第50話 何度跳ね返されても、私は挑み続ける(6)
トルビア全土を襲ったブラックアウトは1日経って復旧し、ヴァージンは振替の飛行機でオメガ国に戻った。予定外の延泊になったため、その日はそのまま高層マンションに戻ることにし、戻るとすぐにメールを開いた。
だが、メールを開いたヴァージンは、思わずパソコンの前で立ち止まってしまった。
(祝福のメッセージが1通も来ていない……)
普段のレースであれば、祝ったり慰めたりするようなメールがレース直後から届くが、この日はレース直後まで遡っても全くそのような言葉がなかった。あるとすれば、「レースの結果をどうやって知ればいいのですか」といった、今回のレースの特殊な背景を説明しないと分からない質問だけだった。
(映像さえ残っていれば……、女子で初めて13分台を出したというニュースが今頃流れているはずなのに……)
ヴァージンは、帰りの空港で抱いていた不安が完全的中したことに、動揺を隠せなかった。トルビア全土が停電したため、今回のレースの情報がどこのメディアにも伝わっていない。
(結局、私が大記録を出したところで……、その場にいた人は誰も喜んでくれなかったし……、みんなに私の喜びを伝えることはできなかった……。記録だけは残っているのに、それを信じてもらえない……)
一つだけ届いていたそのメールに、ヴァージンは追伸で「13分台が出ました」と添えようとしたが、まだ何も情報がない中でそれを伝えても信じてもらえないような気がした。自分に関する情報が入らないアメジスタで、自分が情報を伝えたところで信じてもらえないということを彼女は何度も経験しており、それが国を変えたところで意識されてしまう。
(私の大記録は……、公認のはずなのに、記憶から消えてしまうのかな……)
ヴァージンはため息をつき、その日はそれ以上メールを見ないことにした。
翌朝になっても、ペジャン選手権の結果がニュースで流れることはなく、ヴァージンはパソコンの前で首を横に振ってトレーニングセンターに向かった。オリンピック直後のように、決してため息をつきながら歩くようなことはしなかったが、自らの喜びを伝える気分にもなれずにいた。
「グランフィールド、おかえり!大変だったでしょ」
トレーニングセンターに入った彼女を、大きく手を広げて待っていたのはメリアムだった。
「ただいまです。メリアムさんの言った通り、トルビア共和国は全くの別世界でした……」
「テレビもトルビア人びいきの国営放送しかなかったわけだし、しかもヴァージンのレースのときに停電して、全くレースの情報が入らなくなったわけでしょ」
「そうです……。逆に言うとそれまでは、情報が入っていたわけですね」
「レースが終わるたびに、その画像を各国のメディアに送るの。問題のある部分を編集して。だから、女子5000mより前のレースはちゃんとニュースで報道されているし、それ以降は中止って流れてた」
「私……、ちゃんと5000mを走り切りました……。それも、もしかして中止って……」
ヴァージンの脳裏に、不安がよぎる。記録計ではなく、ストップウォッチで見せられたタイムは、たしかに今回の公認タイムと告げられたはずだ。それでも、情報がなければ周りには信じてもらえないようだ。
ヴァージンは首を小刻みに横に振り、体を震わせた。
「そんなことありません。5000mが終わったら中止になって、5000mはみんなにタイムを告げていたはずです。私は、あのスタッフを信じます。もしあの大記録がなかったことになったら……、一番悲しむのは私ですから」
「あの大記録がなかったことになったら、って……。グランフィールド、もしかして……、ついにあの記録を出したの……!」
メリアムの声のトーンが、想定外に大きくなる。ヴァージンが無意識に言った3文字の言葉は、彼女自身の心にしまい込んでいた喜びを伝えたいという本能に他ならなかった。その本能に逆らうことなく、ヴァージンはメリアムに数字だけをゆっくり伝えた。
「13分59秒99、です!」
ヴァージンは、そう言うとすぐに唇を震わせた。ほぼ同時に、メリアムが叫ぶようにヴァージンに告げた。
「やったじゃない……!それ、スタッフから言われた数字でしょ!記録として、ちゃんと残ってるじゃない!」
「公認って言われました。でも……、情報がない状態で、メリアムさんにも伝えられなくて……」
「大丈夫よ。むしろ、グランフィールドの口からちゃんと伝えれば、世界じゅうの人があなたの偉業を讃えてくれると思う……!何と言っても、女子で初めて5000mを13分台で走ったわけだから!」
メリアムは、そこまで言うとレース直後に優勝した選手を称賛するかのように、ヴァージンを軽く抱きしめた。あのレースの直後に誰からも抱きしめられなかったぶん、ライバルの一人とも言うべきメリアムからそのような祝福を受けたことに、ヴァージンは頬を熱くさせずにはいられなかった。
ペジャン選手権で出した記録をヴァージンが伝えたのは、その日はメリアムとマゼラウスだけだったが、二人から祝福の言葉を掛けられたことで、前日のような落ち込みはなくなっていた。
(私は夢を見ているんじゃない。あの記録を出したことを、二人は信じてくれて、喜んでくれた……)
高層マンションに戻ると、ヴァージンはテレビをつけた。手当たり次第にニュースの流れているチャンネルに動かし、チャンネルを止めた瞬間、彼女は息を飲み込んだ。
――ついに13分台!女子5000mの最速女王、ヴァージン・グランフィールド、大記録達成!
