第50話 何度跳ね返されても、私は挑み続ける(2)
(なんだろう……。今ものすごく、前に跳びたいという想いで走っていたような気がする……)
ほぼ未経験だった走幅跳で、1回目よりも2回目のほうが40cmも遠くに跳べたことを告げられ、すぐに砂場から出たヴァージンは、自らつけた跡をその目で見た。
「それが、お前のアスリートとしての本心なんだろう。そのことは忘れ去っていないようだな」
「コーチ……。きっとそれは、前に出たいとか、勝ちたいとか、記録を伸ばしたいとか、そういう気持ちですね」
「分かってるじゃないか。そういう強い意思を体に何度も託した、世界のトップアスリートのお前だからな」
「はい」
ヴァージンは、マゼラウスの言葉に大きくうなずいた。トレーニングセンターに向かう時に心の中でうずくまっていた弱気な心は、この時にはもうどこかに飛んでいってしまったかのようだ。
それから数秒して、ヴァージンはマゼラウスに優しく肩を叩かれた。ヴァージンが目線をマゼラウスに向けると、マゼラウスは微笑んでいるようだった。
「お前を、このままにしておくわけにはいかなかった。気持ちで負けてしまったとか、言ってただろ」
「たしかに、言ってました……」
「そんなお前を見て、ものすごく哀れに思った。お前は、世界で誰よりも速く走れるはずなのに、結果だけが付いて来ない。その中で期待だけが大きくなっていく。それを見ててかわいそうに思っただけだ」
「コーチ……。私も、言葉に出せなかったですが……、ずっとそう思っていました……」
ヴァージンは、静かにうなずき、再びマゼラウスの目を見つめた。マゼラウスは、ヴァージンを優しく見つめ、再び彼女の肩を優しく叩いた。
「お前の勝負すべき相手は、プレッシャーでも、周りからの悲鳴でもない。13分台という、誰も経験したことのないリミット、ただそれだけだ。それだけなら、お前のたった一つの体で、十分勝負できるはずだ」
その日のトレーニングが終わり、高層マンションに戻った瞬間から、ヴァージンの脳裏にマゼラウスの語り掛けた言葉が次々と蘇ってくる。それまで浴びせられていた冷たい言葉を吹き飛ばすような、暖かな風のようだ。
(なんか、私はアスリートとして大切なものを忘れていたような気がする……。少なくとも、いろいろなプレッシャーに押しつぶされていたのは間違いないのかも知れない……)
周囲からの13分台への期待、アメジスタからの評価、そして順位、記録。その全てが、ヴァージンの脚を縛り付けてしまっているようにさえ、あの時彼女には感じられた。その縛り付けているものが、この日一日で少しだけ外れたように、ヴァージンは感じた。
(そんな中で走っても、本来の私にはほど遠かった……。だからこそ、今度はそういうもの全てを捨てたい)
ヴァージンは、前日遠征から戻ってきたときには目もくれなかった封筒の山に、ようやく目を通した。そこには、次に立つべきステージの案内が数多く積まれていた。
「私は、これで終わったわけじゃない。13分台は、次のレースで叩き出せばいい……!」
ヴァージンは、手当たり次第に大会事務局からの封筒を開いた。だが、どれもこれも数日前にエントリーを締め切った大会ばかりで、〆切の日を見た彼女はため息をつくことなく、次の封筒に手を伸ばした。
(必ず一つは、出られる大会があるはず……。去年のような失敗は、もう繰り返したくない……)
だが、申込受付中のレースが見つかることがないまま、ヴァージンの前から封筒だけが消えていった。気が付けば、手元には封筒が一つしか残っていなかった。それでも彼女は、思い切ってその封筒を開けた。
(これ……、明日がエントリー〆切のレースだ……。今年はもう、これしかない)
10月に開催される、トルビア共和国の首都ペジャンで、国際陸上機構公認のレースだ。ただ、オメガからは数千km離れており、毎年同じ週にそれより近い国での大会が開催されるため、これまでヴァージンが一度も出場したことがなかったレースだった。
ヴァージンは、必要事項を書き、その日のうちに高層マンション下のポストに投函したのだった。
だが、翌日トレーニングセンターでメリアムにそのことを告げると、メリアムが思わず表情を曇らせた。
「トルビア共和国……。あまり聞いたことないし、そもそもそんなところで大会やってるんだ……」
