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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
そしてプロとしての現実が始まる
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第6話 ヴァージンにスポンサーがついた日(5)

 あと3歩で、ゴールラインを駆け抜けようとしていたヴァージンの右足が、何度も踏み続けてきたトラックの上で竦んだ。信じたくなかった言葉だった。

「シェターラ、ゴール!」

(負けた……)

 足の裏で何かに締め付けられているような痛みを覚え、ヴァージンは最後にもたつきながらゴールをした。最後までトップスピードで駆け抜けなければならないと分かっているものの、この時に限ってそういう気にはなれなかった。

 すぐさまマゼラウスがヴァージンに駆け寄る。

「今のはない。それで1秒遅くなっただろ」

「……すいません」

 肩で息をしながら、ヴァージンはタオルで額の汗を拭った。汗を拭った後に映ったマゼラウスの表情は、声の割には厳しそうな表情ではなかった。むしろ、あの瞬間に落ち込んだヴァージンを慰めるように、落ち着いた表情を見せていた。

「……悔しいだろ」

「はい……。ほんの数秒だけ、シェターラの方が強くなっていたと思うと……」

「それが、君とシェターラの今の実力だ。受け入れろ」

「はい」

 そこまで言うと、ヴァージンはゆっくりとイクリプスのスタッフたちの前まで歩み出て、軽く頭を下げた。

「満足のいく走りを見せられなくて、すみませんでした」

 だが、ゆっくりと元に戻したヴァージンの目に映ったのは、イクリプススタッフたちの驚いた表情だった。カメラが回っていなかったが、すぐにヴァージンの姿を映し始めた。

「グランフィールドさん、そこまで落ち込むことないですよ!」

「そうですね……。一喜一憂するような場面ではないですが、本当に悔しいです」

「それでも、14分43秒26というタイムは、グランフィールドさんの大会での記録からすれば、相当なものですよ。17歳の女性でも、たぶんそこまで速く走りきる人、いないと思います」

「そうですか……。でも、シェターラが自分よりももっと成長していると思うと、喜べないです。次は、絶対に打ち負かします」


 ヴァージンは、そう言いながらも時折口ごもっていた。

(これが、私の自己ベスト……)

 思い出してみる限り、ヴァージンが14分43秒というタイムで5000mを走りきったことはなかった。練習では44秒、45秒といったタイムを何度か出しているが、43秒台という壁にはいつも跳ね返されていた。安定はし始めていたが、そこで長い間止まっていた。

(なんか手ごたえを掴んだような気がする……)

 ヴァージンは、イクリプスのスタッフがアカデミーから出て行くまで、何度か黒のシューズを見つめた。このギアならば、もう数秒はタイムを縮めることができるはずだと、心に誓った。


 3月も終わりに差し掛かった頃、昨年夏のジュニア大会覇者のヴァージンは、久しぶりに赤と紺のアメジスタ国旗のウェアに身を包み、トラックに立った。この大会にはシェターラはもう出られないが、新たなライバルたちの姿もあった。

 そんな中、ヴァージンは他を寄せ付けぬ力強い走りを見せ、結果は2位と10秒以上の差をつけての優勝。タイムも14分41秒86と、あの時ヴァージンが誓ったように、イクリプスのシューズなどのおかげで少しずつタイムが縮まっていた。


「物足りないです……」

「どうした、ヴァージン」

 春季ジュニア大会の競技場からホテルへと向かうタクシーの中で、ヴァージンはマゼラウスに思わず言葉をぶつけた。

「私、ジュニアではもう必要とされていないのかも知れないと思って」

「そうだな……。私も、君だけ別格というような感じがした」

「これで、本当にいいんですか……。全力を出し切らなくても、勝てるんです」

「君がそう思うんだったら、止めはしないけどな」

 そこまで言うと、マゼラウスはふぅとため息をついた。そして、再びヴァージンの表情を伺う。

「私は、あくまで実戦慣れという形で君を送り出しているんだ。長い道のり、こういう場も必要だと私は思うんだ……。君がどう思うかは分からんが」

「コーチ。その実戦慣れという言葉、本当はあまり好きじゃないです」

 ヴァージンは、走りきった疲れを忘れ、ゆっくりと目を細めた。

「……どうして、そう思う」

「1回1回が勝負だと思いたいからです」

「それも一理あるな……。ただ、それだと体がもたないだろう。1年のシーズンの中で、何度もピークを作っていくのは……」

「そうですか……」

 ヴァージンは、ギュッと唇を噛みしめて、マゼラウスから目を反らした。次のピークは8月の世界陸上競技会だと分かっているものの、ヴァージンは既に5月のシェターラとの直接対決を見据えていた。

