第51話 昨日の敵は今日の友(1)
「壁を破ったことで、お前の足についていたストッパーが外れたようだな」
13分59秒99――女子5000mで初めてとなる13分台――を叩き出してから1週間、エクスパフォーマのトレーニングセンターのグラウンドでのタイムトライアルを終えたヴァージンは、マゼラウスの驚いたような声に、思わず振り向いた。
「ストッパーが外れたなんて……。私はもともと、気持ちが弱くなっていただけです」
「このタイムを見て、本当にそう言えるか。お前はまだ、そこまで速いタイムだと思っていないようだな」
マゼラウスがストップウォッチを見せる。そこに映っていた数字に、ヴァージンは思わず口を大きく開いた。
(13分57秒78……。あの時よりも少し遅いくらいだと思っていたのに……!)
ヴァージンは、ストップウォッチの数字を3回目で追い、それからマゼラウスに向き直った。その瞬間に、彼女の肩をマゼラウスが軽く叩いた。
「トレーニングで13分台を出せるくらいまで、お前は成長したんだ。しかも、大記録を達成できないという苦しい時期が、あれだけ続いたにもかかわらず、その中でもお前は強くなっていったんだ」
「ありがとうございます……。私……、今だから言えますが……、壁に背を向けなくてよかったと思います」
「ヴァージンがそう思いたい気持ちは分かる。私が夢を諦めた人間だからというのもあるかも知れないが、私から見ても、お前が背を向けようとするたびに踏みとどまっている姿は、はっきりと見て取れた」
そう言うと、マゼラウスは再びストップウォッチに目をやり、未だ見たことのないタイムにうなずいた。
「お前は、もっと速くなれる。お前もそろそろ28歳になるが、お前のピークは、過ぎ去っていないはずだ」
「私も、そう信じています。あのタイムを出せましたが、出したら出したで……、また次を出したくなります」
ヴァージンは、そう言うと汗にまみれた右手をそっと握りしめた。疲れ切っているはずだが、その手にはどこか強い熱がこもっているかのようだった。
「私だって、どこまでお前が行けるか見てみたい。今のところ、13分台を出せば勝てる。お前は、誰もが持っていないアドバンテージを、その脚に秘めているんだからな」
そう言うと、マゼラウスは少しだけ目を細めた。それは、トレーニング新記録の喜びから、突然現実に戻しかねないような表情だった。
「いま、お前の調子が乗っているときに、来年のスケジュールを決めたほうがいい。代理人がいなくなってから、お前が走ること以外のところで、損をしているように見えるからな」
「そうでした……。大記録を出そうが、エントリーは自分でやらなきゃいけないんでしたね……」
その日に限って、高層マンションのエントランスポストが郵便物で溢れそうな状態になっていた。ヴァージンは、手紙や封筒を両手で抱えながらエレベーターに乗るも、別のフロアの住人に落ちた封筒を拾われたことにも気付かないほど、相当の量を抱えていたのだった。
ドアを開けた瞬間にその前に散らばった手紙を拾い上げ、部屋の鍵を閉めたヴァージンは、そのままテーブルの上に封筒を置いた。そして、すぐにため息をついた。
「はぁ……。どこから手をつけよう……」
ヴァージンの目ではっきりと分かる範囲でも、手紙と封筒合わせて300通以上は届いている。数日に一度は封を全部開けるようにしているものの、これまでで最も多いストックになってしまっているようだった。
差出人も、ヴァージンのスポンサー・エクスパフォーマだけではなく、国際陸上機構、学校、出版社、テレビ局……、それに差出人を見ただけでは全く分からない名前まであった。
(私がいま必要なのは、来年のスケジュール決めなのに……、レースの案内を抜き出すだけでも難しい……)
これから年が明けるまで、陸上選手としてはオフの時期に入るものの、彼女にはそれほど時間はない。だからこそ、見たい情報だけを手にしたいのだが、テーブルの上にできた山はそれを許してはくれなかった。選ぼうとするだけで、そこから崩れ落ちていく。
(少しだけ見て、必要なかったらゴミ箱に捨ててしまおうかな……)
ヴァージンは、一番上にあった封筒を開けて、軽く目を通した。
(女子初の13分台として、ぜひうちのスポンサーになってください……)
