第52話 アメジスタ人の心を一つにする力(1)
ポストからその手紙を取り出して、6時間が経った。それまでの間、ヴァージンはビルシェイドからの手紙のことになるべく意識が行かないようにトレーニングを重ねるものの、心のどこかでアメジスタのことを思い出すにつれ、彼の表情が思い浮かんでくるのだった。
ようやくその手紙をほどいたとき、その手が熱くなるかのようだった。
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ヴァージン・グランフィールド選手へ
アメジスタでその姿を見てから数ヵ月が経ちましたが、お元気でしょうか。ビルシェイドです。
まず、僕に、そしてアメジスタにテレビ中継の機会を与えてくれて、ものすごく感謝しています。
数年前に、スタジアムでその姿を見てから、僕はずっとグランフィールド選手のことを思い続けていました。
周りがみな貧しくて、ロープの向こう側から嫌なことをされて……、それでも力強く走っている姿を思い浮かべると、そんなことも忘れてしまいます。
そんな、今でも特別な存在になっているグランフィールド選手が、オリンピックという世界最高のレースに挑み、僕たちはその姿を間近で見たのです。テレビすらなかったアメジスタで、初めて映ったグランフィールド選手の姿は、僕がオメガで見たサッカーの試合の放送よりもずっと大きく見えました。
あの時のスタジアムと同じように、声が嗄れるまで僕は叫び続けました。勝つために、そして世界記録を少しでも縮めるために、一生懸命走り続けるグランフィールド選手の姿を、最後まで信じました。
結果は4位。メダルに届かないということを知ったのは、中継の後にグローバルキャスのスタッフさんが言うまで分かりませんでしたが、たとえメダルが取れなくても、僕はグランフィールド選手の強さ、そして勝負に懸ける想いをテレビ越しにはっきりと感じました。
僕にはインタビューがなかったけれど、もし僕がマイクを向けられていたら、きっと「グランフィールド選手、ありがとう!」って声の出る限り叫んでいたし、その後に「次の中継も!」って言いたかったです。
中継が終わって、だいぶ後になってしまいましたが、これが今の僕の、そして多くのアメジスタ人の気持ちだと思っています。できれば、直接会って言いたかったのですが……、日々頑張っているグランフィールド選手にそんなことは言えなかったです。
でも、できれば……、一度くらいアメジスタに戻ってきて欲しいな、と思っています。
では、お体には気を付けて……。
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(ビルシェイドさん……。お礼を言いたいのは、こっちのほうなのに……)
今にも声のように伝わってくる、ビルシェイドからの言葉の魂。その一つ一つに、ヴァージンは文面を最初からじっと見つめながら、10分以上かけて読み切った。そして、ゆっくりと手紙をたたむと、天井を見上げた。
「ビルシェイドさんは……、もう一度私の走りを見たいと思っている。それだけは、間違いない……」
たった一度きりのテレビ中継で、アメジスタの人々に勇気と希望が届いたかも知れないのに、あと一つ、彼女には結果だけが足りなかった。結果が、仮に世界一になり、あの場で13分台の世界記録を叩き出せていれば、今頃アメジスタにその名が知れ渡っていたはずだ。しかし、現実はほとんど動かなかった可能性もある。
(どうなんだろう……。同じアメジスタ人が私を見たことで、アメジスタはどれくらい変わったんだろう……)
ヴァージンは、そのことだけが気になって仕方なかった。早くそれを見たかった。
(この年末、里帰りしよう……。3年ぶりに……、私の姿をアメジスタのみんなに見せてあげたい……!)
