第49話 アメジスタ人が初めて見たアスリート(5)
2000mという早い段階からメリナに勝負を挑んだメリアム。かつて中距離走で活躍していた時のような力強い走りで、メリアムがメリナを捕えた。20mほど後ろから彼女のスパートを見たヴァージンは、やや目を細める。
(かなりハイペースになっている……。私も、ペースを上げないといけないのかな……)
メリアムのペースは、ラップ66秒台に入ろうかというほどで、その背を追うヴァージンとの差がこれまでよりも急ピッチで広がっていく。それでも、ヴァージンはペースを上げることをためらっていた。
(このままだと、10000mのときのようなハイレベルなレースになりそうだし……、もしこの勝負に勝てば13分台も夢じゃない。でも、私の実力を考えたら……、ここで動き出すことは、まだ早いのかもしれない……!)
ヴァージンは、どこでペースを上げればいいか、ゴールタイムから逆算し始めた。2000mを体感的に5分43秒ほどで通過し、もし4000mで11分25秒を切っていれば、優勝と13分台はほぼ間違いない。そう考えれば、そこまで急激なペースアップは避けてもいいはずだ。
それでも、2400mを過ぎ、徐々にメリナがメリアムの後方に追いやられるのを見たヴァージンは、その足に少しずつ前に出ようとする力を感じた。勝負がしたい。パワーに溢れたその足が、そう訴えかける。
(体が……、前に出ようとしている……。ペースを上げようとしている……。でも、まだ早い……)
それから10秒ほどの短い時間が過ぎ去ったとき、ヴァージンの心に訴えかける声が突然変わった。
――このままじゃ、負ける。
(負ける……。違う、そんなはずはない。世界記録を狙えるペースで、ここまで走れているはず……!)
ヴァージンは、心の中でそう訴えた。ここからペースを上げれば、最後の1周で60秒を切るようなスパートを発揮できなくなってしまうことは、長い間の積み重ねで思い知ったことだ。それでも、彼女の心が叫び始めた「負ける」という3文字は、何度も彼女の脳裏に襲いかかってくる。
(私の心が、もがいている……。何度も跳ね返されている壁に、私の心が自信を持てなくなってしまっている!)
ヴァージンは、そのことをはっきりと思い知った。できれば、レースが終わった後に知りたかった。まして、世界中から注目され、アメジスタの人々からも応援されているはずのこの瞬間で、世界最速の実力を持つトップアスリートが気持ちで負けることなど、考えたくもなかった。
(私は、いまアメジスタを背負って戦っている……。アメジスタが弱くなんかないって……、ダメじゃないって……、みんなに見せてあげたいはず……)
それでも、そう心に叫んだヴァージンに、どこかから堰を切ったように言葉が溢れだした。
――お前な、アメジスタでアスリートを目指すことそのものが、恥なんだよ!
――アスリートなんて、無理!無理!君は、やっぱり実現しえない夢を語ったんだ。
――俺たちに何もしてねぇだろ!形になる物出せよ!じゃなかったら、こんなウェアを、雑巾にしてやる!
――おとなしく夢を捨て、俺たちと同じようにアメジスタのために汗水たらすんだな!
心に浮かんだ言葉は、全てアメジスタ人から浴びせられた「現実」だった。プロになって11年間、ヴァージンはアメジスタに勇気や希望を与えるどころか、彼女の活躍を信じてもらえず、心ない批判を浴びせられていた。
(ダメだ……。このまま潰れてしまいそう……!)
ヴァージンは、ついにその言葉が心をよぎった。足だけを懸命に前に出している彼女は、止まらない言葉にもがき苦しんでいた。アメジスタでもテレビに映し出されていることが、さらに思い出す言葉を増やしていく。
アメジスタから、声援が届かない。
ビルシェイドがスタンドから叫んだ「グォ、レコルドブラッカ!」というアメジスタ語も、全く聞こえない。
それが、アメジスタを背負って戦うヴァージンの姿だった。現実だった。孤独だった。
(それでも、私がアメジスタを背負って戦っていることは、間違いない……)
ヴァージンは、無意識に自らのウェアを見た。濃いブルーと燃えるような赤、そこに金色の光が差す国旗の色だった。たとえ、アメジスタに希望が届かなかったとしても、同じアメジスタ人であることに変わりはなかった。
(たとえみんながそう思っていても……、この国旗でみんなとつながっている……)
彼女の心に、少しずつ勇気が湧いてきた。ここからあと少しだけ勝負に挑むための、勇気だった。
悲しい……。辛い……。でも、走りきってから泣きたい……!
