第52話 アメジスタ人の心を一つにする力(2)
(ここから先は、通行止め……)
オメガに比べれば何十分の一ほどの高さの建物しか並んでいないその場所から、聖堂の尖塔の一つが遠くに見える。ヴァージンが下ろされた場所は、聖堂から300mは離れていたのだった。
だが、そこから聖堂方向の道を見渡すと、数多くの工事資材が敷き詰められており、まるで工事関係者専用道路のようにも見えた。一般の人間が歩いているものの、それに交じって安全帽をかぶった人々が数多く行きかう。
(もしかすると、尖塔が折れたことで、このあたりまでその破片が飛び散った……?)
ヴァージンが聖堂までまっすぐ歩いて行くと、やがてそのあたりの建物から崩れ落ちたものではない、数cm程度の塊が道路の真ん中に落ちていた。その塊は、聖堂に近づくにつれて大きくなり、また見かける回数も増えていった。そして、聖堂から50mのところまで進んだとき、ヴァージンは思わずその足を止めた。
(完全に、根元から尖塔が転がっている……)
折れてしまった尖塔は、一つだけではなさそうだ。少なくとも三つは失われており、様々な方向に飛び散っている。その先の広場は、未だにがれきに包まれており、アメジスタ人にとっての安らぎの場は急ピッチで復旧作業が進められていたのだった。
(グローバルキャスからは文字だけでしか伝えられなかったけど、ここまで酷いことになっていたなんて……)
尖塔のあった場所に石を積み上げ、削り、また新たな石を乗せる。長い年月をかけて作られた聖堂は、まともな機械すらないアメジスタでは、数年ほどの歳月をかけない限り修復できそうになかった。しかも、高さ10mほどのところで石を積んでいる作業員は、強い風にさらされ、時折足を踏み外しそうな状態だった。
(これは……、工事現場の人に話しかけちゃまずいかも知れない……)
ヴァージンは聖堂に背を向けた。すると、ヴァージンの目が一人の青年の姿を捕らえた。リヤカーに石を積んで、今にも彼女に向かってくるような、黒髪の青年だった。
(この体つき……。この背の高さ……。なんか、ものすごく見覚えがある……)
ファイエルだ。ヴァージンは、声を掛ける前にそのことに気が付いた。顔を合わせるのは、前回アメジスタに里帰りした3年前以来だったが、不思議とそれほど遠い過去だった気がしなかった。
(でも……、どうしよう……、ここで話しかけちゃ……、まずいかも知れない……)
ヴァージンは、一歩だけ前に出てファイエルの表情を伺った。すると、ファイエルはリヤカーをカラーコーンの横に置くと、真っ先にヴァージンに向けて走り出し、彼女の前に止まると頭を下げたのだった。
「グランフィールド……、ごめん……、本当にごめん……!3年前は……、すまなかった……!」
深々と頭を下げるファイエルに、ヴァージンはすぐに首を横に振った。
「い……、いいんです……。私がどういう想いで走っているか……、ファイエルさんにやっと伝わったと思って……、あの言葉を見て泣いたくらいですから……」
「あのインタビュー、見たってわけか……」
「はい……。まさか、ファイエルさんからあんなことを言われるなんて……、夢にも思わなかったです……」
「そうか……」
ファイエルは、ヴァージンと目を合わせ、それから彼女に右手を差し出した。ヴァージンがその手を軽く握りしめると、そこから熱が溢れてくるようだった。工事現場で働き続けた彼の手の強さも、はっきりと伝わる。
(うそ……。信じられない……。3年経って、やっと手の感触を知るなんて……)
「せっかくだし、グランフィールドさえよければ、俺と二人きりで話したい……。いいか」
「仕事中じゃないんですか、ファイエルさん……」
「俺?もう、今年いっぱいで現場を離れるから、少しぐらいサボったって大目に見てくれるさ。それに、俺の目の前に、いま一番会いたい人間がいるわけだからな」
「それが……、私ですか……」
「もちろん。まぁ、あまり目立つところでしゃべっているのもなんだから、路地裏に行こう」
ファイエルは、ヴァージンの手を掴んだまま路地裏へと誘った。そこから大通りを見つめると、その先は分断された側のエリアだった。ファイエルは、分断しているロープに目をやり、それからヴァージンに振り向いた。