そう思うが早いが、彼女は早速電話を取り、代理人メドゥが出るのを待った。
電話は、わずか2コールでつながった。
「どうしたの、ヴァージン。まさか、トレーニングでまた記録を出したんでしょ」
「そうじゃありませんよ、メドゥさん……。私……、この年末、1週間ぐらい里帰りしようと思うんです」
「アメジスタに里帰り……。今まで、何度か帰っていたみたいだし、今回は13分台を出したというすごいニュースも持って帰れるからね」
「そうですね。それも言わないといけないです。それで……、私がオメガにいない間、取材の依頼とかバッティングしないように、メドゥさんのほうでいくつかスケジュール変えてもらっていいですか」
「それくらい、たやすいわよ。ヴァージンがいつアメジスタに行くかだけ教えてもらえれば」
次々と進んでいく会話に、ヴァージンは電話を片手に何度もうなずいた。
(たぶん、メドゥさんがいなかったら、私はオメガを離れられなかったかも知れない……。それくらい、メドゥさんは私の大切なパートナーになってる……)
ヴァージンはアメジスタに戻るその日まで、トレーニングセンターで軽めの調整を行ってから、荷物をまとめてオメガセントラル国際空港へと急いだ。実家とビルシェイド、それにもし会えるならファイエルに、オメガにあったちょっとしたキーホルダーと、それ以上に大切なお土産を抱えて、週に1便しかないままのアメジスタ行きの飛行機に乗り込んだ。
(私は何度、この空を飛んできたんだろう……。そのたびに、私の記録は成長している……)
アメジスタから遠く離れて、オメガから世界各国のレースに渡っている。そんなヴァージンに映る空は、いつも変わらなかった。その中で、彼女の環境は変わり、成長し、今や世界でその名前を知らない人がいないほどのアスリートにまで育った。アメジスタにもつながっている空は、そんな彼女を絶えず見守っていたのだった。
(きっと、アメジスタ人の知名度も……、行くたびに伸びているはず……。今まで何度もひどいことをされてきたけど……、もう、そんなことはないって信じたい……。同じアメジスタ人なんだから……)
アメジスタを捨てること。その女子アスリートが決してできなかった、ただ一つのことだった。
アメジスタの大地が眼下に飛び込んでくる。飛行機が急旋回を始めると、グリンシュタインの街が一気に近づいてくるのがヴァージンにも分かった。ここまで来ると、故郷に戻ったと同じだった。
週に1日しか使わない滑走路をこれまでよりも滑らかに走り、滑走路の上、空港施設の横で飛行機は止まった。
「やっと着いた……。私はやっと……、アメジスタに戻ってきた……」
はやる気持ちを抑え、ヴァージンは列に並んで飛行機を降りる。滑走路に足をつけた途端、シューズがアメジスタの大地をしっかりと踏みしめ、未だに忘れることのない感触を、その足から体じゅうに伝えていった。
(タクシーでグリンシュタインの街中に行こうか……。父さんには、飛行機が着いて6時間ぐらいで帰るって手紙を出したわけだし、二人としゃべるだけの時間はかなりありそうな気がする……)
飛行機に乗る前から決めていたことを、ヴァージンは再び心に言い聞かせた。空港のロータリーに止まっていた、数少ないタクシーに彼女はやや早足で向かう。
「すいません……。グリンシュタインの、大聖堂までお願いします」
ヴァージンは、タクシーに乗るなり、ドアが閉まらないうちに運転士に告げた。すると、運転士はハンドルから手を離し、驚いた表情と困惑した表情が半々でヴァージンに振り返った。
「グリンシュタインの大聖堂は、いま工事中ですよ。周辺は車両通行禁止になっているし、広場も使えないから、かなり遠いところで降りることになっちゃうけど大丈夫かな」
「大丈夫です。グリンシュタインの街の構造は知っていますので……」
ヴァージンは、タクシーの運転士にすぐ返事をするものの、そこで思わず口に手を当てた。
(そう言えば、大聖堂の尖塔が倒れて、広場ぐちゃぐちゃになっているってグローバルキャスが言ってた……)
だからこそ、広場でのテレビ放映ができず、産業開発局前に移されたはずだ。そのことを事前にメールで受けていながら、実際にアメジスタに戻ってきた彼女には、大聖堂に広場のある光景が当たり前だったのだ。
(たしか、全く整備ができていないから……、崩れたんだっけ……。アメジスタには整備のためのお金もないから、グリンシュタインの他の場所でも……危険な建物とかあるのかも知れない……)
タクシーが入ろうとしているグリンシュタインの大通り。いつもと変わらない建物が並んでいるものの、10年ほど何も手が加えられていないかのようにさえ、ヴァージンには見えた。風が吹けば倒れてしまうほどまでには見えないものの、それでもグリンシュタインの街は前に進めずにいた。
(でも、大聖堂の工事が終われば、きっとこのあたりまで開発が進むはず……)
そうヴァージンが心に言い聞かせたとき、タクシーが止まった。