第51話 昨日の敵は今日の友(2)
ヴァージンの夢を一緒にサポートさせてもらえませんか。
そう書かれたメドゥからのメールの件名を、ヴァージンはそっとクリックした。
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ヴァージン、お久しぶりです。アスリートとしての日々は、充実していますか?
先日、トルビアでヴァージンが13分台を出したと聞いて、1分くらい手を叩いて喜びました。
で、今日メールしたのは、タイトルそのまま。私が、ヴァージンの支えになりたい、ということです。
去年、サイアールでの世界競技会で、私は膝を痛めて最後まで走り切れず、そこで引退を決意しました。
でも、もう二度とトラックに立たなくていい、と思ったことはありません。
むしろ、リハビリの間も何とか陸上の世界で勝負をしたい、と思っていました。
道半ばで引退しても、私の陸上に対する想いは変わりませんでした。
ヴァージンがあんなに力強く戦っている姿を見ると、昔の自分に重なってくるような気がします。
そんなヴァージンを……、ワールドレコードを継ぐ「勇ましき女王」を、より速くできたら……。
トラックをかつてのように走れない私の、夢を諦めたくないという気持ちが、それに重なりました。
もし、かつてのライバルに支えられるのが嫌だというのなら、これからも友達同士で居続けます。
もし、私の想いがヴァージンの心に響くのであれば、今度ヴァージン、コーチ、私の3人で集まりませんか。
その時、私の想いをヴァージンに伝えます。
できることは、何でもするつもりです。そして、夢と希望だけは、今でも心に詰まっています。
どうか、私のこの気持ちを受け取ってください。
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(メドゥさん……。いつまでも私のライバルで……、私の憧れの存在なのに……、これだけフレンドリーな言葉を送ってくれたの……、私がレースに出られなくなったとき以来かも知れない……)
気が付くと、ヴァージンはメールの文面に見入っていた。スタジアムで杖をついているメドゥの姿が、時折ヴァージンの脳裏に現れては、消えていく。そして、入れ替わるように、かつて全く追いつくことのできなかったその後ろ姿を思い出すようになっていた。
(メドゥさんのほうから支えたいって言ってくれるなんて……、全く思わなかった……)
ヴァージンはパソコンから目を反らし、何気なく天井を見上げた。少しだけ汚れたその天井にすら、メドゥとの思い出が映し出されているかのように、ヴァージンは感じた。それから、彼女は再び首を元に戻した。
(でも、メドゥさんはどうやって私を支えるんだろう……。それが書いてなかったような気がする……)
だが、そう思うにつれ、ヴァージンの中に少しずつ一つの期待が溢れ始めていた。ヴァージン自身にとって、彼女が本当に必要な支えになるかも知れないということを。
「メドゥからそんなメールが来たのか……。あの会見を見て、陸上の世界に未練があるとは思っていたが……」
「そうですね……。でも、私だってここまでメドゥさんが言ってくれるなんて思わなかったです」
メールの文面をプリントアウトしたヴァージンは、数日後のトレーニングでマゼラウスにその文面を見せた。すると、マゼラウスは食い入るように紙を見つめ、それから少しだけ笑ってみせた。それが、ヴァージンにとってはメールの文面以上に気になってしまった。
「コーチは、このメールを見てなんか感じたことでもありましたか」
「いや……、いろいろあってな……。なんかメドゥの引退が、今更だが、ものすごく哀れでならないんだよ……」
それからマゼラウスは、何かを言おうとして口を開こうとしたが、すぐに首を横に振ってやめた。
「メドゥさんが哀れに見えたんですが……。私は、哀れというより、憧れていただけにショックでした……」
「まぁ、ショックとも言えるよな。同じアスリートとして、私もいざ引退の会見を見たときはショックだった」
そう言いながらも、マゼラウスはどこか心浮かない表情であるかのように、ヴァージンには見えた。だが、この時点でそれ以上のことは突っ込まないように、彼女はあえて話題を変えたのだった。
「ところで、コーチ……。この文面を見て、メドゥさんは私をどうやって支えていくように見えますか」
