第51話 昨日の敵は今日の友(3)
「まず、ヴァージンには13分台のお祝いをしないといけないわね。おめでとう」
「ありがとうございます、メドゥさん……」
メドゥは、バッグから取り出したクリアファイルから一旦目を背けて、ホットレモンティーの入ったカップを少しだけ上げた。ヴァージンも、ほぼ同じタイミングでカップを持ち上げて、礼を言う。
「メドゥさんは、あの場にいなかったですよね……。ペジャンのスタジアムに」
「いたかったけどね……、トルビア共和国は少し遠かった。あのレース、全く映像に残っていないから、あの話を聞いたときに逆に行っていればよかったと思ったくらい」
「あのレースから1週間、2週間経ちますが、まだあの瞬間を見たというファンにも出会えていないです。でも、ニュースになったときにあれだけコメントが来たので、夢じゃないんだなって思いました」
「それだって現実よ。いつか言ったと思うけど、陸上選手にとって、タイムは決して消えることのない成長の証のはずなんだから……」
「私が、資産凍結で落ち込んでいたときに、メドゥさんが言ってくれた言葉ですね」
ヴァージンがそう言うと、メドゥは何度かうなずいた。それから、すぐに口を開いた。
「そうね……。それを思い出せるくらい、私にとってヴァージンは特別な存在だと思う……。今でも、隣で一緒に戦っているような、そんな強い衝撃すら感じるの」
「強い衝撃……、引退しても感じるんですね……」
「ずっとトラックを走ってきて、たぶんヴァージンがデビューしてから、ここまで成長した記憶が一番覚えているし……、ほら、あのレースは見れなかったけど、ヴァージンが走っているレースは……、ほぼテレビで見てた」
「本当ですか……!ありがとうございます……」
ヴァージンは、メドゥの言葉に頭を下げた。それから、何と言っていいのか分からないまま、口元を緩めた。
「礼を言われるようなことじゃないと思う……。私の作った道を、私も想像できないくらい大きくしてくれた、そんなアスリートなんだから……、気にせずにはいられないのだもの。スタジアムにも何度か行ったんだし」
そう言って、メドゥはティーカップに口をつけ、そっとレモンティーを口に含んだ。その様子を、これまで一言も話さないマゼラウスがじっと見つめていることを、ここでヴァージンはようやく気が付くのだった。
「ということは、メドゥさんは引退してから、かなり行動的なんですね……」
「そうね。かつてのように速く走ると、すぐ膝が痛くなるけど……、普通に歩く分にはもう問題なくなってるし」
「2年前は、すごく痛々しかったですものね……」
「痛々しいというか……、心が折れてしまうほど辛かった……」
そこでメドゥは、そっと息をつき、背筋を伸ばした。そして、横に置いてあったクリアファイルに手を伸ばす。
「でも、ヴァージン。今でも少しだけ……、走りたいって思っている……。長いこと戦い続けてきたからかも知れないけど、夢だけはトラックを去っても消えなかった……」
「それが、メドゥさんにとって未練になってしまうんですね……」
「そう、未練という言葉が一番似合うのかな……。でも、膝が痛くなるって思うと戻るに戻れない。そうなったときに、残ってしまった私の夢はどうなってしまうのか……、ある時からずっと考えるようになったの」
メドゥは手をテーブルの下に下ろして、ヴァージンの目から見えないように膝をそっと叩いた。それから、ややヴァージンに体を出す。
「残された夢のために、どういうことを考えていたんですか……」
「その夢を、別の形で咲かせるしかないじゃない。私のいた陸上の世界のために……、何ができるんだろうと思うと……、それしか思いつかなかった。それが、引退してからずっと考えて……、決めたこと」
「陸上を捨てることは、メドゥさんにはできないってことですよね……」
「そう。だからこそ、その私が抱いた夢を今日、ヴァージンに伝えようとしているの」
そう言うと、メドゥはいよいよクリアファイルから資料を取り出した。メドゥが座ったときに、「エージェント」という文字がちらちらと見えていただけに、ヴァージンはその段階では驚かなかった。
「私は……、もしできるのなら、ヴァージンを支えたい。代理人という形で」
「代理人……。いま私が、一番そばにいて欲しいものです……」
「やっぱりね……。これだけ有名な選手に、誰も代理人がいないとなると、いろいろな対応で大変だものね」