「グランフィールドも分かっていると思うが、アメジスタはあまりにも予算が少ない。そもそも、税収も少なく、国家財政もつい最近破綻したばかりだ。そんな中で、俺たちはあの聖堂だけは何とかしないといけないと思っている……」
「尖塔の折れてしまった、グリンシュタイン大聖堂のことですか」
「勿論だ。ただな、グランフィールド。どうして俺たちがあんな大変な工事をしてまで、あの大聖堂を直したいと思っているか分かるか」
ファイエルの口からこぼれた言葉に、ヴァージンは口を小さく開いたまま何も言えなくなってしまった。路地裏からかすかに聖堂が見えるものの、それを見るだけでは答えは見つからなかった。
「ファイエルさんにとって、やりがいのある仕事……。ファイエルさん自身に思い入れがあるからですか」
「俺にだって、あの聖堂に思い入れはある。それは間違いない。だが、グランフィールド。アメジスタ人なら分かると思うが、あれは街の、そして国のシンボルと言っていいはずだ。違うか」
「……シンボルだと思います。グリンシュタインと言ったら、まずこの聖堂を思い浮かべるくらいです」
「そうだ。別の言葉で言えば、あの聖堂は誰からも親しまれている。あの聖堂に祈りを捧げる人だっているはずだ。つまりな、あの大聖堂はアメジスタ人の心を一つにするんだ……」
(アメジスタ人の心を……、一つにする……)
ヴァージンは、ファイエルにそう言われて、改めて聖堂を見つめた。尖塔のいくつかが失われたとは言え、高いところから人々を見つめるそれはアメジスタ人にとってシンボルであり、誇りですらあった。
「ファイエルさん。そうだとしたら、どうして現場を離れてしまうんですか……」
「いろいろ思うことがある。それは、グランフィールドに言ったら……、きっと分かってくれるものばかりだ」
「だから、ファイエルさんのほうから声を掛けてきたわけですね」
ファイエルは小さくうなずくと、一歩だけ前に出た。ほぼ壁にもたれかかっているヴァージンをじっと見つめるように立ち、彼女のすぐ横にある壁に手を掛けたのだった。
「グランフィールドは……、頑張ってると思う……。アメジスタにアスリートは必要ないなんて思っている奴らが結構いる時代から、ずっと俺たちの国を背負って走り続けているからな」
「はい……」
「俺もそうだったけど、その走る姿を見たとき、誰もが釘付けになる。勝負の世界で生きるグランフィールドの姿はたくましく、その足で奇跡すら起こしてくれそうな感じだった。それに、走る姿を見たとき……、あの場にいた誰もが……、アメジスタを背負うグランフィールドを応援していたんだ……」
ヴァージンは、小さくうなずいた。あのレースの直後に吐き捨てられた言葉は、脳裏にすら思い浮かばない。
「みんなが……、応援していたんですね……」
「当然だ。アメジスタ人として……、同じアメジスタ人を応援するのは、当然だと思う……。あの時のグランフィールドはアメジスタ人の心を一つにする力が、たしかにあった」
「心を一つにする力……。私……、初めてそう言われたかもしれません」
「世界じゅうに、グランフィールドのファンとかいるだろ。それは、数多くの陸上選手の中から、グランフィールドを応援しようと思っている人だと思う。それと同じだ。アメジスタにはいろいろなものがあるけれど、その中で聖堂はみんなの心を一つにする場所、グランフィールドはみんなの心を一つにする陸上選手ってことだ」
ファイエルは、何度かうなずきながらそこまで言いきった。ヴァージンはしばらく言葉を返さずに、ファイエルの次の言葉を待った。
「俺の中では、グランフィールドは俺の知るたった一人のアスリート。アメジスタの誇りだと思っている。だからこそ、俺は……、もう一度あの機会を……作って欲しいと思うんだ」
「ファイエルさん……。それ、私だって思っています。できれば……、全レース中継して欲しいし、アメジスタが世界のメディアから取り残されないように、もっといろんな番組とかも流せたらと思っています」
「グランフィールドらしいな。そんな夢を語るの。その姿勢、俺も気に入った」
そう言うと、ファイエルは壁から手を離し、体を路地の奥に向けた。そして、ヴァージンにそっと耳元でささやいた。
「でも、正直に言って、これから先が大事な話だ。絶対に聞かれてはいけない話さ」
「絶対に……、聞かれたら困る話……」
ヴァージンも、小さな声でファイエルに返した。