第50話 何度跳ね返されても、私は挑み続ける(5)
11年以上レースに出続けてきたヴァージンであっても、レース中にスタジアムの照明が突然消えるような経験は一度もなかった。トラックの外からレースを止めようとする動きはないものの、スタッフがひっきりなしに動いている。その中で続けられる、既にスタートを切っている女子5000mのレース。勝負の続くトラックだけが、スタジアムの動揺とは無関係なたった一つの場所だった。
(この後、私たちはどうなってしまうんだろう……)
残り3周を切り、普段からヴァージンがスパートをかけているラインが目の前に現れている。それでも、残り1000mが不安でならなかった。照明が消え、記録計が時を刻むのを止めた中で、ヴァージンの脳裏に、いや他のライバルたちの脳裏にでさえ、様々な憶測が飛び交っている。
(もし、このレースが無効になったらどうしよう……)
だが、次の瞬間ヴァージンが思い浮かんだことは、レースのことではなく、自分自身の走りのことだった。
(それでも、私はここまで思い通りの走りができている……)
意識が徐々にレースから遠のくものの、トラックを叩きつけるシューズには、スパートを爆発させるだけの力が十分に備わっていた。その力だけで、ヴァージンは何とかスピードを落とすことなく前に飛び出していた。
(私は、まだ走りたいし……、このレースで自分の夢を形にしたい!)
ヴァージンは、4000mのラインをほぼ無意識で越えた。右足が、いつものようにスピードを上げようと、前へ出たがっている。「Vモード」のボルテージが、彼女の抱く不安をも振りほどくように高まっている。
そして、彼女の想いはその脚に固く誓った。
私は、こんな状況でも挑戦を止めない!諦めない!せめて、5000mを力の限り駆け抜けたい!
(私がここからも満足な走りを見せられれば……、まだ13分台は間に合うかもしれない……!)
強く心に抱いたヴァージンは、突然体が軽くなるような気分だった。スピードを一気に上げ、ざわつくスタジアムの中を懸命に駆け抜ける。彼女の足を縛り付けていた弱気という名の鎖はトラックのどこかに投げ捨てられ、代わってその足に希望という名の翼さえ生えているように思えた。
(体感的には……、ギリギリ行けるような気がする……。弱気な心は、あと1000mだけ我慢しよう……!)
自然の光に照らされるままのスタジアムを、心地よい風が吹き抜ける。それは、大記録に立ち向かおうとするヴァージンへの、暖かな追い風になっていった。その中で、彼女はさらにギアを上げ、残されたわずかな時間に全てを賭ける。5000m世界最速の女子アスリートが、まだ誰も見たことのない世界へ突き進んでいく。
(あと少し……、あと少しで……、ずっと跳ね返され続けた記録に手が届く……。私の脚は、もう怯まない!)
最後の1周を告げる鐘がやや遅れて鳴った瞬間、ヴァージンは出せる限りのスピードまで高めた。足の裏に、はっきりと衝撃を感じてはいるが、あと400mであれば「Vモード」のパワーはもちそうだ。記録計の見えない中で、彼女は自分自身の脚だけを頼りに、ゴールまでの道を突き進む。
(今日こそ……、私は13分台という数字を見たい……!見せたい……!)
