第6話 ヴァージンにスポンサーがついた日(4)
数日後、ヴァージン宛にイクリプスから1足のトレーニングシューズが届いた。メールボックスに入らないため、ワンルームマンションではなくセントリック・アカデミーに直接届いたのだが、この件に関してはアカデミーのコーチにマゼラウスが話していたこともあり、さして問題は起きなかった。
「これが……、イクリプスのシューズ……」
「そうだな」
ヴァージンが包みを開くと、そこにはまだフィールドに足を踏み出していない新品のシューズが、黒く輝いていた。つま先に白の線が何本か刻まれており、アッパー部分にイクリプスの「E」をかたどったロゴが赤く刺繍されていた。持ち上げた感じは軽い。
「コーチ、これ履くだけで軽さが伝わってきます」
「そうか。普段使っているセントリックのシューズとどっちの方が速く走れそうか」
ヴァージンは、マゼラウスの言葉が終わるや否や、すぐに右の人差し指を下に向けた。
「まぁ、お前が決めた道だからな」
そう言うと、マゼラウスはすぐにグラウンドに足を向けた。履き慣れないシューズに足を包んだヴァージンも、その後を追いかけるように大股でグラウンドに向かう。
(ここからが、本当の勝負……)
今頃、シェターラにも同じシューズが贈られているはずだ。そもそもトレーニングの拠点にしている場所が異なるため、シェターラとは大会以外で顔を合わすことはまずない。それでも、同じシューズを履いて、同じ距離を競う二人は、見えない糸で繋がっている。
(イクリプスに支えられるのは、私。シェターラには負けてられない)
直近の大会で、シェターラにも敗れてしまった悔しさが、漆黒のシューズでトラックを踏みしめるたび、足の底から湧き上がってくる。そして、それが力になっていくことにヴァージンは気付いた。
「14分46秒23!調子戻ってきてるじゃないか!」
アムスブルグ室内選手権でどん底のタイムを叩き出してしまったヴァージンは、わずか数週間で見違えるほどタイムが伸びてきていた。イクリプスのシューズを履いて数日は、普段履いてきたシューズと全く違う感触に、時折足を前に出すのをためらうようなこともあったが、とくにスパートをかけた後に足の裏にかかる衝撃が軽くなったので、以前よりも楽に走ることができた。
「……ありがとうございます」
「まぁ、このくらいやってくれないと、私も困るのだがな」
「はい……」
そう言いながら、ヴァージンはベンチの上に腰をおろし、軽く両足を伸ばした。そして、ゆっくりと顔を上げマゼラウスの表情を伺う。
(喜んでない……)
伸びないアスリートは切れ、とCEOから言われたその日から、マゼラウスはヴァージンのタイムに一喜一憂していないように見えた。アムスブルグ大会の前は、少しでも良いタイムを叩き出せば表情が緩んでいたにもかかわらず、今は表情一つ変えずに彼女の成長を見守っている。
(でも、私がもっと頑張れば、きっとコーチだって喜んでくれる)
そう思うなり、ヴァージンはマゼラウスに見えないように軽く笑ってみせた。
「どうしたんだ、ヴァージン。思い出し笑いとか」
「……何でもないです。でも、私がどこまで速くなれるんだろうと思うと、何か嬉しくて……」
「そうだよな。それが、君に限らず、勝負に挑む者の純粋な気持ちだ」
(そう言えば、シェターラはどこまでタイムを伸ばしているんだろう……)
ヴァージンは、使い始めて間もないイクリプスのシューズを見ながら、心の中でそっと呟いた。
8月の世界陸上競技会まで期間があるので、その日の練習後にヴァージンはアカデミーの中のパソコンで複数の大会にエントリーした。たまたま通りかかったアカデミー生に頼んで、後ろから見てもらう中での操作だったが、パソコンのいろはが全く分からなかった数週間前とは比べ物にならないほど、彼女のスキルは上達していた。長い昼休みなど、時間がある時に少しずつパソコンに触れていたことが功を奏したようだった。
ヴァージンが運命の大会に挑むまでの間に、3月の春季ジュニア大会と5月のオメガ国・リングフォレストでの大会にエントリーした。ただ、コーチと相談した結果、この2つの大会はあくまでも世界競技会までのウォームアップ的な位置づけとしての実戦練習であり、実力をピークにもっていくのはあくまでも8月ということになった。
だが、ウォームアップと言っていられないことが分かったのは、それから数日経った練習後のことだった。
「イクリプスから封筒だ……」
メールボックスを開けるなり、ヴァージンは思わず足を止めた。シューズが贈られてから、動画撮影のスケジュールを含めて忘れられたように音沙汰がなかったイクリプスから届いた、紙切れ1枚しか入っていないような封筒に、ヴァージンは胸を躍らせた。
(もしかして……)
ヴァージンは、ゆっくりと封筒を開けた。何やら、スケジュール表のようなものが入っていた。
「うそ……」
