第1話 世界を夢見るアメジスタの少女(2)
アスリートになることに釘を刺された数日後、それでもヴァージンは日曜日に自宅から10kmのトレイルランニングを行っていた。ヴァージンの家の周辺には家がほとんどないため、日曜日でも外を歩いている人は少ない。勿論、ランニングをしている若者は皆無である。
そういう中でも、黒のトレーニングシャツを纏ったヴァージンは、普段通りの一周コースを無心で駆け抜ける。足を力強く前に出し、地についた足をバネにまた前に足を伸ばす。13歳にもなると足の長さが長くなり、初めて外を走った頃と比べて足を持ち上げるには力が必要になったが、彼女の動きはむしろ軽々しくなっていると言ってよい。
何と言っても、少なくとも毎日5km、多い時で1日20kmを全力で駆け抜ける少女である。ヴァージンの力強い足は、日を追うごとに鍛えられていった。
(あれ……?)
ちょうど右手に雑木林の見える場所に差し掛かった頃、ヴァージンは思わずスピードを緩めた。目の前から、サングラスをかけた一人の青年が、白いトレーニングシャツと黒のトレーニングパンツに身を包み、正面から走ってくる。
(久しぶりに見た。家の近くで走ってる人……)
ヴァージンがそう思い浮かんでいるうちに、青年は風を切る勢いで彼女の横を駆け抜けた。ヴァージンは後ろを振り返ると、その背中が伸びきっており、どこかプロの風格が漂ってきた。
(あの人、何をやってるんだろう……)
ヴァージンは、一度だけ首を強く横に振り、再びスピードを上げた。雑木林の中でコース中一番の上り坂を迎え、彼女は全身に力を入れた。だが、その青年の姿が頭から全く離れなかった。
「はぁ……」
ヴァージンは自宅の前まで走り切り、急いでドアを開けて秒針つきの壁時計を見る。37分12秒。途中から本気で走らなかったことの何よりの証だ。普段なら力を出し切ったと感じるはずの体も、この日はもう一周走れるくらいの力を温存しているように感じた。
(ダメだった……、私にしては遅すぎる……)
こんなタイムでは、アスリートとして生きることを本当に諦めなければならないくらいだ。ヴァージンは、再び外に出て、スタートした場所で中腰になった。
(もう一度走ろうかな……)
ヴァージンはため息をつき、もう一度立ち上がって膝を前後にピンと伸ばした。すると、膝に力を入れる彼女の目に白いトレーニングシャツを着た青年の姿が、ヴァージンの目に映る。先程の青年だ。
ヴァージンは、思わず体の動きを止め、青年の姿に釘付けになる。青年は、徐々にこちらに迫ってくる。
(声を掛けようかな……。でも、声を掛けて本気でトレーニングしてたら悪いし……)
自分だって、走っているときに横から話しかけられるのは気分が悪い。やられて嫌なことをするな、とジョージが言っている意味が少しずつ分かってきた13歳の少女は、もどかしさを全身に出し彼女の目は青年の足を目で追った。
しかし、青年の近づいてくるスピードは次第にゆっくりになり、ヴァージンの手が届く距離まで来ると歩き出してしまった。ヴァージンの緊張の糸が切れた。
「あ……、あの……」
「あぁ、さっきの君じゃないか。一目惚れしたのかい」
青年は、滑らかな動作でサングラスを取る。無造作に束ねられた茶色の長髪が眩しい青年の素顔は、途端にヴァージンの目を釘付けにした。甘いマスクに、柔らかい唇。親近感すら感じられる優しい視線。そして、白のトレーニングシャツのラインが形作る、美しく見える肉体。
「い……いえ、そんなことはありません。でも、こんなところで走ってる人を、何年かぶりに見て……、ちょっと驚いたんです」
ヴァージンの口は、普段になくしどろもどろになっていた。青年は、そんな彼女に笑顔を向ける。
「僕もだよ。何と言っても、もうアメジスタでスポーツやってる人なんてほとんどいないからね」
「そんなに珍しいんですか……」
「あぁ。もう……何だろう。してるのがバカみたいな時代だから、誰もやらない。むしろ、君みたいな人を見ると、居場所を見つけたなって思う」
ようやく青年の呼吸も整ってきたようで、彼は腕を後ろに組んでピンと伸ばしたり、膝を屈伸させたりしながらヴァージンと話していた。そのしぐさが、ヴァージンをますます釘付けにした。
そして、ヴァージンは尋ねた。
「あの……、もしかしてアスリートですか?」
ヴァージンが言うと、青年は彼女にフッと笑って顔をヴァージンに向けた。
