第6話 ヴァージンにスポンサーがついた日(3)
「その、エージェント契約って、何ですか?」
ヴァージンは、グラティシモに尋ねた。ロッカールームの隣の列では、何人かのアカデミー生が着替えているようだが、ヴァージンは興味のあまり周りを気にする余裕はなかった。
グラティシモは、わずかに白い歯を見せながらヴァージンに教える。
「エージェント契約、というのは、私たちアスリートの代わりになって、いろいろ動いてくれる人のこと」
「代わりに……」
「ほら、私たちはできるだけ長い時間、ワークアウトとかしたいじゃない。でも、スポンサー契約とか、所属先を移すときの契約とか……、それだけでも時間がかかってしまうし、精神的にも参っちゃうじゃない。そんな交渉ごとはエージェントに任せてしまうのよ」
グラティシモは、そう言う間にトレーニングウェアから赤いVネックのシャツに着替える。再びグラティシモが軽く笑うと、ヴァージンはやや首をかしげた。
「たしかに、分かります。でも、私たちの代わりになってくれるエージェントたちのことを、見えないところで気にしないといけない怖さもありますね」
「相手は、交渉のプロよ」
「交渉の……プロ……?」
ヴァージンは、その言葉にわずかながら首を縦に振った。交渉のプロという言葉が、パソコンのスキルすらない自分自身と対比され、ヴァージンは思わず肩身が狭くなった。そして、思わず手を叩いた。
「私、交渉とかするのもパソコン使うのも、まだ全然身に付いてないから……、できれば早くエージェント契約を結びたいです」
「……言うと思った」
ヴァージンの目に映るグラティシモの表情は、どこかにやけて見える。そして、ロッカールームの通路を行ったり来たりしながら、再び口を開いた。
「まだ無名のヴァージンに、エージェント契約を結んでくれる優しい人はいない」
「無名……って!」
そこまで言って息を飲み込むヴァージンに、グラティシモは軽く首を横に振る。
「無名じゃない。少なくとも、街中でヴァージンの名前を口にする人を聞いたことないし」
「そうだけど……、私は絶対に有名になりたい……」
ヴァージンは、時折言葉を詰まらせながら、腹の底で煮えたぎる言葉を一つ一つ丁寧に口にした。
「たしかに、アムスブルグで、私は全然実力を出せなかった。けれど、私はそれでも世界の頂点に立つために、毎日練習を重ねている……」
「ヴァージン……」
「いつか、私の姿を見て、記憶に残してくれる人がいると思う。少なくともそれまで、私はトラックで戦うことを諦めたりしない」
(言い過ぎた……)
ヴァージンは、そこまで言うなり、ロッカールームのベンチに勢いよく腰を落とし、頭を抱えた。自分の置かれた環境と夢が矛盾だらけだった。世界陸上競技会が最後のチャンスと言われながら、その先も走りたい。練習をし続けなければならないのに、イクリプスとの交渉に時間を費やさなければならない。
(本当に、私はどうすればいいんだろう……)
だが、すぐにマゼラウスのあの言葉が甦ってくる。できないと言い続けるわけにもいかなかった。
「ヴァージンらしい。素直ね」
そう言うと、グラティシモは苦笑いして、後ろを向いてロッカールームからいなくなってしまった。
マゼラウスが代わりに想いを打ち込んだメールの返事は、すぐにあった。期日と場所が指定され、ヴァージンはイクリプスの本社へと向かうこととなった。オメガ国内だが、大陸の南のはずれにあるため、飛行機でも往復1日かけなければ行けない距離だった。
セントリック・アカデミーでは決して身に纏うことのない、灰色のスーツをワンルームマンションから身に付ける。そもそも、このスーツすらマゼラウスが内緒でこしらえたもので、寸法もやや合っていないものであったが、初めてといってもいいほど着る機会のないフォーマルなファッションに、ヴァージンは堂々とした足取りでイクリプスの門をくぐった。
セントリック製のウェアやシューズが多く見られるアカデミーとは違い、イクリプスの製品ばかりが飾られる本社の玄関は壮大な雰囲気を醸し出す。全く持って見ず知らずの空間に入ったヴァージンは、全くのアウェーだった。
だが、ヴァージンが候補者控室へと向かう廊下を歩くたびに、嗅ぎ覚えのあるにおいが足元から漂ってくるような気さえした。
(もしかして……)
ヴァージンは、輝く白い床を一歩ずつ踏みしめた。アウェー感が次第に消えていくと同時に、少しずつ嫌な予感がヴァージンを襲った。