「どっちかだな。コーチか、代理人か、それかスポンサーの担当者になるか。基本、それしかないからな」
「コーチというのもあるかも知れない……、のですか……」
「まぁ、私はその可能性が一番高いと思う。引退して2年ちょっとでそこまで凄腕の代理人になれないと思うし、コーチというのが最もな選択肢かも知れない。お前を先導して走れないことを除けばな」
そう言って、マゼラウスは薄笑いを浮かべた。ヴァージンがこれまで一度も追い抜いたことのない、かつて男子の長距離選手だったマゼラウスの横顔からは「やれるものならやってみろ」という文字が映っているようだ。
「たしかに、メドゥさんの自己ベストは、私や……、今のライバルよりも20秒も遅いですから……」
「そこなんだよな。それに、メドゥはしばらく歩くことすらできなかったはずだから、お前と並走しながらペースを意識させるようなトレーニングには、まず不向きだ」
「そうなると……、やっぱり代理人ってことですか……」
「それはどうなるのか……。そこは、今度本人と直接会って話して、そこで彼女の意思が分かることだろう……」
その夜、高層マンションに戻ったヴァージンは、メドゥに返信を入れた。1週間後、エクスパフォーマのトレーニングセンターの近くにあるカフェでお茶しながら話しましょう、と。
それからの1週間は、あっという間に過ぎていった。封筒の山から来年2月のアムスブルグ選手権の要綱を取り出し、エントリーを行ったこと以外、特段彼女自身が何かをしたということはなかった。
メドゥと約束した当日も、その数時間前に再び13分台を5000mのタイムトレーニングで叩き出し、ヴァージンもマゼラウスも心が晴れ晴れとした状態でカフェに向かうことができた。
だが、ヴァージンが交わした約束であるにもかかわらず、マゼラウスが先導してカフェに向かっていった。しかも、約束よりも30分以上早い入りだ。ヴァージンは席に座ると、思わず尋ねた。
「コーチ、少し早いような気がしますが……」
「お前も、本番当日は結構集合時間よりも前にやって来るだろう。それと同じだ」
ヴァージンがトレーニングウェアの上にパーカーを来ただけの、普段の行き帰りの服装であるにも関わらず、マゼラウスは珍しく男子更衣室でスーツ姿に着替えていた。それだけ、マゼラウスのほうが本気であるかのように、ヴァージンには見えた。
「たしかに……、私は普段から本番になるとそうします。でも、こうやって会う時とはまた別な気がします」
「まぁ、そこはお前が気にするな。私が、ものすごくワクワクしているからな」
「えっ……、ワクワクしているって……、どういうことですか?」
ヴァージンがそう尋ねるも、マゼラウスはカウンターから運んできた最初のドリンクを飲みながら、あえて聞こえないふりをしていた。だが、その表情はどこかにやけているようにヴァージンには見えた。
(コーチは……、メドゥさんの話になると……、浮かれているような気がする。この前もそうだった……)
ヴァージンがそう確信した時、カフェの自動ドアの向こうから見覚えのある金髪の女性が迫ってきた。
「メドゥさん、来たようです……」
「そうか……。私も、襟を正さないといけないな……」
自動ドアが開くと、すぐにメドゥとヴァージンの目が合った。少し混雑し始めてきたカフェの中で、ヴァージンがスッと立ち上がり、大きく手を振ってメドゥに居場所を伝えると、メドゥもすぐに手を振った。
「お待たせ、ヴァージン。そして、お久しぶり」
「メドゥさん……!」
2年ぶりに会うメドゥは、マゼラウスと同じくフォーマルな姿で、体つきを除けば彼女がほんの少し前まで陸上のトラックを走っていたような面影はなかった。それと引き換え、最初ヴァージンが見たとき以上に、メドゥの見た目の印象が大人だった。今にも走り出していきそうな女子選手というよりも、その場を落ち着いて歩く一人の女性と言ったほうが正しいだろうか。
そして、メドゥがヴァージンとマゼラウスの正面に座り、カウンターから運んできたホットレモンティーに軽く口をつけた。それから、肩に掛けてきたバッグからクリアファイルを取り出した。
(エージェントという文字が見える……。これは、私が思っていた通りになったのかも知れない……)
メドゥの口から明かされるよりも早く、ヴァージンは思わず手を叩きそうになった。