トレーニングジムのモデルとしてヴァージンを使いたい。そのような類なものだと分かった瞬間、彼女はすぐにゴミ箱に捨てた。本来ならお断りするのが筋だが、もはや彼女にそこまでのことをしている余裕はない。
(壁を破るためにどれだけ努力したか、という講演……。いつか、ファンのためにそういう講演をしたいとは思うけど……、やっぱりもう少し肩の荷が下りないと……)
代理人が講演主催者とやり取りをする時代ならともかく、全てをヴァージン一人でやらなければならない状態で、今すぐにでも講演依頼を引き受けることはできそうになかった。
(テレビ出演……。人気アイドルグループと対談。そして筋肉勝負……)
ヴァージンは、テレビ局からの依頼でさえ、首を横に振るしかなかった。なかなか見たい情報が現れてこない中で、今は無言で断るしかない依頼があまりにも多すぎたのだ。
10分経って、ヴァージンはついに両手を上で組んだ。
「代理人がいれば……、私の家がこんなゴミだらけにならずに済むはずなのに……」
数ヵ月前にマゼラウスから言われた通り、トップアスリートに代理人がいない状態を望ましくないと思う人が多いにも関わらず、その代理人になることに及び腰になっている。そして、それはヴァージン・グランフィールドという名前があまりにも重すぎるからであり、そのことは彼女自身も薄々分かるようになっていた。
その中で最も大変な思いをしているのもまた、当の本人だった。
(走ることは続けたいのに……、これからずっとこういうような生活が続くと思うだけで……、ものすごく気持ちが沈んでいきそう……)
本来アスリートは、本業に集中したい存在。そうでなければ、ライバルに負ける世界のはずだ。だが、ヴァージンにはそれすらも許されなかった。だからと言って、自分一人でどうにかできるようなレベルの問題でもなかった。
(もう嫌だ。この封筒の山を、クローゼットに入れたほうがいいのかな……)
とは言え、クローゼットもゴミに出さないといけない「Vモード」でほぼいっぱいになっていた。二日使えばシューズが使い物にならなくなるが、それすらこの2週間ほどゴミに出せていないのだった。
(とりあえず、メールでも見るか……。メールも同じように依頼の内容のものが多そうだけど、タイトルだけ見て削除すればいいんだし……。それに、たぶんそれよりも多い数の応援メッセージが来ているはずだから)
そう心の中で言って、ヴァージンは封筒の山に背を向けた。パソコンを立ち上げ、真っ先にメールボックスに入った彼女は、その瞬間に一瞬悲鳴を上げかけた。
(さっきのトレーニングジムのチェーン店が、どんどん私にオファーのメールを入れている……!)
受信ボックスの最初のページが、全て同じ系列のトレーニングジムで埋まっている。そして、次のページも8割くらいが同じトレーニングジム。そして、その中に出版社からのメールも多く混じっており、応援のメッセージは注意していないと見つけられないほどになっていた。
(嫌だ……。13分台を出した途端……、いろんなところが私にお願いするようになっている……)
ヴァージンは、タイトルどころか差出人の名前だけで手当たり次第にチェックを入れ、未読の状態のまま次々と削除を始めた。10件、20件まとめて削除するのは、封筒の山をゴミに入れるよりもずっと楽であるはずだが、気持ちがどんどん沈んでいくことだけはごまかし切れない。
(こんな生活、いつまで続くんだろう……。私、こんなことしている場合じゃないのに……)
差出人の名前を見た瞬間に、件名に目をやることなく削除のチェックを入れる。それを続けて、受信ボックスの10ページ目までヴァージンはようやくたどり着いた。そして、11ページ目を開けた彼女は、同じように上から順番にチェックを入れ続けた。
だが、一度チェックを入れた一つのメールがヴァージンの視界から消えかかったとき、彼女はそのメールの差出人の名前に違和感を覚えた。
(クリスティナ・メドゥ……。えっ……?あのメドゥさん……?)
彼女は、もう一度差出人に目をやった。そこには、紛れもなくかつてのライバル――かつて憧れだった存在――の名前が映っていた。件名には「ヴァージンの夢を一緒にサポートさせてもらえませんか」とだけ書いてある。
(メドゥさん……、今から何を言い出すんだろう……)
不思議なタイトルに、ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。