画面の下に、彼女自身の名前が大きく表示されているのを見て、ヴァージンは画面に釘付けになった。決してレースの映像は流れず、バックにかつて14分10秒を破ったときのヴァージンが映っているだけだったが、読み上げられるニュース原稿に、気持ちが高まってくる。そして、「13分59秒99」という数字が告げられた瞬間、ヴァージンは部屋の中で再び喜んだ。
(これで……、私の記録が世界のみんなに伝わった……!みんなが私の抱いた喜びを共有できるんだ……!)
すぐにヴァージンはパソコンを立ち上げ、何の迷いもなくメールフォームを開いた。わずか2時間で、ふだんの二日分以上のメールが入っており、そのほとんどが彼女の偉業を祝福するような件名だった。
――おめでとう、ヴァージン!
――私たちは、ずっとグランフィールド選手の大記録を……、待っていました!
――できれば、スタジアムに行って、大記録を達成した喜びを一緒に分かち合いたかったです!
(みんな……、みんな本当にありがとう……)
一つ一つのメールに返信することもできないほどの祝福の言葉に、ヴァージンはパソコンに向かって心の中で感謝の言葉を告げた。メールに刻まれた力強いメッセージを読むだけで、ペジャンのスタジアムで激しく叫んだ、「勝利」の雄叫びが蘇ってくるようだった。
(私、本当に13分台を諦めなくてよかった……。何度跳ね返されたとしても、私は挑み続けたんだから……)
雄叫びから始まったヴァージンの記憶は、少しずつ時を巻き戻す。トラックに立ったとき、ラップ68.2秒を次々とクリアできたとき、スタジアムが停電になってもその身を奮い立たせたとき、そして全力でゴールラインを駆け抜けたとき。その全てが、彼女の体から記憶として湧き上がってくるかのようだった。
その時、ヴァージンは思い出したかのようにメールを検索し始めた。2ヵ月前、グローバルキャスの担当者からもらった、アメジスタ国内からの反応を、あまりに悲しい言葉が続いていたため途中で閉じたのだった。
(アメジスタの人々だって、オリンピックで私がこの記録を達成できていたら、同じように言ってたのかな)
大記録を達成した今、メールによってヴァージンが負った心の傷など、怖くはなかった。ヴァージンは、その先頭に「国の恥!」などと書かれていることが分かっているメールをそっとクリックして、下まで動かした。
(あれ……、なんか中傷する言葉じゃなくなっている……)
そこには、アメジスタの人々が初めて祖国の陸上選手を見た純粋な喜びが、はっきりと刻まれていた。中には「分断された側なのでテレビが見られず、それでも歓声だけでアメジスタの選手が戦っているということを知れてよかった」など、テレビの前から離れたところからのメッセージさえあり、少なくとも何人かは、あの時「アメジスタ人の」ヴァージンをはっきりと応援していたことは間違いなかった。
そして、そのメールの一番下には、見覚えのある名前が書かれていた。
(ファイエルさん……。聖堂の周りで5000mの勝負をして、私が負けた相手だ……)
「夢を捨てさせるまで帰らない」と、黒い髪をなびかせながらヴァージンに言い放った長身の男性、ファイエルの姿がヴァージンの記憶の中にかすかに蘇ってきた。ヴァージンを引き離す力強い走りを見せ、夢の力を訴えた彼女を笑うその姿が、メールに重なるように映し出される。
(アメジスタに私なんて必要ない……。そう言ったはずのファイエルさんが、どうしてグローバルキャスのインタビューに答えているのだろう……)
ヴァージンに対して言い放った言葉を考えれば、ファイエルはマイクを向けられても一切答えないはずだ。そんな彼が、インタビューにはっきり答えているということが、ヴァージンの興味をかえって引き立たせた。
(やっぱり夢を追い続けることは無駄だったんだ、とファイエルさんが言ったとしても、それは私自身の走りを見てから出てきた言葉。トラックに立つ私から何かを感じたことに変わりはない……)
ヴァージンは、そこまで思い浮かべて、ようやくメールの文面に目をやった。それから1秒も経たないうちに、彼女はその目にわっと涙が溢れ出てくるのを感じた。
(えっ……?ファ……、ファイエルさん……?)
ヴァージンは、溢れ出た涙を片手で拭いながら、グローバルキャスのインタビュワーに向けたメッセージを、最初からじっくり読んだ。読み進めるうちに、その涙が少しずつ大きくなるのを感じた。
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アスリートはこの国に必要ない。アメジスタにとって意味のない存在だ。
数年前にグランフィールドと走ったとき、俺はたしかにそう言った。
けれど、レースに挑むグランフィールドを見た俺は、自分を悔やむしかなかった。
闘志すらむき出しにした表情で、トラックに立っている。
どんなに引き離されても、ライバルの姿を懸命に追い続ける。
俺たちのアメジスタを背負い、グランフィールドは戦っている。
その姿に、多くのアメジスタ人が足を止め、みな一緒になって応援する。
全てを見て、俺は気付いた。
俺たちと同じアメジスタ人が、トラックの上で奇跡を起こそうとしているんだ、と。
あの時グランフィールドは、いつかアメジスタの人々を勇気づけたい、と言った。
そして、現実に俺たちアメジスタ人を勇気づけた。
アスリートは、決してつまんない職業じゃない。意味のない職業なんかじゃない。
俺たちをワクワクさせてくれる、素晴らしい存在なんだ。
メダルは取れなかったけれど、俺は今日からグランフィールドを応援することに決めたよ!
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「なんか、ファイエルさんが……、私の想いを誰よりも感じている……。あの時は全く耳を貸さなかったのに……」
ヴァージンの涙と、こみ上げる感情が止まらない。彼女は、そのメールを自分の心に言い聞かせるまで何度も読み返した。
「ありがとう……」