体を前のめりにして、ヴァージンはトップスピードでゴールラインを駆け抜ける。そして、いつものようにトラックの内側を振り返り、全てを出し切った自分の結果をその目で確かめようとした。
(映ってない……。やっぱり……、レース中に停電してしまった……)
何も映らなくなった記録計を前に、ヴァージンは立ち竦んだ。そこに刻まれるはずの優勝した選手のタイムは、漆黒の闇に包まれ、まるでレースがなかったように佇んでいた。
(停電はしょうがないけど……、せめて私の出した記録を見たかった……。たぶん、壁は破ったと思う……)
ヴァージンは、記録計の前で首を垂れた。もしこのレースが計測不能で無効だったら、ということを4000mの手前でかすかに思ったものの、改めて数字の出なくなった記録計が彼女の不安を余計に増大させる。彼女は、トラックの内側で激しく首を横に振った。
その直後、何気なくゴールラインに目をやったヴァージンは、ストップウォッチを手にしたスタッフが立っていることに気が付いた。そのスタッフは、ゴールラインに飛び込もうとしている選手たちをじっと見つめ、ゴールラインを完全に通過した時にストップウォッチを押している。
(もしかして……、私たちのタイムは、このような中でもちゃんと記録されている……)
本番のレースで、トレーニングさながらのストップウォッチでの記録計測を見るのは初めてだったが、違和感すら覚える光景にヴァージンは思わず表情を緩ませた。少なくとも、このレースが計測不能でタイムが出ないということはなさそうだ。あとは、ヴァージン自身の記録がどうなっているか、それだけが気になった。
「突然の停電に不安がられた方もいると思いますが、ご安心ください。皆さんのタイムは停電したときに備えてストップウォッチで記録していました。今回は、これが国際陸上機構の認める正式なタイムとなります」
13人のライバルが全てゴールを駆け抜けると、まず最下位の選手からそのスタッフのもとに呼ばれ、ストップウォッチを見せた。それを見て、ヴァージンは改めてそれが今回のレースのタイムであることを確信した。ゴールとは逆の順番に呼ばれるにつれ、ストップウォッチを見るライバルたちの中に笑顔が増えていくのが、ヴァージンにもはっきりと伝わった。
8人、9人と呼ばれ、まだそのタイムを見ていない人が少なくなる中、すっかり不安の消えたヴァージンに、今度は体全体が緊張感を覚え始めた。出せたか、出せなかったか、ただそれだけを待っているにも関わらず、タイムを告げられる時が近づくにつれ緊張感が一気に高まってくる。
3位、2位と呼ばれ、それからスタッフはほんのわずかな時間ストップウォッチに目をやり、うなずいた。
(次、私が呼ばれる……。あの人がうなずいたのは……、今までの世界記録を知っている証拠かもしれない……)
ヴァージンは、そっと前に出て一呼吸して、ストップウォッチの数字を右端から流すように見た。
13分59秒99
(13分台だ……。決して、夢なんかじゃない……。ストップウォッチは、たしかにそう言っている……)
ヴァージンの心臓を叩きつける鼓動が、レースが終わっているのに早くなりだした。もう一度ストップウォッチを覗くものの、黒く輝くその数字は全く変わらなかった。
「勝ったああああああーーっ!」
ヴァージンは、全身で喜びを表現するよりも早く、大きな声を上げて気持ちを吐き出した。何度立ち向かっても跳ね返された壁を、ついにその体で打ち破った。そのことを表現する適当な言葉を思い浮かべることができなくても、ヴァージンはタイムを見た瞬間から心が突き上げられ、そして震えるような思いさえ抱いていた。
(無理とかダメとか言われるようになってたし、夢の記録に手が届かないだけでため息をつかれていた……。弱気な心が、どんどん私を苦しめていった。でも……、私はそれでも立ち向かった。その結果が、いま……)
それでも、優勝選手のタイムを告げる特別なアナウンスもなく、ざわついているスタジアムや慌てるスタッフの様子は何一つ変わらない。その場で、大記録を喜んでいるのはヴァージンだけだった。
(客席にも伝えようか……。それに、優勝したからアメジスタの旗を持ってトラックを駆けるわけだし……)
ヴァージンは、気持ちを落ち着かせるとゆっくりと観客席に向かった。だが、アメジスタの旗はそこには用意されていなかった。このスタジアムでトルビア人以外の選手が注目されていない、という理由ではない。スタッフがスタジアムじゅうの電気設備を点検しており、旗を用意するどころではなかったのだ。
(どうしてだろう……。こんなに嬉しいのに……、喜びをみんなの前で伝える雰囲気じゃない……)
13分台で走ったことを、最前列にだけでも伝えることはできるものの、ヴァージンの足は観客席に背を向けた。何も言わずロッカールームへと引き上げる時、彼女は後ろ髪を引かれるような思いだった。
大記録を出したにも関わらず、ヴァージンにインタビューが行われる気配はなく、ほどなくして大会そのものが中途で打ち切りとなった。スタッフが肉声で伝えたところによると、スタジアムだけではなくトルビア全土でブラックアウトが起きており、このままレースを続けられないとのことだった。
ヴァージンもすぐにスタジアムから出されたが、空港に向かったところで予定していた飛行機が飛ぶこともなかった。それどころか、空港で慌てているカメラクルーから、国営放送そのものが停電でダウンしていることを初めて告げられた。
(あれ……、ということは……、ひょっとして……)
ヴァージンは、そのことに気付いた瞬間、一気に喜びが消えていくような予感がした。