第49話 アメジスタ人が初めて見たアスリート(3)
「なかなかハイレベルなレースだったな……」
スタジアムの外周道路に出てきたヴァージンを、マゼラウスが出迎えた。3位のヴァージンでさえ30分03秒73のタイムだったこのレースで、レジナールもヒーストンも自己ベスト、それも29分台を叩き出している。そのことは、マゼラウスに言われなくても、感覚で分かっていた。
「はい。29分台を出すライバルが私の他にも現れました……。もう、29分台で優勝する時代ですね……」
「お前も、狙えたはずだがな……。分かっているように、早めに勝負に出なければ……」
マゼラウスの言葉に、ヴァージンはうなずいた。彼女の肩を優しく叩くマゼラウスの手は、普段よりもずっと暖かく、それは次に待つさらなる大舞台への追い風に変わろうとしていた。
(今日のレースは忘れよう……。いくら振り返ったところで、早く勝負をしすぎたことは、私の右足が一番よく分かっているのだから……)
選手村に戻って、まだ少しだけ重い右足を伸ばしながら、ヴァージンは4日後の5000m決勝を思い浮かべた。ローズ姉妹やメリアムの表情が、次々と湧き上がってくる。
(それに、10000mと違って、5000mは少し早めに勝負を仕掛けても、力尽きることはほとんどない……)
オリンピックは、普段の大会以上にハイレベルな勝負になる。この日の10000mでもはっきりと示された現象は、むしろヴァージンにとって大記録を狙えるチャンスと言ってよかった。ヴァージン以外に14分03秒を切る
自己ベストの選手はいない。もしいるとすれば、一度トレーニングで13分台を出せたと言ったことのあるメリアムくらいだが、ヴァージンと同じようにレースで大記録には至っていない。
(一番近いのは、間違いなく私。周りが速い展開になればなるほど、夢の記録に近づけるのだから)
そう心の中で呟きながら、ヴァージンは貸し出されたパソコンを開く。この数日の間全くメールを覗かなかったが、そろそろアメジスタから応援メッセージが届くはずだ。
(アメジスタで初めて流れる、スポーツ中継……。しかも、アメジスタ出身の私が映っている……。その日が近くなるほど、街の人々の期待は高まっているはず……)
そう思いながら、ヴァージンはメールを開いた。だが、すぐに彼女は目を細めた。
――大型ビジョンの新しい設置場所は、アメジスタ産業開発局のビルの前に決まりました。
――聖堂からは400mほどの距離になりますが、ちょっとした緑地があり、人が集まれるはずです。
――街の人々の多くは、グランフィールド選手のレースがテレビに映ると聞いても、その意味が分かっていない模様です。ただの黒い箱だと言っている人もいるようです。
(テレビ放送のないアメジスタにとって……、映像で流れないぶんには何が起こっているか分からない……)
当然のコメントを、ヴァージンは目の当たりにしてしまった。それは、オメガ国内でビルシェイドがサッカーの試合に釘付けになっていたことからもはっきりと分かる。いざ、その「箱」に同じ国のアスリートが映れば、180度変わるはずだ。
だが、すぐに彼女には重い心配事が浮かんできた。テレビの設置場所だ。
(産業開発局の前……。分断されたほうの人々は、まず中継を見られない……)
聖堂の前であれば、まだロープごしに中継を覗くことができる。だが、そこから400mほど離れるどころか、大きな通りを曲がったところにテレビが設置される以上、どうやっても彼らは中継を見ることができない。
(ビルシェイドさんも、そっち側の人間なのに……。同じアメジスタ人なのに……)
今回の中継が実現するきっかけを作ってくれた、アメジスタの青年ビルシェイド。彼ですら、そのテレビにたどり着けないことに、ヴァージンは何度か首を横に振った。
(少なくとも、中継は、より夢を求めているそっち側の人々に見せた方がいいような気がする……)
ヴァージンは、グローバルキャスから流れてきたそのメールに返信した。その時間帯だけ、グローバルキャスの力で、国民的なイベントが行われるという目的でロープを外して欲しい、と。
だが、この返信をしたことで、逆にヴァージンがグリンシュタインで起きていることに意識を向けてしまうことになった。翌日、選手村近くのトラックで5000mを一度走りきったが、彼女は思うようにスピードに乗れない。
