第52話 アメジスタ人の心を一つにする力(3)
ファイエルが、二人のほかに路地裏に入っていないか、振り返って確かめる。それからヴァージンに向かって一度うなずきながら、やや低い声で言った。
「俺は……、アメジスタは一つじゃなきゃいけないって思うようになった……。あの走りを見てな」
「一つにする……。もしかして、あの……ロープも……、ってことですか……?」
ヴァージンがロープという言葉を口にした瞬間、ファイエルがかすかにうなずいた。
「アメジスタは、俺たちの国だ。グランフィールドに出会ったとき、俺はそう思っていた。足を引っ張るような奴らはいらないと思っていた……。だからこそ、アメジスタにとって何の役にも立たないように見えたグランフィールドに向かって……、今から思えば言ってはいけない言葉を言ってしまった……」
ヴァージンは、ファイエルの言葉に静かに首を横に振る。
「もし俺が、あんなこと言われたら、何もなければアメジスタから去ったはずだ。だが、グランフィールドは、それでもアメジスタを背負い続けた。アメジスタのために走りたいという気持ちは、変わらなかった。そして、その姿を見た俺たちもまた、心を打たれたと思う」
「はい……」
ファイエルの表情が、かすかに揺らいだ。言わなければならないことを多く抱え、いまその一つ一つをどのように整理するか、悩んでいるようにさえ、ヴァージンには見えた。
「それで、俺は思ったんだ。アメジスタにいなくていい人なんていない。収入が少ないとか、路頭に迷っているかとか、そんなちっぽけなことで差別なんかしちゃいけない……。あいつらからは、分断した側って言われるけど……、今となっては俺のほうがなんてことをしてしまったんだと思っている……」
「私も、ファイエルさんの言う通りだと思います。いなくていい人なんていないし……、どんな人間にも得意なことがあって、それを伸ばすこと、生かすことができるって……、信じてます……。だから、ロープの向こう側に閉じ込められた人たちにも……、希望を見せてあげたいんです……」
「見せてあげたいよな……。あいつらは、それだけの理由でグランフィールドの中継を見ることができなかった」
ヴァージンは、その言葉に首を横に振った。
「私は、映像だけじゃないと思います。音だけ聞いて、盛り上がったという話も聞いています。アメジスタという言葉を声だけで聞いたとき、それだけで私の名前を覚え……、心の中で頑張れって誓ったと言っていましたし」
「それは、全部グローバルキャスのインタビューだよな……。ロープの向こうに、入っていったからな」
「そうですね。いろいろなメッセージを、メールで頂きました」
ヴァージンがそう言うと、ファイエルがやや考えるしぐさを見せながら、再び路地の出口を見つめる。
「あっちの世界も……、俺たちと同じアメジスタだ……。グランフィールドの言葉で、改めてそれに気付いた」
ファイエルは、ゆっくりと路地の奥に向かって歩き出した。ヴァージンを時折振り返りながら、5mほど奥に進んで、そこで彼は足を止めた。ヴァージンが、やや遅れてファイエルを追いかける。
「俺一人じゃどうしようもねぇけど……、俺はアメジスタを今のままにしてほしくない。この壁もまた、崩れかかっているだろ」
ファイエルの止まったところは、壁に大きなひびが入っている建物だった。それを、ヴァージンにもよく見えるように、軽く叩いた。もう少し強く叩けば、壁が大きな塊となって崩れていきそうだった。
「本当に崩れそうですね、この壁……」
「そういうことだ。いつまでもこんなままじゃ……、グランフィールドがいくら走っても、アメジスタに明るい未来は待っていない。けれど、夢を形にする力が何であるか、グランフィールドが教えてくれて……、それで俺も立ち上がろうとしている。だから、本当はグランフィールドを……、もっと多くの人に見てもらいたい」
「また、テレビ中継の機会を作りたいって、言ってましたよね……」
「そうは言った。けれど、本当は……、グランフィールドの走る場所を、勝負する場所を作ってあげたい……」
(うそ……。今までを考えればとても信じられないのに……、ファイエルさんはなんてことを言うんだろう……)
ヴァージンは、両手で顔を隠した。今にも大粒の涙が、彼女の頬を流れ落ちていきそうだった。