「それはそうと、久しぶりに勝って、嬉しいだろ」

「はい。それだけは言えます」

「じゃあ、今日はホテルで豪華な晩飯を頂くぞ!」


 ジュニア大会から戻ると、ワンルームマンションのメールボックスに、ヴァージン宛の封筒が入っていた。大ヴァージンはすぐに包みを開いた。

 中には、USBスティックが一つだけ入っており、A4サイズの紙が添えられていた。

「シュープリマ・シェターラ様、ヴァージン・グランフィールド様、タイムトライアル3月の結果……?」

 あの日トラックで嫌というほど感じたタイムの差が、その下に目立つように印字されていた、シェターラは、14分40秒03で、やはりわずかに届かなかった。

 このUSBスティックの中に、二人の走りを映した動画が入っていると書いてあったので、翌日ヴァージンはマゼラウスの目の前でUSBスティックをパソコンに差し、その動画を見ることにした。

「やはり、シェターラは序盤からスピードを上げてきてるな」

「私もそう思います。なんか、今までと違う走りになってきていると……」

「君もそう思うか。……あれは、明らかにメドゥやうちのグラティシモを意識した走りだな。そうでないと、付いて行けないとでも判断したな」

「だから、私はこんなに引き離されている……」

 ヴァージンとシェターラが上下同時に映っているが、最初の3周の時点で既に100m近い差がつけられていた。その後、ヴァージンは他を圧倒するスパートで追撃するが、ついにシェターラを追い抜くことはできなかった。

 動画が終わると、ヴァージンは深いため息をついた。

「私、走り方を修正した方がいいのかも知れない……って思いました」

「どうして、そう思うんだ」

 マゼラウスは、細い目でヴァージンを見つめる。

「みんな、メドゥさんの走り方に近づいてきているような気がする……。メドゥさんが、この世界の絶対というか……。だから、私も何とかしなきゃと思います」

「私は別に、そこまで合わせる必要はないと思うが」

「えっ……」

 USBスティックをパソコンから引き抜くなり、マゼラウスは軽く唸るようなしぐさを見せた。それを見るなり、ヴァージンの表情にも緊張が走る。

「みんなと同じように走って、ヴァージンが付いて行けると思うか」

「……行けるはずです」

「行けないだろ。それが、アムスブルグでの惨敗だったんじゃないのか」

(そうだった……!)

 ヴァージンの脳裏に、どんどん遠ざかっていくメドゥの背中がくっきりと表れてきた。あの時は、最後まで全くいいところなく、最下位付近まで沈んでしまったのだ。

 固まりかけた表情を映すヴァージンの目の前で、マゼラウスはさらに細い目になった。

「君は、自信を失ってるな」

「……いえ」

「口では、君の性格的にそう言うかも知れんが、はっきりとそう見える」

「……はい」

 ヴァージンは、固まった表情のまま、マゼラウスの細い目に釘付けになった。

「君は、君の走りでいいと思う。一昨日のジュニア大会での圧勝が、それを証明してくれたと思うんだが」

「たしかに……。でも、メドゥさんには追いつけない……」

「そんな差など、十分追いつけるレベルじゃないか。追いつくための努力を惜しまなければ、もしかすると君はメドゥに代わって、世界記録を背負う女になるかも知れん」

 マゼラウスは、じっと教え子の表情を見つめていた。ヴァージンはついに耐え切れなくなって、首を縦に振った。

「君の走りで、まだ限界だと思うな。実力は伸びる。分かったな」

「はい」

 その時、休憩室の方から一斉に声が上がり、ヴァージンとマゼラウスはすぐにその声に顔を向けた。奥の方でテレビに映っていたのは、メドゥの喜びに満ちた表情だった。

「ワールド……、レコード……?」

「いや、シーズンベストだ」

 ヴァージンは、画面に映し出されたメドゥのタイムを見た。14分23秒09。彼女自身の持つ世界記録まで、わずか0.04秒及ばなかった。

「それでも、メドゥさんはすごいと思います……」

「そうかな……。君とは、たった18秒しか違わないぞ」

「ですね。私、何としてもメドゥさんに追いつきたいです!」

「その前に、イクリプスのプロジェクトだな」

 マゼラウスは、軽く笑ってみせた。だが、マゼラウスの珍しく見せた表情を見ようと首を回したとき、一瞬だけ目に飛び込んだテレビ画面に、ヴァージンは凍りついた。

「シェターラが……!た……、倒れ……」

 ヴァージンは、テレビの前に群がるアカデミー生たちの邪魔にならないように、遠回りで画面が見える位置まで急いだ。画面には、黒のイクリプスのシューズを履いたシェターラがトラックのサイドで足を押さえつけて苦しそうにもがいていた。

(そんな……)

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