第50話 何度跳ね返されても、私は挑み続ける(1)
オリンピックからオメガに戻ったヴァージンは、空港から自宅の高層マンションまで、ほぼ下を向きながら歩いた。何度か彼女の名を呼ぶような声が耳に入るものの、それに応えられるような余裕すら、彼女にはなかった。
(……っ、……っ)
街中で、涙を流して泣くような歳ではない。「世界最速」のはずのアスリートが、ゆっくり歩きながら泣いていたのであれば、イメージそのものが崩れてしまう。だからこそ、彼女は表情すら見せるつもりもなかった。
そして、ついにオメガ入国後に一言も言葉を出さず、部屋に戻ってきてしまった。不在の間にポストに入っていた山のような封筒も、手で抱えるだけ抱えてテーブルの上に置くだけだった。
(この封筒……、もうどこから手を付けていいんだろう……)
トレーニングに集中することもできない状態で、これだけ読まなければいけない封筒が溜まることは、彼女にとってそれだけで頭を抱えるようなものだった。1年前の世界競技会の後に、出たいはずだった秋のレースの〆切を落としてしまっている以上、下のほうまで見なければならないことは分かってはいたが、その手が動かない。
(私には、次のレースはもうないのかも知れない……。もし次トラックに立てたとしても、アメジスタのみんなに情けない走りを見せてしまった以上……、二度とアメジスタで中継がないかも知れないわけだし……)
ヴァージンが天井を仰ぐと、彼女を傷つける言葉の数々が飛び出してきそうだった。ただのメールの文章にも関わらず、その冷たい言葉が彼女の足すら縛り付けていたのだった。
「私は、これから何をすればいいんだろう……」
そう一言だけ呟き、ヴァージンはすぐにベッドに潜り込んだ。そして、ホテルの中で泣き足りなかった分、ベッドのシーツの上に涙をこぼした。
翌日、ヴァージンはトレーニングセンターへと向かった。あまり行きたくはなかった。それでも、マゼラウスと約束している以上、トレーニングだけは続けなければならなかった。
だが、そのようなもやもやした気持ちは、すぐにコーチに見抜かれてしまうのだった。
「今回のことで、相当傷ついてしまったようだな……。常に前向きだった、お前らしくない」
すると、ヴァージンは首を横に振ろうとしてその力を失い、静かにこう返すだけだった。
「コーチ……。なんか……、レースが終わってから、冷たい言葉ばかり浴びせられるんです……」
「そうか……。結果が全てとは言え、お前の走りは決して悪くなかったはずなんだがな……」
「本当ですか……。コーチの周りでも、ヴァージン・グランフィールドに13分台は無理だ……、とか言ってないですか……」
マゼラウスは、力の抜けたヴァージンの声に小さくうなずいた。それからすぐに、腕を組んだ。
「今のお前には、甘ったれるな、と私が強く怒鳴ることはできる。だが、お前自身はたぶんそれを望んでない。いや、今お前に強く当たれば、お前が頼りにできる人がいなくなりそうな気がする……。そのようなことをしてしまえば、私は一人のアスリートを見捨てることに……、なるんだぞ」
「はい……」
「それでだ。たしかに、ヴァージンはもう限界だとか、ピークを過ぎたとか言うコメンテーターはいる。いや、女子5000mに13分台なんて夢でしかなかったんだと言う人も、私は見た。だが、そう言われて……、お前が一番悔しいと思うだろ」
「悔しい……」
ヴァージンは、首を静かに縦に振った。その目の先に、マゼラウスの細い視線が映し出されていた。
だが、ほとんど動きのないヴァージンをよそに、マゼラウスは彼女の前で大きく手を広げながら、話を続けた。
「そう言われて悔しいのなら……、続けろ。悔しいと思わないのなら……、もうトラックを去れ」
(トラックを去る……)
ヴァージンは、わずか2文字の言葉を前に、わずかな時間うつむいた。思い浮かんでいたはずの言葉は、すぐに彼女の脳裏から消えていった。
「去りたくはありません。私から陸上選手の私を取ったら、何も残らないですから……」
「それが、続ける理由か……。本当は違うんじゃないのか」
マゼラウスがそう言うと、ヴァージンはまた小さく首を縦に振った。
「なら、お前の本心を私が当ててみせよう。こっちに来い」
マゼラウスの手がヴァージンを強く呼び寄せ、ロッカールームを通ることなく彼女をトラックに中に入れた。そして、普段トレーニングを行うトラックの手前で左に折れて、走幅跳用の砂場の前で止まった。
