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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
二人の想いは いま一つに結ばれる
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第51話 昨日の敵は今日の友(5)

「ヴァージン・グランフィールドか……。うちの部下が引き抜いてきた、世界的に有名な人材ではないか」

「えぇ……」

 目の前の中年男性は、ヴァージンをじっと見つめたまま、やはり形式的に名刺を取り出す。ヴァージンは両手で名刺を受け取るが、そこにはエージェントの営業責任者という肩書が書かれていたのだった。

(ここは、メドゥさんに手を出したことを引き合いに出してはいけない……。感情的になったら、私もメドゥさんも不幸な想いをするだけだ……。でも、何もしなければ、この人はまず私を切ってしまう……)

 次の言葉を考える余裕などないにも関わらず、ヴァージンはその言葉を思いつくことができなかった。すると、間を遮るようにその中年男性がヴァージンに尋ねる。

「さっき、私が部下に手を出したところ、見られてしまったようだな。申し訳ない」

「はい……」

 ヴァージンは、そこで言葉を止めた。だが、その手はかすかに震えていた。音に出さなくても、息詰まるような呼吸しか、彼女の口からは出てこなかった。

「せっかく、部下が君を連れてきたというのに、私どもではこんな大物、力になれそうにない。だから、つい手が出てしまった」

 そう言うなり、中年男性は両手を広げながら小さくため息をついた。

「見ての通り、君が前に所属していた有名なエージェントと比べれば、ここはものすごく小さなところだ。契約している選手も、たった10人。その誰もが、国際大会で結果を残せない選手や、2軍や3軍に甘んじているような選手ばかり。一度大手のエージェントを切られたという点では、君と共通しているところはあるが……、うちの評判は『落ちぶれアスリートしか見ないところ』だ。そこに、君みたいな超一流選手が来られてもな……」

 メドゥに対して手を出していた時、そしてヴァージンと最初に目を合わせたときとは全く異なり、その中年男性の目は沈んでいる。責任者として積極的に契約を増やそうという意思すら、そこには存在しないかのようだ。

 徐々に小さくなっていったその声が聞こえなくなると、ヴァージンは二度、三度と首を横に振った。

「私は……、たしかに一流の選手です。誰もがそう思っています。けれど、私だって最初は、このエージェントと同じように、全く無名の選手でした。アカデミーから引退を迫られたこともありました」

「誰もが、最初は無名だものな……」

「はい。でも、その中で多くの人が私を支えてくれたのも、また確かです。とくに、コーチのマゼラウスさんは、一度破れた夢を……、自分自身では達成できなかった夢を、私に託すために……、一生懸命後押ししてくれました。トラックに立つ私を、常に本気で見てくれました。そして……、私をここに連れてきてくれたメドゥさんだって……、同じように私に未来を託しているんです」

 その時、ヴァージンの目に、遠くから二人を見つめるメドゥの姿が飛び込んできた。本人と営業責任者だけで話し合うその場に近づくことができなくても、心の底でヴァージンを応援しているようにさえ、彼女には映った。

「無名だから……、小さいから……、やらせたって何もできないに決まってるから……。私は、そういった言葉を好きになれません。その言葉を否定しなければ、今の私は存在しなかった。たぶん、メドゥさんに出会うこともなく……、アメジスタの片田舎で、夢を悔やみながら生きていたに違いありません」

 徐々に口調が強くなっていくのを、ヴァージンははっきりと感じた。その名前を聞くだけで消極的になってしまった相手を、どう立ち直らせるか。本来その立場にないはずだと分かっていても、言葉が出てしまう。

「私は、ここに所属する契約選手と同じように、夢を追い続ける人です。ただそれだけの人間です……。もし、エージェントが未来を切り開く力になってくれるのなら……、私は必ずその期待に応えます」

(言ってしまった……)

 ヴァージンは、思い出したかのようにメドゥに目をやった。メドゥの表情は驚いており、その手は動き出しそうな震え方をしているようだ。

 すると、中年男性がうなずきながら手を叩く。落ち込んでいたはずの表情も、すっかり和らいでいた。

「忘れていた熱意を、君からもらったような気がするよ……。ここまで本気だからこそ、ますます君のことがかわいそうになってくる……」

 中年男性は、ヴァージンにその手を差し出した。彼女もすぐに、差し出された手を握りしめた。

「私が、間違っていた。こんな素晴らしい選手を……、逃がすところだった……」


 その後、ヴァージンは小さな会議室に通され、ハイアットと名乗るその中年男性が立ち会って、メドゥと代理人契約を結んだ。エージェントのオフィスにやってきてすぐの時間に比べれば、会議室での時間はあっという間に過ぎ去っていった。