その強い意思を感じたのか、「Vモード」に宿るパワーが一気に高まったように、ヴァージンの足の裏は感じた。わずか1周、2周もがき苦しむ間に、先頭を走るメリアムとの差が50mにまで広がっていたが、ここからペースアップすれば軽く追い抜くことができる。体感的にも、3000mの通過が8分37秒。彼女の挑むべきもう一つの勝負さえ、まだ十分狙える位置にありそうだ。
(戦う……。私は、アメジスタを背負って戦う、世界最速のアスリート……!)
一度はラップ70秒すれすれまで落ちたヴァージンのペースが、3200m付近で再びラップ68秒に跳ね上がった。だが、彼女のスピードアップはそれだけに留まらず、すぐに先頭を走るメリアムと同じラップ67秒ペースにまで上げていった。2000m付近から勝負を挑むことはできなくても、3000mを過ぎてから少しずつスピードを上げて記録を叩き出したことは、これまで何度もある。
(あとは、4000mを過ぎたあたりで、前を行く二人を一気に捕える……。足の力は、十分あるはず……!)
その時だった。ヴァージンのスピードアップに刺激されたように、背後から一人のライバルが同じようにスピードを上げてくることに気付いた。それから数十秒も経たないうちに、ヴァージンは真剣な表情を見せるカリナの姿を、その右に感じた。
(カリナさんが……、前に出ようとしている……)
カリナが大きなストライドでヴァージンの前に出て、さらにスピードを上げる。おそらく、ラップ66秒を上回るペースだろう。勝負の時にだけ見せるカリナの鋭い目は、既にメリアムを捕えようとしていた。
(私も、勝負をしないといけない……!ここから3人を追い抜くだけの力は十分あるはず……!)
3600mを過ぎたあたりで、ヴァージンもカリナのペースを意識しながら、ラストスパートに向けて少しずつ足に力を入れていった。彼女の意思の高まりとともに、シューズを踏み込むときに受け取るパワーがより強くなる。
(ここから、私は本気を見せる……。前を行く3人は、私のラストスパートになんか付いてこられないはず……)
普段と同じように、「65・31・57」のペースを見せられれば、まず前を行く3人を追い抜くことはできる。その自信が、彼女にとって勝負を続ける原動力だった。そして、4000m直前で、彼女はさらにペースを上げた。
(まずは、カリナさんを追い抜いてみせる……!)
ヴァージンは、懸命にカリナの背中に食らいついた。だがヴァージンの視界からカリナの足が消えようとしたとき、カリナも軽くスピードを上げていき、ラップ65秒まで高まったヴァージンを引き離す。カリナも、苦しそうな表情を見せることなく、前を行く二人を追い抜こうとしていた。
(私やカリナさんと、メリアムさんとの距離が……、少しずつ縮まっていく……!)
4400mが近づいた時点で、ヴァージンとメリアムとの差がおよそ50m、メリナと差がおよそ40m。残り1周半でこの二人を何とか捕えられるポジションで、ヴァージンは走っていた。
(カリナさんを追い抜けば……、残り二人とも軽く勝負ができる……!)
ヴァージンは、4400mでさらにペースを上げた。カリナがさらにペースを上げたようには感じられなかったが、それでもカリナとの差が縮まらない。それどころか、カリナが2位メリナの背中に食らいついた。
(カリナさんが……、この段階で前に出ようとしている……)
ヴァージンはそう感じた瞬間、一気にギアをトップまで上げた。ヴァージンを苦しませた心ない言葉の数々を振り切り、目の前のライバル、そして自ら夢見る記録に立ち向かうための力が、彼女の脚から解き放たれた。
(一気にその差を縮めた……!あとは、最後の直線での勝負に懸けるしかない……)
だが、その時ヴァージンの目に映ったのは、カリナがメリナを右から追い抜き、そのままトラックの内側に戻ることなくメリアムまで一気に抜き去る光景だった。ヴァージンは、直線に入った瞬間、カリナよりもさらに外側に出ようとしたが、そのことが逆に距離のロスになってしまった。
(このまま終わりたくない……!)
ヴァージンが心にそう誓った瞬間、全ての勝負が終わった。