「どうだ。今日は全く違うことで、汗を流してみようと思わないか」
「走り幅跳び……、ですか……」
マゼラウスの首がそっとうなずく中、ヴァージンは砂場へと目をやった。同じ陸上選手とは言え、フィールド競技ともなれば、長距離走がメインのヴァージンでさえ一度もやったことがないのだった。
「もし、本気で跳ぶ気があるんだったら、いつものようにトレーニングウェアに着替えてこい」
「はい」
ヴァージンは、それから数秒だけ砂場を見つめ、やや駆け足でロッカールームへと向かった。
(コーチが何をしたいのか分からないけど……、走ることさえ苦痛になりそうな私には、いい気分転換かも……)
長距離を高速で駆け抜けるためのシューズ「Vモード」を筆頭に、彼女はトラック競技のトレーニングを行うかのような、普段通りのスタイルで再び砂場の前に戻ってきた。
「ほとんどこういう機会がないとは言え、お前の見た目は本気だな、ヴァージン」
「はい。なかなか、普段のトレーニングで走り幅跳びをするようなことはないですから」
「まぁ、今日は走幅跳のフォームを習得するわけではないし、勿論お前の種目を変えるつもりもない。ただ、お前が一生懸命跳んで、あることに気付いて欲しい。それだけのことだ」
すると、マゼラウスは助走路を指差し、ヴァージンにそこに向かうよう告げた。ヴァージンはやや強くうなずき、ゆっくりと助走路の上を歩き出す。そして、40mほどのところで振り返り、マゼラウスに手を振った。
「たしか、世界の有名選手は、このあたりから助走していたと思います。たしか、20歩くらいで」
「すごいな、お前。一度もやったことがないにもかかわらず、そういうのだけは知っているな」
(勘で場所を選んでいるのに、合ってるんだ……)
ヴァージンが、砂場の横に立つマゼラウスをじっと見つめていると、マゼラウスがやや大きな声で返す。
「だが、お前は走幅跳では全くの素人だからな。そこまで本気に世界レベルで考える必要はないはずだぞ」
「言われてみれば、そうかもしれないですね……。でも、なんかこの場所に立つと……、勝負したくなります」
そう言うと、ヴァージンはそっと手を上げて、足を前に出した。普段トラックを走る、その最後の1周で見せるようなストライドで、ヴァージンは左足から前に踏み出す。徐々に、砂場までの距離が迫ってくる。
(あのラインの手前で、最後に足と体に力を入れればいいはず……!)
踏み切り線の手前で、ヴァージンは右足を力強く踏み込み、そのまま高く飛び上がった。体が前に飛んでいくような感触と、次の一歩を踏み出したくなるような気分だけが、砂場の上で舞っていた。
そして、ヴァージンの足は砂を刻んだ。
「4m10……ぐらいか。ヴァージン、初めて跳んだ割には、なかなかのものだと思うぞ」
「本当ですか……。前に世界記録の本を見たときは、それよりもはるかに長い距離だったような気がします……」
「まぁな。ただ、お前はあくまでも初めて跳んだ身だ。そこから、どう距離を伸ばせるか、それだけを考えろ」
すると、マゼラウスはヴァージンの足がついた地点を指差し、軽くうなずいた。
「もしお前が、今の記録に悔しいと思うのなら、もう一度跳んでここを越えてみろ」
「はい」
ヴァージンは、マゼラウスにうなずいた後、やや早足で先程助走を始めた場所に向かった。その時、彼女の周りに、これまで何度も感じてきたような熱い気持ちが溢れ始めていた。
(私は、まだ勝負できるかも知れない……)
おそらく、マゼラウスは4m10より長い距離を跳べたら、再びそこに新たな壁を作るはずだ。次々と立つ壁に挑み続けることこそ、ヴァージンがこの世界に入って何度も経験したことのはずだった。
(もっと長い距離を……、私は跳んでみせる……!)
ヴァージンの目が、やや細くなる。砂場にその足跡が刻まれた、ほんの少し前の自分を、その体で乗り越えたい。ヴァージンの決心は、ついていた。
(よし!)
ヴァージンは、力強く助走路を駆け抜け、踏切版の手前で先程よりも力強く踏み込んだ。風に乗るかのように体の重心を前に傾け、彼女は無我夢中で空を跳んだ。
砂が、全ての結果を告げた。マゼラウスの声に、ヴァージンはその手を強く握りしめた。
「4m50!……できるじゃないか、ヴァージン!」