 やがて、契約書へのサインが終わり、ハイアットが会議室から立ち去ると、ヴァージンとメドゥがテーブルを挟んで残された。その中でメドゥは、ヴァージンに深く頭を下げた。

「ありがとう、ヴァージン。なんか、すっかり大人になったように見える……」

「メドゥさん……。私だって、もうそろそろ28になります……。いつまでも子供じゃないです」

「そういう意味じゃなくて、対応の仕方。あの局面、出会った頃だったら、たぶんハイアットに手を出してたと思うし、もしかしたら逃げ出していたかも知れないって……、私は思ったの。でも、このエージェントでは力になれないと思い込んでいたハイアットの気持ちを、ヴァージンは理解した。そして、落ち込んだ彼を立ち直らせた。ヴァージンが大人になった何よりの証拠だと、私は思う」

「ありがとうございます……」

 ヴァージンも、メドゥと同じように頭を下げた。頭を上げると、初めての契約を終えて安堵している表情が、その目に飛び込んできた。そこで、ヴァージンはそれまで抱いていた疑問を切り出した。

「ところで、メドゥさん……。一つだけ、どうしても分からないことがあるんです」

「どうしたの、ヴァージン」

「どうして、私に代理人がいないこと……、フェアランと契約を切られたこと……、分かったんですか……」

 ヴァージンは、メドゥを見つめながら尋ねた。するとメドゥは、少しだけ考えるしぐさを浮かべ、「そうね」と低い声で切り出した後、思い切った口調で言った。

「そうね……。ヴァージンの代理人だったはずのガルディエールが、メリナ・ローズと話しているのを見たの」

「メリナさんとですか?」

 オリンピック以来会っていないメリナの表情が、この瞬間にもすぐに飛び込んでくる。ヴァージンは思わず聞き返した。

「そう、メリナ・ローズとガルディエールが、打ち合わせをしているのを、見てしまったの。それを見たら、ヴァージンと契約を切ったんだなって……、分かってしまった」

「さすがに、同じ種目のライバルと契約を結んでいたら、どっちの選手を応援していいか分からなくなってしまいますものね……」

「ヴァージンも、すぐそう思ったでしょ。でも、同時に同じ種目のライバルと契約を結ぶのは一番やってはいけないにしても、こんな短い期間で女子5000mの有力選手の一人と代理人契約を結ぶのも、私はよくないと思う。ヴァージンの戦略とか、みんな分かってるわけじゃない……」

「たしかに、それ言えますね……」

 ヴァージンは、そこで軽く笑ってみせた。メリナにガルディエールを取られたことに、怒りの一つもこみ上げてこなかった。

(どうせ、ガルディエールさんはまた将来のお金が見えなくなったら、メリナさんも切るはずだから……)

 そう頭で思い浮かべて、ヴァージンはメドゥにうなずいた。

「でも、たとえ誰が代理人でも、代理人が勝負をするわけではないはずです。私とメリナさんが勝負するわけですから……、私は今までと同じようにレースに臨みます」

「私も、ヴァージンならそう言うと思っていた」

 メドゥはやや口元を緩めながら、ヴァージンに言葉を返した。そして、体をやや前に出し、ヴァージンの手を取った。

「私は、一生懸命にライバルや世界記録と戦い続けるヴァージンを、ずっと支えていく。私の夢だって、ここから始まるのだから……、ヴァージンも絶対……、ライバルに負けないで……」

「勿論です、メドゥさん」

 ヴァージンは、メドゥの温かい手を取った。それは、それまでライバル同士で火花を散らしていた二人が、たった一つの夢のために大きな炎となって燃え上がる瞬間だった。


(メドゥさんに支えられ、私はまたトレーニングに集中できる)

 高層マンションに戻ったヴァージンは、テーブルに積まれた封筒の山を見てそっとうなずいた。この先それほど送られてこないという現実を、その瞬間に実感したのだった。

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