不意をつかれたように、3日後に動画撮影のスケジュールが組まれていた。それどころか、二人の女性アスリートのスケジュールを把握していたかのように、5月のリングフォレストでの大会でタイムを測定することになっていた。
そして、ヴァージンの目に留まったのは、最後の1行だった。
――8月の世界競技会で、タイムの良かった方とスポンサー契約を交わす。
(いつも以上に負けられない……)
「タイムを計る」が事実上のスポンサーをかけての対決となるだけに、ヴァージンの心に火がともった。シェターラの練習風景を見たのは、ジュニア大会期間中のトレーニングルームだけと言ってもよいヴァージンにとって、イクリプスのモデル候補に選ばれてからシェターラがどうタイムを伸ばしているのか気にせざるを得なかった。
イクリプスのシューズは、ロッカーに入れたままでワンルームマンションには持ちかえっていないが、ヴァージンには今自分が履いている移動用の靴でさえ、イクリプスのシューズのように思えた。
「イクリプス・ドリームの撮影に伺いました」
そして、予告通り3日後の午前中にイクリプスのスタッフがセントリック・アカデミーのゲートをくぐった。イクリプスの「E」をかたどったマークが目印の純白のトレーニングウェアに身を包まれた計測スタッフたちが、次々と受付の前に集まってくる。ライバル会社が堂々と入るそのさまは道場破りのようにさえ、他のアカデミー生には映った。
ヴァージンとマゼラウスだけが、目を細めて勝負の時を待っていた。すると、フィールドに入って来るなり、すぐに二人の方にイクリプスのスタッフが近づいてきた。遠くの方で、一人の男性がカメラを構えているのが気になったが、すぐにイクリプススタッフはヴァージンに話しかけた。
「おはようございます。ヴァージン・グランフィールドさん、コンディションはいかがですか」
「最高です」
「今日は、どれくらいのタイムを叩き出すつもりですか」
「私は、出せるところまで出します」
そこまで言って、ヴァージンは作り笑いを浮かべた。カメラを構えた男性がインタビュアーの真横に立って、初めてカメラが回っていることに気が付いたのだった。
「この部分も、使われるわけですね」
「それは、対決動画ですからね。もちろん、使って欲しくない部分があったら、遠慮しなくていいですよ」
そう言うと、ヴァージンにカメラを向けるのをやめ、すぐにインタビュアーが一枚の紙を手渡した。
「これから、普段通り行っている練習風景を撮影し、休憩の後に午後の3時から5000m走ることになります。今日はちょっと長い間ここをお借りする感じになりますが、よろしくお願いします」
「分かりました」
「では、私たちは練習の邪魔にならないように遠くで見ていますので」
そこまで言うと、イクリプスのスタッフたちはグラウンドの端の方に行き、折りたたみ椅子を取り出して座った。カメラだけは、ヴァージンとマゼラウスの姿が映るような向きに据え付けられた。
(少し緊張する……)
以前、マゼラウスにランニングフォームを撮影されたことがあったが、外部の人間からこのように撮影されることは、分かっていたとしても気味が悪かった。普段通り外でのストレッチを行ったり、短い距離の走り込みを行ったりするものの、ヴァージンは時折カメラのほうをちらちらと見るような感じだった。
「なにボサッとしてる!」
「……はい」
「こんなんじゃ、今日もシェターラに負けるぞ!」
(気にしちゃダメ……。私は、私なんだから)
そして、ついにその時がやってきた。
「さぁ、スタート位置に付いて下さい。あと45秒で、シェターラさんと同時にスタートします」
(よし……)
ヴァージンは、少しだけカメラの方を向いて、首を横に振った。そして、軽くジャンプし、スタートラインの上に足を乗せた。
イクリプスのスタッフがスタートガンを天高く伸ばしている。見えない相手との勝負だ。
(シェターラには、負けない……)
ヴァージンは、風を切るように力強い一歩を踏み出し、順調にスピードを上げていく。目の前に誰もいない分、自分の思い通りにポジションを決めることができる。逆にライバルがいない分だけスパートをかけづらいが、それは何度も練習で経験していることであり、今更イクリプスの前で焦るようなことではない。
ヴァージンは、自分の周回を数えた。そして残り4周を切り、ヴァージンはイクリプスのシューズに包まれた足を一気に前に伸ばした。練習でもほとんど見せることのないようなスピードで、ヴァージンは一気にスパートをかける。
「ヴァージン!その調子だ!」
遠くから響くマゼラウスの声も、ようやく履き慣れたイクリプスの黒のシューズを力強く後押しした。ヴァージンは、決して横を振り向くことなく、普段走り慣れたトラックを一気に飛ばしていく。
だが、最後の直線トラックに入り、あと少しでゴールラインを割ろうとしたとき、ヴァージンの耳を聞き慣れない低い声が叩き付けた。
「シェターラ、ゴール!」