまでにないアメジスタを作っていくと思います……。ファイエルさんは、本当は私たちの国のことを考えてくれる、たくましい存在なのかも知れません」
「すごい人です……。僕たちの未来は、それほど暗くなさそうですね」
その時、暗い路地裏の真上から、ほんのわずかに日が差し込んできた。一日のうちで、ほんの数分しか差さない暖かな光に、ビルシェイドの表情が微笑む。それを見て、ヴァージンも口元を緩めないわけにはいかなかった。
「そうですね……。誰にだって、夢や希望を形にできるはずですもの……」
「それは……、グランフィールド選手が……、その体で教えてくれているじゃないですか……。そして、その走りでアメジスタをここまで動かそうとしているということも……」
(目まぐるしいほど、アメジスタが大きく動きそうな瞬間を見たような気がする……)
それから終始笑顔だったビルシェイドに別れを告げ、ヴァージンは荷物を持ったまま実家へと続く道を歩き始めた。荷物さえなければ、このまま実家まで走ってしまいそうな勢いだった。
(何と言っても、グリンシュタインの人たちが私に冷たい視線を向けなくなっている……。これまで、ここに戻って来たときは、ほぼ毎回何かしら、悲しくなるような言葉を言われてきたのに……)
故郷に戻って、何度も流してきた涙。その涙の味は、今回だけは180度変わっていた。ヴァージンがどれだけ活躍してもニュースにならないこの国が、たった一度のテレビ中継で大きく動いたと言っても過言ではなかった。
(きっと、オリンピックのレース当日、アメジスタの新聞は初めてのテレビ中継を大きく取り上げただろうし、そこに映るアメジスタ人の私も、きっと深く紹介されたと思う)
できれば、その新聞を見たい。唯一見られるとすれば、実家だった。早く実家に戻って、その時のアメジスタの熱狂を知りたくなった。
ヴァージンの歩くスピードは、少しずつ速くなる。
(同じアメジスタ人に……、世界で戦うアスリートがいる。そのことは、多くの人の心に刻まれたはず……)
そう何度か思ううちに、実家が見えてきた。ほとんど変わっていない一直線の坂道に、彼女は胸を弾ませた。
「ただいま!」
ヴァージンが引き戸を開けた瞬間、書斎から飛び出してきた。いつになく整頓されている玄関に、木彫りのプレートが裏返しで置かれているのが、彼女の目に飛び込んできた。
「お帰り、ヴァージン。なんか、大記録を出して……、すごく喜んでいるな……」
「父さん……、それだけじゃないくらい嬉しいことがあって……、いる間にそれを全部伝えたいです」
「そうか……。でも、まずは父さんの手作りプレートを……、ヴァージンの手で裏返してごらん」
「私の手で……。分かった」
ヴァージンは、バッグを玄関の脇に置き、プレートの前に立った。それをそっと持ち上げ、ヴァージンの顔の前でひっくり返した。
そこに書かれていた文字は、「13:59.99」。ヴァージンにとって、今でも忘れられない数字だった。
「私が、13分台を出したって、この前手紙で書いて……、もう父さん作ったんだ……」
「それくらい、我が家で誇れる数字じゃないか。世界でただ一人、5000mを13分台で走れる女子なんだから」
「それを改めて聞くと、あの時の達成感が甦ってくる……。ありがとう、父さん……」
そう言うと、ヴァージンは手作りプレートをジョージに向けた。その瞬間に、ジョージは持っていたカメラで素早くそれを撮影したのだった。
「他にも、見せたいものがある。まぁ、少しずつ奥から引っ張ってくるから、楽しみにしてなさい」
「分かった……、父さん」
ヴァージンは、再びバッグを持ち上げると、彼女の部屋に大股で向かった。整頓されたベッドの脇にバッグを置くと、早くもバッグからトレーニングウェアを取り出し、走り慣れたアメジスタの大地に飛び出した。