第50話 何度跳ね返されても、私は挑み続ける(3)
「あと2ヵ月、とりあえずお前の一番の夢を形にするために、ラップ68.2秒の完全クリアを目指そうか」
次のレースが決まったヴァージンは、マゼラウスからトレーニングの重点メニューを告げられた。
たしかに、ラップ68.2秒で走り続け、そこからラスト1000mで彼女が得意とするスパートをかければ、13分台に手が届く。だが、レースでそのラップを維持することも難しければ、少しだけペースを上げた果てにスパートが十分伸びていかないことが多々あった。マゼラウスにそう告げられるよりも前に、ヴァージンはどこが自らの課題であるか、はっきりと分かっていた。
「今回のラップトレーニングは、いつものように、5000mを意識してトラックを走ってみる。68.2秒ごとにカウントはしていくが、もし10周目までほんのわずかでも遅れても止めないからな」
「今回は、ストップをかけないんですね」
「そうだ。お前だって、楽しく走りたいだろ。プレッシャーに押しつぶされながら走るより……、最後まで走り切るほうがいいはずだ」
「ずっと私がプレッシャーに苦しんでいたのを考えて、コーチはそうしてくれたんですね」
「そうだ。それに、もう夢が形になる日も近いと信じているからな……、お前には強く当たらないことにした」
ほんの数日前、静かに「トラックを去れ」と口にした人間とは思えないほど、マゼラウスの口調はどことなく落ち着いているようだった。その一方で、その目は真剣にヴァージンを見つめている。
(私は、もしかしたらコーチから今まで以上に期待されているのかも知れない……)
ヴァージンは、何も言うことなく、そっと首を縦に振った。そして、軽くウォーミングアップをしながらスタート地点に向かい、そこでトラックの先を見つめた。
(このトラックの先に、世界じゅうのどの女子も、一度も越えたことのない壁が待っている。でも、今の私にとってその壁は、決して高いものではないのかも知れない……)
ヴァージンは、そっとうなずいた。その直後、マゼラウスから号令がかかった。
「On Your Marks……」
マゼラウスの手が高く上がり、トレーニングセンターで使う小さな号砲をヴァージンの耳に響かせた。
(ラップ68.2秒……。きっと、このペースのはず……!)
「Vモード」を携えたヴァージンは、シューズの底を軽くトラックに叩きつけ、最初のコーナーまで一気に加速した。ほとんど風が吹いていないトレーニングセンターだったが、ヴァージンは背後から追い風が吹いているかのように感じた。体感的には68秒より少し遅いが、これこそがラップ68.2秒に不可欠なペース、そしてストライドだった。
やがて、次のコーナーを回り始めると、ストップウォッチに何度か目をやるマゼラウスの姿が飛び込んできた。
(コーチは、カウントをすると言っていた。いつものように68.2秒とだけ言うのか……)
ヴァージンは、かすかにそう思いながら最初の1周を駆け抜けようとした。その時、その目の前でマゼラウスがはっきりとした声でヴァージンに告げた。
「3……、2……、1……」
(カウントダウンが始まった……。だから、コーチはずっとストップウォッチを見ていた……)
ヴァージンは「1」と言い終える直前にマゼラウスの横を駆け抜け、再び次の1周へと足を前に出した。2周目に入ると、1周目の時のような加速はなく、同じペースで走っても少し余裕ができる。だが、これまでのヴァージンは、レースが落ち着いてくるあたりで少しずつペースを落としていき、ラップ68.5秒にも達しないことが多々あった。ペースを調整しては、そこからまたわずかにペースを落としていくことの繰り返しだった。
(1周ごとにペースを維持する……。ラップトレーニングは、いま悩んでいる私には十分すぎるくらいかも……)
ヴァージンは、再びマゼラウスの見える直線へと差し掛かった。マゼラウスは相変わらずストップウォッチを見つめている。体感的には、ラップ68.2秒を維持しているように思えた。
だが、彼の告げる声だけはその期待に穴を開けるようだった。
「3……、2……」
(まだ10mくらいあるのに、そろそろ1になりそう……)
先程の1周目よりはるかにマゼラウスが遠いところにいる。400mをラップ68.2秒で走るということは、秒速にすれば6m近くとなる。10m手前を走るのが2を告げてからすぐであればよいのだが、2周目はそれよりも0.2秒ほど遅めのペースになってしまった。
「1……」
(最後まで走っていいと言われているけど……、やっぱり少しずつペースを落としてしまう……)
だが、マゼラウスの横を駆け抜けるまでの間、ヴァージンの耳に不思議と「0」という言葉は入ってこなかった。その代わり、マゼラウスが小さく「よし」と言うのを、コーナーに挑むヴァージンは聞いた。
(少なくとも、もうラップ68.2秒のペースではなくなっている……。でも、次の1周でまた68.2秒のペースを取り戻せば、トータルではそこまで遅くなることはないのかも知れない……!)