「メリアムさんも、行ったことがないんですか……」
「大会が他と被ってるとかじゃなくて、なんか雰囲気が、ね、行きたくないと思わせるような国だと思う」
「雰囲気が……。メリアムさんは、トルビアのことを知ってはいるんですね……」
メリアムは、ヴァージンの問いかけに首を小さく縦に振り、それから目を細めた。
「あの国には、自由がない。共和国ってついているけど、実際は首相の一声で国が全て決まり、それに逆らう人をどんどん監獄に入れているような国。とにかく、言論統制が強いところなの」
「そうなんですか……。ということは、人々が首相に何か言いたくても口にできない……」
「まぁ、そういうところ」
ヴァージンは、メリアムのやや低い声を聞くなり、アメジスタの現状と重ね合わせてみた。父ジョージをはじめ、本を書く人はいる。また、聖堂の前で自らの夢を語っても、それで体を拘束されるわけではなかったはずだ。アメジスタに足りないのは、外からの情報と、情報を伝える手段だった。
一方で、今回エントリーしたトルビア共和国では、情報を伝える手段はあっても、それを使うことさえできない。アメジスタとは違った意味で、不便な国と言っても過言ではなかった。
「グランフィールドは、ペジャン選手権でのレースをニュースで見たことある?」
「見たことありません。もしかしたら、記憶にないだけかもしれませんが……」
「噂によると、ニュース映像も、トルビア国営テレビが撮影した画像を輸出するしかないみたい。だから、なるべくトルビアの選手ばかり映して、優勝選手であってもほとんど映さない可能性だってあるの。そこから、世界中の国で使えるところを使うしかないわけ」
「そんな国、初めて聞きました……。ということは、グローバルキャスとかも入っていけないわけですね……」
「もちろん、他のメディアは入っていけないはず」
メリアムは、そこまで言うと大きく息を吸い込んだ。その後、考えるようなしぐさを見せながら話を続けた。
「本当かどうかは分からないけど、入国審査でカメラがあったら、まず没収されるわ。ノートパソコンとか、携帯端末とかも、情報が許可なく外に漏れてしまうのを防止するために、全部取り上げられるみたい」
「なるほど……。じゃあ、国営テレビの撮った映像が、そのレースの数少ない映像になるわけですね……」
「そういうこと。それも、トルビア人の姿ばかりだから、世界中で活躍する選手はいい気分にならないの。だから、世界の誰もが知っているようなヴァージンがそんなところに行くの……、少し戸惑ったわけ」
そこまでメリアムが言うと、ヴァージンは目線をやや下ろして、足元を見た。走る場所がどこの国であろうと、一度決心したヴァージンの足がすくむことはなかった。それから彼女は首を上げ、メリアムに告げた。
「心配してくれるのは嬉しいです。でも……、ここだって国際陸上機構が公認しているわけですし、5000mは5000mで、その距離が決して変わることがないわけですから……、私はこのレースを取り下げるつもりはありません」
「本当に大丈夫?グランフィールドが出て、スタジアムからブーイング起きない?」
「ブーイングが起きても、走り切るまでレースに集中すればいいだけじゃないですか」
ヴァージンは、メリアムにはっきりとうなずいた。勝負の時までまだ2ヵ月ほどあるが、この年最後のレースになることがほぼ確定しているヴァージンに、気の迷いは起きなかった。逆に、トルビア共和国のスタジアムでそれを跳ね返すような大偉業さえ達成できるかも知れないと、ヴァージンは心にそっと抱いた。
(私はせめて、13分台を叩き出したい……。何度も壁に跳ね返され、オリンピックでも達成できなかったけど……、次に私が走れば、もしかしたらその壁を越えられるかもしれない……!)
ヴァージンがかすかに見上げた空には、記録計に刻まれた「13」の文字が浮かび上がっているように見えた。メリアムも、ヴァージンの見上げた空を見つめながら、世界が彼女に何を求めているかをはっきりと察した。
「グランフィールド、たぶん……もうプレッシャーを捨てているのかも知れない。そうなったときのグランフィールドは……、きっと世界記録を打ち破るのかも知れない……」
「メリアムさん……、集中してて聞こえなかったです」
ヴァージンが思わずメリアムに振り向くと、メリアムは何もなかったように薄笑いを浮かべた。