「そう見えるよね。言う通り、僕はアスリートだよ」
「本当ですか……!私も、目指してるんです。世界で戦うアスリートを」
ヴァージンの目が、咄嗟に輝いた。もし彼が世界を相手に戦っている人であれば、あの時ジョージが言った常識を覆すことができる。
しかし、青年はその言葉を聞いた途端に、突然表情から元気が消えていった。どこか表情が後ろめたい。
「……僕みたいなことになるよ、君も」
「えっ……。どうしてですか?」
ヴァージンは、目を丸くして青年に食らいつく。
「本当に聞きたい?」
「ぜ、ぜひ……」
「分かった。そこまで聞きたいのなら、君は本気で世界を目指してるのかも知れないね」
そう言うと、青年は少し笑ってみせた。
「僕は、子供の頃からずっとサッカーをやってたんだ」
「サッカー……。てっきり、私と同じ陸上かと思いました」
ヴァージンがそう言うと、青年はトレーニングパンツの膝を上げてみせた。青年の足を見るとやはり太く、とくに足首の部分が相当鍛えられているようにヴァージンには感じられた。
「それは違うよ。僕は、外国のサッカー選手に憧れてサッカーを始めたんだから」
「小さい時からすごかったんですか?」
「あぁ。僕は、学校でも部活の先輩が怪我するくらい、強いシュートを放ってた。16歳で中等学校からそのままアメジスタ代表になったさ」
「アメジスタ代表!それ、すごいことです!」
ヴァージンは、思わず手を叩いて青年の表情を伺う。しかし、青年の甘い顔に映る表情が次第に落ち込んでいくのを見て、ヴァージンは開いた口を閉ざすことができなくなった。
「でも僕は、所詮そこまでだった」
「そこまで……?」
「うん、そこまで。だって、アメジスタのチームが弱すぎるんだ……!」
サッカーのアメジスタ代表は、世界ランキングが183か国中183位。もう10年以上最下位に沈んでいる。世界の様々な国で試合を申し込もうとすると、返される言葉は決まって「アメジスタとは試合にならない」であった。
アメジスタ代表に数少ない試合の機会が与えられたとしても、その試合は最初から一方的な展開だった。パスがうまくつながらず、ボールがハーフウェイラインを越えることすら、90分で一回あるかないかだった。点を取ることができないまま終える試合が何試合続いたかも分からないほどだ。
そして、二年前に世界ランキング181位のウォーデルランドと戦って、0-38という結果に終わった時、ピッチの上でアメジスタ代表は屈辱的な一言を言われてしまった。
「お前たちのチームは、存在する価値もない」
その言葉に、多くの選手の心が折れ、次々とアメジスタ代表を去っていった。そして代表は空中分解、以来アメジスタでボールを蹴る姿を見ることはなくなった。
「僕のところまで……、パスが回ってこないんだよ!」
名ばかりのフォワードは、思わず唇を噛みしめた。青年の実力だけが、チームの中で突出していたのだった。ごくまれにPKになったとき、彼はほぼ百発百中でゴールネットを揺らした。しかし、アメジスタが点を取ることができたのは、ほぼその時だけだった。
「僕がどんなに凄くても、チームプレーじゃ試合に勝てないんだよ!一人じゃ……支えられない……」
「かわいそう……」
青年の悲痛な訴えに、ヴァージンの胸を打つ鼓動は次第に速くなり、目にはいっぱいの涙を浮かべていた。
「……分かってくれるんだ、君」
「うん。だって……頑張ってるのに結果が出ないって、すごく悲しいことじゃないですか」
「……だね」
そう言うと、青年はヴァージンの肩を取り、そのままやや膝を屈めて彼女を見上げた。
「君はもう、小さなアスリートだよ。その気持ちを分かってくれるなら」
「ありがとう……、ございます」
ヴァージンの目から落ちた涙は、青年の輝く茶髪を潤していった。
「じゃあ、僕はこのへんで。またどこかで会えたらいいなって思う」
青年は、スッと立ち上がり一度うなずいた。
「あの……、すいません。お名前だけでも……聞かせて下さい」
「僕?フェリシオ・アルデモードって言うんだ。というより、むしろこれから輝く君の名前を知りたい」
アルデモードの輝く目は、幼いヴァージンの姿を優しく包み込んでいた。
「ヴァージン・グランフィールドって言います」
「いつか、その名前が世界じゅうに知れわたるといいね」
「うん」
そう言って、アルデモードは来た道を引き返すように走り出した。瞬間、ヴァージンは「やった」と小さく叫んだ。