第49話 アメジスタ人が初めて見たアスリート(6)
記録計に刻まれた、14分02秒83のタイム。優勝選手に近づいていくカメラの数々。それらが全て、ヴァージンのものではないことに気付くまで、長い時間が過ぎ去った。最後、体を前に傾けて、3人まとめて追い抜いたように見えたのが幻だったことに気付くまでには、そこからさらに長い時間を要した。
(大記録どころか……、私は4位で終わってしまった……)
順位を告げられたヴァージンは、全力を出し切った右足に少しだけ手を当て、体を戻した後、その場に呆然と立ち尽くした。何故その順位なのか、何故夢の記録に届かなかったのか、彼女にははっきりと分かっていた。
トラックの内側で、ヴァージンは何度か首を横に振り、うつむいたままトラックを後にした。もはや、彼女を追いかけるカメラにどのように映っているのかも、意識することはなかった。
ヴァージンは、スタジアムの外でマゼラウスから「よく立ち直った」という言葉をかけられたところまで覚えていたが、その後言われた全てのことが反対側の耳へと通り過ぎてしまった。マゼラウスには、作り笑いで別れを告げたものの、ガックリと落とした肩はごまかしようがなかった。
選手村に戻ったヴァージンは、数日ぶりにパソコンを机に置いたが、そのまま天を仰いだ。
(心の弱さが出てしまった……。こんなの、初めてかもしれない……)
14分00秒09を出してから、あと少しで手が届くはずの13分台の壁に跳ね返され続けたヴァージンは、レース中にさえその脚にブレーキをかける言葉を思い付くまでに弱くなってしまった。アメジスタからの応援に頼ろうとメールを見ようとするが、そこに書かれていた心ない言葉に傷ついてしまった。ほんの数日前まで、トレーニングで何度も大記録を狙えるタイムを出していたにも関わらず、そこからたった数日で崩れてしまった。
「どんなアスリートだって、気持ちで負けてしまうことはあるのかも知れない……。でも、一番力を入れなきゃいけないレースで、私はそれをやってしまった……」
パソコンの前で、ヴァージンは何度目かのため息をついた。疲れ切った膝から時折衝撃がこみ上げてくるが、それすらもかき消してしまうような、長いため息だった。
(それに、アメジスタのみんなが見ている前で……、私は「もうダメ」とか心に思ってしまった……)
2400mを過ぎてから、3000mあたりまでの、たった2分にも満たない時間、ヴァージンはどれくらいのストライドで走っていたのかも記憶になかった。メリアムがどのようにメリナを抜いたのかも記憶になかった。その間、彼女の焦る心に、言葉の数々が次々と突き刺さっていった記憶しか残っていなかった。
(そして、その結果……、5000mでアメジスタにメダルを届けることもできなかった……)
――カリナ・ローズ、0コンマ07前に出て金メダル!ソニア・メリアム、わずかに及ばず銀!メリナ・ローズが体一つ分遅れて銅!ヴァージン・グランフィールド、今回もまたオリンピック5000mのメダルに手が届かず!
きっとそのような実況が、世界標準語のオメガ語でアメジスタに流れたのだろうと、ヴァージンは心の中で悟った。最初にカメラが注目選手を映すので、アメジスタの選手が誰であるかは、中継を見れば分かるはずだ。だからこそ、その名前が「メダルを逃した」という言葉とともに使われることが、本人には悔しくてならなかった。
(私は、アメジスタを背負って戦った……。けれど、アメジスタのみんなを喜ばせることはできなかった……)
故郷に戻ったとき、何度か言われた「形になるもの」は、おそらくオリンピックのメダルに他ならない。だが、たとえタイムが上位3人に食らいつけるものであったとしても、4位では形あるものは手に入らない。
ヴァージンは、確実に持っているはずだったメダルを、右の手のひらでつかみ取ろうとするしぐさを見せた。それはただの空気をつかむだけで、形にすらならなかった。
そこで、ようやく彼女は目線をパソコンに移した。無意識のうちに、電源を押していたようだ。数日前、メールを開けっ放しにしたままパソコンを閉じたおかげで、画面には早速メール一覧が映し出されていた。そこでヴァージンは、手を止めた。
(でも、今から届くメールは、私が走り終えた直後の、アメジスタのみんなからの反応なのかもしれない……)
世界の大舞台で勝負に挑むアメジスタ人の姿を、モニター越しに見た故郷の人々。たとえ、分断された側から見ることができなくても、アメジスタの心の中に結果以上の何かを伝えることができたに違いない。
(少なくとも、勝負に挑むその脚から、何かを感じてくれれば……、この中継は成功と言っていいんだ……)
ヴァージンは、パソコンの前で大きくうなずいた。それから、メールの画面を更新して、最上段に出てきた「アメジスタの人々の声」という件名を力いっぱいクリックした。
ヴァージンは、それから3秒で首を垂れた。
――国の恥!