(朽ち果てたスタジアムを……、ファイエルさんが何とかしてくれる……。あの場所で走る姿を見せたという夢を見て……、それでも一度も言い出せなかった私に……、ファイエルさんが背中を押してくれた……)
手の間から目をそっと開くと、ファイエルの姿が淀んでいた。だが、その表情は彼女にもはっきりと伝わった。
「ファイエルさん……!」
ヴァージンは、思わずファイエルの胸に飛び込んだ。彼もまた、決して後ずさりすることなく、アメジスタのアスリートを強く抱きしめた。
「アメジスタを希望に満ちた国にするために……、ずっと夢に思っていました……。ここで……走りたいです!」
「そりゃ、そうだ。アメジスタでその姿を見せてこそ、この国はより心を一つにできるのだから……。だから、俺はグランフィールドの夢を……、叶えてあげたい。建設現場にいるよりも、もっとこの国の将来を考えたい」
そう言って、ファイエルはヴァージンの頬を持ち上げた。まだ涙ぐむ彼女を見つめながら、彼はうなずいた。
「俺は、アメジスタの国会議員になる。グランフィールドだけじゃなく、俺たち一人一人が、より希望を持てるようなアメジスタにするために……!」
「ファイエルさん……。たくましいです……」
ヴァージンより少し背の高いファイエルが、この時だけはより大きく見えた。ヴァージンから受け取ったその強い想いが、必ず夢を形にするものだと信じて。
「議員になるくらいだから、これくらいのたくましさは必要だろ。あと1ヵ月もすれば、選挙だからな。もし当選すれば、それから5年間、俺は夢を形にできるチャンスを……、この国に広めたい。だから、グランフィールドも……、ずっとアメジスタを背負って欲しい……!」
「勿論です。一人、また一人とアメジスタのみんなが支えてくれるのに、もうこの国を捨てることはできません」
ヴァージンの目から、涙は消えかかっていた。その代わり、その場所にトラックさえあれば今すぐにでも走り出してしまいそうだった。少なくとも、その足は無意識に動こうとしていたのだった。
「分かった。なら、俺はグランフィールドを信じる。そして、夢の力を」
「ありがとうございます……」
ファイエルは、最後にそっとうなずいて、路地から大通りに向かって歩き出した。何度もヴァージンを振り返りながら、そして時折笑顔さえ見せながら、彼女の前から姿を消した。
(ファイエルさんが……、私の夢を形にする立役者になってくれそう……。3年前に走ったときは、絶対そんなことはないと思ったのに……、私だってファイエルさんを決めつけてはいけなかったかな……)
やや遅れて路地裏を出たヴァージンは、聖堂に背を向けたまま立ち止まった。聖堂と同じように「アメジスタ人の心を一つにできる存在」と言われたことを、彼女は何度も思い返した。今すぐに運命を動かすことはできないけれど、その時が来ればアメジスタに希望を与える。そのような存在だった。
(もし本当に、アメジスタのスタジアムが形になったら……、私はそこで100周でも200周でも走れるかもしれない。トレーニングもそこでやってしまうかも知れない……)
そう心の中で呟いたヴァージンは、ゆっくりと歩き出した。次に向かう先は、書店の向かい側にある路地だった。そこに、今回アメジスタで最も会わなければならない人がいる。
(書店……。もう少し先だったはず……)
「ワールド・ウィメンズ・アスリート」を何度も買いに行った、ヴァージンにとってはなじみの書店。久しぶりにグリンシュタインの街を歩いている中でも、彼女は体でその場所を覚えていた。
あと50mほどで書店というところまで来たとき、ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。
(こんなに……、あの雑誌が並んでいたっけ……)
ヴァージンは書店に駆け寄った。そこには、最新号の「ワールド・ウィメンズ・アスリート」が最前列に積まれており、そこには「アメジスタの陸上選手、ヴァージン・グランフィールド、ついに13分台」という言葉で紹介されていた。
(すごい……。アメジスタで中継されて、一気に置かれている数が増えた……)
ヴァージンは、雑誌の前に立って思わず手で口を抑えた。書店にやってくる人々がいれば、この段階ですぐに本人だと気づきかねないシチュエーションだった。
その時、書店のはるか後ろから、あの声が彼女の耳に届いた。
「グランフィールド選手……!」