「時期によっては、トレーニングどころじゃないことだってありました。勉強にはなりましたけど、ある意味で今は無駄な勉強だったと思います」
ヴァージンがそっと答えると、メドゥは一度うなずきながら微笑んだ。
「無駄というより、現役のうちにやりたくない勉強でしょ。でも、私には時間ができたわけだし、ヴァージンを支えるために、エージェントのことを1年かけて勉強したのよ」
メドゥはエージェントのパンフレットと思わしき冊子を開かず、自身をアピールし始めた。
「まず、エージェントに必要なのは交渉の力。ヴァージンの代わりにいろいろな対応をしなければならない。エクスパフォーマとの連絡係になったりCM契約や契約金更改の交渉をしたり、レースへの申込をしたり……。それに、何かトラブルが起こったときには、いろいろと回らなければならないことだってある」
「そういうことまで、代理人はしていたわけですね……」
「前の代理人だって、ヴァージンのために動いていたと思うけど……、なかなかその世界は見えないものね」
「そうですね……」
ヴァージンは、ふとガルディエールの顔を思い浮かべた。いろいろなことを事後報告で受けてはいたものの、ヴァージンのために彼がどれだけ動いていたかは、彼が離れてようやくヴァージンが気付いたくらいだ。
(だからこそ、ガルディエールさんは将来のキャッシュフローがどうのとか言っていた……。そうでもしないと、エージェントとして報われないのかも知れない……)
壁を破れずにもがき苦しむヴァージンを振ってしまった、かつての代理人。その次の支えになる存在が、いまこのようにして手を伸ばそうとしていることに、ヴァージンがはっきりと気付いていた。
その手は暖かかった。
「もちろん、1年間勉強しただけじゃ、もしかしたらヴァージンが満足するような代理人にはなれないかもしれないし……、そもそも一度も代理人としての本番を迎えたことがない……。でも、私はこれからも勉強するし、ヴァージンに何かあったら、全てに優先してその身を捧げるつもりではいる」
「そう言ってくれると、助かります。メドゥさん……」
カフェのライトに照らされ、メドゥの金髪がぱっと輝いた。その光がヴァージンの目に飛び込むなり、それが希望の光であるかのように彼女には感じられた。
「ヴァージンがそう言ってくれることが、私とヴァージンの新たな友情だと思う。今までずっとライバルだった、私とヴァージンが……、夢に向かって一緒に走りだすんだから」
そこでようやく、メドゥの手がクリアファイルの中に伸びた。そっと笑いながら、メドゥはエージェントのパンフレットを開いた。
「ホワイトスカイ・スポーツエージェント……。すいません、私、聞いたことないです」
「大手じゃないし……、世間の知名度ほぼゼロのエージェントだと思う。できてそんな経っていない会社だから、ヴァージンが最初にエージェントを見つけたときには、おそらく選択肢にすらなかったはずのところ」
「そうだったんですか……。メドゥさんが……、大きなところじゃなくてそこに入ろうとしたのは、どうしてですか」
ヴァージンがそう尋ねると、メドゥは少しだけ首を傾けた。それから、小さくうなずいてみせた。
「一言で言えば、大きなエージェントで中途採用となると、かなりの実力が必要だったの。大きいところは扱っている選手がトップクラスだからやりがいもあるし、いろいろな出会いもあるけれど……、そこに中途で入るためには、どこを当たっても即戦力とか言われて……」
「メドゥさんは、陸上選手としてはものすごく有名だったはずです……」
「名前は知られているし、女子5000mの一時代を築き上げた過去も名前を見ただけで分かっている。でも、業界が変われば、求められるものもまた変わってくる。面接で何度か落とされるたび、現実の壁の厚さを感じたわ」
「そうだったんですか……」
ヴァージンがうなずくと、それまで小さな声で話していたメドゥが、徐々に声のトーンを上げた。
「傍から見たら、小さなエージェントに落ち着くって、妥協したようにしか見られない。でも、私はヴァージンのためならどこに入ったって責任もって取り組むことにしたの」
「ありがとうございます」
ヴァージンは、反射的にそう返した。だが、その言葉を待っていたように、メドゥは一言、小さな声で呟いた。
「でも……、いま私とヴァージンが話していることを、エージェントには全く言ってないの」
「えっ……」
ヴァージンは、メドゥの切り出した話に、戸惑いの表情を浮かべた。