――あれだけ世界記録、世界記録、とか宣伝して、結局アメジスタは勝てないじゃんかよ!
――こんな面白くないレース、見て損をした!
三つ目のコメントの横には、「モニターを殴りつけた」という言葉まで添えられていた。それから先にも数十行のコメントがあるように見えたが、ヴァージンにはその先を読み進めるだけの気力もなかった。
(国の恥……。アメジスタは勝てない……。世界記録を持っているところで……、私の結果は4位……)
アメジスタの人々は、初めてのスポーツ中継を楽しめず、敗れたヴァージンを非難するだけ――それが現実だった。突き刺さるようなコメントを読むだけで、ヴァージンの心は再び曇っていった。
(アメジスタ人に、私の気持ちは……、私の願いは届かなかった……。届けられなかった……)
世界一貧しいとされる国。そこに、歓声を届けたかった。アメジスタで生まれたヴァージンが、女子で初めて13分台のタイムで優勝し、世界中の人々以上に歓声を上げるはずだった。それらは、心の弱さとともに消えた。
(それどころか、アメジスタの人々は、最初から応援すらしていなかった……)
ついに、ヴァージンの目に涙が溜まった。それでも彼女は、その涙をこぼしたくない、と心にはっきりと誓い、同じ国で生まれたアルデモードから受けたエールを思い出してみた。
――あの悲鳴は、本当は歓声に変えたかったはずのもの。
――だから、残念がる人の多くは、歓声で君を迎えたかった人。
――そう思うとさ、みんな君の仲間なんだよ。大記録に挑む、君の仲間。
だが、それは彼女の慰めにもならなかった。
「嘘だ……!やっぱり、こんなのみんな嘘だ……!みんな、最初から私が勝てると思ってもなかったんだ……!」
涙声でそう言い、ヴァージンはその涙を力いっぱい床にこぼした。アメジスタで応援してくれる人が一人でもいれば、応援や慰めのメッセージが一つでもあれば、そうは思わなかっただろう。だが、これまで故郷に戻るたびに冷たい言葉を浴びせられたヴァージンには、もう耐えられなかった。
「私は……、夢や希望を与えるアスリートのはず……。でも、もうどの国を背負っているのかも分からない……」
涙声は止まらない。マゼラウスすらいない、一人きりの選手村で、彼女は外にもはっきりと分かるような声でそう泣き続けた。次の大会すら申し込んでいない現状、その悲しみを打ち砕くための力もなかった。
そして、ついにヴァージンはそっと、自分に言い聞かせた。
「こんな、バカにされ続けられながら走っても、楽しくない……。走る姿を見るだけでバカにされるのなら、私の……、何度も記録を叩き出してきたこの脚は……、何のためにあるんだろう……」
ヴァージンは、そこまで口にしては首を大きく横に振った。決して本心から発した言葉とは思いたくない、悔し紛れの言葉だった。そして、希望を与えるはずのヴァージン自身が、もはや絶望の殻の中に閉じこもっていた。
(どうしよう……。私、まだ走れなくなったわけじゃないのに……)
おそらく、落ち込んだ気持ちを払拭しない限り、再びレース中に弱気な言葉を思い付いてしまう。それは、思い浮かべた本人が言われなくても分かっていることだった。ヴァージンは、全力で3人を追いかけた両足を少しだけ見て、再び肩を落とした。
「何のための脚なんだろう……」
それを最後に、ヴァージンは数時間立ち上がれなくなった。最後は、椅子に座ったまま寝てしまった。この先どうすればいいのか、その道筋すら決めることもできずに。
それでも、世界最速のアスリートが流した熱い涙は、本人の気付かぬうちに次につながるパワーへと変わっていった。かつてない絶望を味わった彼女に、再び奇跡を起こす日はそう遠くないのだと告げるかのように――。