「3……、2……、1……」
3周目、4周目とヴァージンの目の前でカウントダウンが刻まれていく。5周も走れば、ヴァージンは「1」と言うタイミングでほんのわずかペースを上げるようになっていた。いつの間にか、走り続けると決めたラップに食らいつこうとしている彼女が、トラックの上で懸命に闘っていた。
そして、10周目まで終わると、マゼラウスはスタートラインを離れ、ゆっくりとゴールラインに向かう。そこからヴァージンは一気にスピードを上げ、これまでほぼ一定だったペースを段違いに高めていった。
(今日は、軽くスパートできているように思える……。なんか、10周目までほぼ68.2秒で走り切ったことで、心に余裕ができているのかも知れない……)
「65・31・57」という、何度も心に決めたラップで、ヴァージンは練習用のトラックを駆け抜けた。その瞬間、マゼラウスの大きな声がトラックを包み込んだ。
「ワールドレコードだ、ヴァージン」
(えっ……)
トレーニングで叩き出した記録は、決して世界記録とは認められないにも関わらず、ヴァージンはその耳でたしかにその言葉を聞いた。クールダウンしながら歩く彼女は、マゼラウスの前に吸い込まれ、彼の持っているストップウォッチに刻まれた数字を覗き込んだ。
「14分00秒05……。これ、私が前に出した世界記録よりも上……」
ヴァージンが、最後に世界記録を出した1年半近く前、ラガシャ選手権のタイムが14分00秒09。それよりも速いタイムということになる。ストップウォッチを見つめるヴァージンに、マゼラウスはそっと肩を叩いた。
「これが、お前の本来の実力なのかも知れない。プレッシャーに力を押さえつけられて、なかなかここまでのタイムを出せなかったが、今日のお前は今まで見ていて最高の走りかも知れない」
「でも……、最後に行くにしたがって、あのカウントダウンが遠くから聞こえてくるような気がしました」
「まぁ、そこは最終的に1秒くらい遅くなったが……、少しでも68.2秒を意識しているように私には見えた。ペースを守る、守らないじゃなく、そもそもお前に必要なものは68.2秒という時間を、レース中でも意識することだと、私は思っているからな」
「そうだったんですか……」
ヴァージンは、マゼラウスの声にはっきりとうなずいた。たしかに、ラップ68.2秒のペースだと思うことはあっても、実際にどの時間が68.2秒であるかまでそのペースを、彼女が身につけているわけではなかった。
「まだ何となくですが、ペースが分かりました」
「それはよかった。お前がそう言ってくれることが、支える身としては何よりだ」
その後、ペジャン選手権本番までの間に、68.2秒のラップトレーニングは実に10回以上行われた。トレーニングで13分台の数字をストップウォッチに残すことはできなかったが、14分00秒台を5回叩き出すなど、次の世界記録、それに夢の13分台までの道を少しずつ歩んでいることは間違いなかった。
(なんだろう。久しぶりに、レース前が楽しくなってくる……!)
ヴァージンは、トレーニングで出したタイムが夢の記録に近づくほど、その日ベッドに入ってもしばらく寝付けなかった。ヴァージンが一度も見たことのない「13」という数字が、頭の中に何度も浮かんできたのだった。
(そう言えば、メリアムさん……、トレーニングでは13分台を出していたとか言ってたような気がする……)
ヴァージンの脳裏に、いつ何と言ったか分からない、メリアムが13分台を自慢する瞬間が思い浮かんだ。
(それからメリアムさんは本番で13分台を出せていない……。だから、いまあの記録に一番近いのは、私……。本番で出せたほうが、勝ちなんだから……。今なら出せる……今なら……)
ヴァージンは、そうはっきりと誓った。