(どうしてだろう……。走りに集中できない……)
マゼラウスがストップウォッチを見せるものの、底に刻まれた数字――14分12秒73――に、ヴァージンは首を横に振るしかなかった。全力を出し切ったと思う体と、未だにレース外のことが気になって仕方がない頭が、二律背反になってしまっていた。
「ヴァージンよ、昨日のことは気にするな。お前には、実力があるはずだ」
「はい。ただ、その他に……、アメジスタの人々が応援してくれるという緊張があるんです……」
ヴァージンは、悩みを言いかけてはそれを伝えきれず、一度目線を下にやった。疲れ切った足を、無意識に前後に動かす。それを見て、マゼラウスが腕を組みヴァージンを見つめる。
「ビルシェイドの時は、逆に追い風になったはずなんだがな……。彼の応援で蘇ったように見えた」
「言われてみれば、そうですね。私は、故郷の言葉に助けられたような気がします」
「それと同じだろ、ヴァージン。実際にお前の走る姿を見て、アメジスタ人が応援しないわけがないはずだ」
マゼラウスがうなずくと、ヴァージンも無意識にうなずく。緊張感は、この時だけ消えていくように思えた。
だが、その翌日に行われた女子5000mの決勝では、同じ組で走ったメリアムやメリナが予選から飛ばし、ともに14分10秒を切るようなタイムでヴァージンを引き離していった。これまでほぼ本気のペースで予選を走ってきたヴァージンにとっては、想像以上に二人が優勝を狙っているようにさえ思えた。
(あと二日で、ベストの状態に戻さなければいけない……)
選手村に戻ったヴァージンは、ドアを閉めた瞬間、その両足を見つめた。これまで何度も世界記録を叩き出してきた強い体が、ヴァージンの目に飛び込んできた。だが、それでも彼女の自信にはつながらなかった。
(あとは、アメジスタの人々が、どう応援してくれるか……。今日こそ、いい知らせがあるはず……)
彼女は、真っ先にメールを開いた。そして、「グローバルキャス」と書かれた差出人だけを選び、そこから届くメールを手当たり次第に開いていった。
――アメジスタ政府にお願いしましたが、ロープの開放はできないとのことでした。
――今回の中継を後押ししてくれたビルシェイドさんのみ、産業開発局に招いて中継を見る許可が出ました。
(やっぱり、アメジスタを一つにすることはできなかった……)
ロープの向こう側の世界に、かつてヴァージンは向き合った。貧しい国家の中で、より貧しい人々が追いやられた世界。死体ですら雑に扱われる、絶望的な空間。そのような地域にこそ、希望は必要であり、その希望の光となるのが、同じ国から世界に挑んだヴァージンの存在であるはずだった。にもかかわらず、映像を全く見ることのできない現実は、変わりそうになかった。
(ビルシェイドさんが……、またロープの向こう側にレースのことを伝えてくれればいいけど……)
フォトブックを手にしたビルシェイドは、おそらく人々にその本を回したはずだ。だが、テレビの中継はその場所にいなければ伝えることすらできない。たとえビルシェイドの口から伝えられたとしても、それは感想でしかない。
(映像がなければ……、私がどれだけ本気で走っているのか分からない……)
だが、ヴァージンにはもう一度最後のお願いを書く力はなかった。それに、返信をすることによって、今度は本番まで尾を引いてしまうことになれば、アメジスタの人々に申し訳ない姿を見せることになってしまう。
(このことについては、あまり考えないでおこう……)
そう言って、ヴァージンは再びメールの一覧に戻った。その時、ほんの数分前の時間で一つのメールが飛び込んできた。これもまた、グローバルキャスからだった。
(アメジスタの人々の声、か……)
だが、ヴァージンはそのように書かれた件名にカーソルを動かした直後、グローバルキャスから中継の話があった数ヵ月前に言われたことを思い出した。
――いろいろな声をお送りしますので、もしレース前に見たら不安になってしまいそうな状態だったら、レースが終わり自分の結果が分かってから見ることをお勧めします。
(レース前に見たら、不安になってしまいそうな状況……)
ヴァージンは、数秒だけ心を落ち着かせようとした。だが、中継のことで不安の残っていた彼女に、むしろ見ないという選択肢は、なかった。そして、開けてしまった。