「ヴァージン・グランフィールドさんですね……。こちらになります」
ヴァージンは受付で名前を尋ねられると、すぐに青い扉の中へと通された。気の温もりが漂う、いかにも新しいトレーニングルームの匂いでもしてきそうな部屋には、今回のパンフレットに書かれてあった「スゴい強敵に立ち向かう女子アスリート」とは程遠い、黒ネクタイや眼鏡をつけた男性の姿ばかり先に座っていた。
(もしかして、この人たちがエージェントと呼ばれる……)
ヴァージンは、割と遅く到着したので、何人も並んで座っている男たちの前を肩身狭く通らざるを得なかった。だが、7人ほど前を通り過ぎたとき、ヴァージンの目の前に見覚えのある女性の姿が飛び込んできた。
(シェターラ……)
ヴァージンは、思わず目に映った茶髪の少女に軽く手を振った。すると、シェターラははっとして顔をヴァージンに向け、軽く手を振った。他にも、何人かは現役のアスリートぽい人が座っていたが、意外なところで出会ったシェターラの存在に勝る者はなかった。
席に座るなり、ヴァージンはほっと胸をなで下ろす。だが、それは女子長距離走で二人がエントリーされていることに他ならない。どちらかは、必ず切り落とされるということだった。
(シェターラには、負けたくない……)
選考は、面接だけだった。一人ずつ呼ばれる者もあり、また二人まとめて呼ばれる者もあるなど、別室への通され方はランダムだった。エージェントの人たちが意気込んで別室へと向かい、満足げに戻ってくる姿を見て、ヴァージンはその度に身を引き締めた。
だが、他の候補者が呼ばれていくのに対し、ヴァージンとシェターラだけはいっこうに呼ばれる気配がない。気が付くと、二人だけが前列に残されていた。
「ヴァージン……」
シェターラの不安そうな声がヴァージンの耳に響く。緊張の糸が一気に切れるようだ。
「シェターラ……」
部屋には、イクリプスの社員のような人はどこにもいなかった。後ろから、面接の終えた候補者や代理人が見られることを承知で、ヴァージンはシェターラの方に顔を向けた。シェターラは、どこか浮かない表情だった。
「もし、私かヴァージンかを選ばれることになったら、どうしよう」
「それ、私も気にしてた」
シェターラの表情は、一言一言を吐き出すたびに重くなる、トラックで顔を合わせたときには、いかにも勝負師のような表情を見せるシェターラも、状況が状況だけに荷が重そうな顔つきを見せていた。
「でも、シェターラ。それはそれで仕方ないことだと思う。どちらが今、イクリプスのためになるアスリートか私たちにも分からないし」
「そうよね。全然違う勝負だもの」
シェターラは、軽く笑ってみせた。それが、その後の運命を決定づけるかのようだった。
「シュープリマ・シェターラ、ヴァージン・グランフィールド。二人とも、別室に」
「はい」
最後まで残された、二人の若きアスリートが、控室を出て隣の部屋へと通される。そこは、大理石の像や素晴らしい彫刻が飾られた、重い雰囲気のする部屋だった。向かいの机では、ヴァージンより30歳以上歳の離れていそうな5人の男女が二人を見つめている。
(どうしよう……)
部屋に入った瞬間、寝る前に軽く練習していた面接の受け応えのセリフを、ヴァージンはほとんど忘れてしまった。それでも、不安な表情を見せることなく、ヴァージンは椅子に座り、膝に手を付けた。
そして、中央に座る白髪まじりの男性が二人の顔を互い違いに見て、口を開いた。
「全く同じフィールドで戦う君たちをここに呼んだのには、意味がある」
(意味……)
ヴァージンは、軽く横目でシェターラを見る。シェターラも同じ動きをしているようだ。
「何度か大会を見させてもらったが、君たちの噂は聞いている。たった一度出会うだけで、お互いをライバルと思い、それに負けないように練習に取り組む姿……。その熱い想いが、イクリプスには必要なんだ」
「はい……」
ヴァージンは、思わず首を縦に振る。たった一人きりでここにやって来た精神的な疲れは、ヴァージンにはもうなかった。
「だから、8月の世界選手権に向けて、私たちは二人を追い続ける。動画を撮るときだけ、イクリプスのシューズを使って欲しい。そして、同じ日、同じ時間の5000mのタイムを、逐一サイトにアップしていく」
「分かりました」
お互いの口元が震えた。ヴァージンは、まだ何が起こったのか信じられなかった。