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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
たどり着けない場所なんてない
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第49話 アメジスタ人が初めて見たアスリート(1)

 ヴァージンが、そしてアメジスタの人々が待ち望んでいるであろうオリンピックが、セントアイランド共和国の中心都市、シーエンで始まろうとしていた。今回もまた、組織委員会のない国に与えられる特例枠としての参加ではあるが、アメジスタの代表として、ただ一人世界中のアスリートが集う舞台に立つ。

 ヴァージンは、開会式の4日前にはセントアイランドの選手村に入り、隣接するトラックで日夜練習を重ねていた。同じ便で移動したマゼラウスが、5000mの走り込みを追えたヴァージンを眺めては、何度も首を縦に振る。

「大きなレースで崩れることの多いお前にしては、完璧すぎる出来だな」

 そう言って、マゼラウスはヴァージンにストップウォッチを見せる。そこに刻まれていた数字は、14分02秒83。足の裏にそこまで負担がかかっていないように思えたヴァージンは、自信を持ってうなずいた。

「当日まで崩れなければ、間違いなくあの記録を出すことができます……」

 ヴァージンは、5000m決勝が行われる日までの残り日数を、手で数えてみせた。彼女は、故郷の人々が見つめる前での大記録は、今回のオリンピックで100%達成できるという実感に溢れていたのだった。


 その日のトレーニングを終えて、選手村のヴァージンの部屋に戻ると、最初に荷物を置いたときは気付かなかった、ノートのようなサイズの物が机の上に置かれていた。彼女は、それをそっと手に取り、その重さからそれが貸し出しのパソコンであることに気付いた。

(最近の選手村は、選手個人に貸し出しのパソコンを用意してくれるんだ……)

 勿論、アメジスタにはないはずのものだ。だが、少なくとも大学生の頃に使い慣れてから、パソコンで様々なやりとりをするようになった彼女には、たとえオリンピック期間中であっても必要と言わざるを得ない物だった。

 ヴァージンは、自分のアカウントでログインし、高層マンションの中で見慣れた画面が立ち上がると、すぐにメールボタンをクリックした。

(いつも、大会の時には帰るまで応援メッセージを読めなかったから、直前まで応援を読めるのは嬉しい)

 だが、メールを開いた瞬間、ヴァージンの目には一番上に書かれていた「グローバルキャス」の文字しか見えなくなった。今回、アメジスタの聖堂前に置かれたテレビで、女子5000m決勝を中継するスポーツチャンネルだ。

(そう言えば……、そろそろアメジスタにスタッフが行っているのかな……)

 ヴァージンは、「アメジスタからの声」と書かれた件名にカーソルを合わせて、クリックした。たしか、メッセージが届くのは中継の数日前だったはずだが、意外にもそのメッセージが届くのが早かったようだ。

 だが、ヴァージンは次の瞬間、唇が徐々にふさがっていくのを感じるしかなかった。


――グリンシュタイン大聖堂の尖塔のひとつが崩れ、広場に散らばっています。本来テレビを置こうとした場所は立ち入り禁止になり、いま政府に代わりの設置場所を検討して頂いているところです。


(うそ……)

 ヴァージンの記憶にある限り何百年も前から現存する建造物だった聖堂が、このタイミングで崩れ落ちた。

(どうして、アメジスタを元気にしようとしている今、その場所が崩れてしまう……)

 間違いなく、長いこと補修の予算が出せなかったことが原因のはずだ。だが、グリンシュタインでは数少ない、多くの人々が集まれる場所――分断された地域からも見ることのできるはずの場所――であっただけに、その場所を知っている彼女にとっての衝撃は、あまりにも大きかった。

 さらにメールには、アメジスタの人々の声として、いくつかのメッセージが紹介されていた。


――これは、目の前にアメジスタ初のテレビを置かれる聖堂の、怒りや祟りなのかも知れない。

――できれば、聖堂から遠いところに設置した方がいいのかも知れない。


(アメジスタの人々が、テレビそのものを批判しているように見える……)

 そのメッセージを見たくはなかった、と思いながらヴァージンは画面から目を遠ざけた。他にもいくつかメッセージが見えるが、ここは思い切ってメール画面そのものを切ることにした。

(忘れよう……。きっと、今は、新たな設置場所で、私がアメジスタを立ち直らせることが重要だと思う……)

 ヴァージンは、何度も首を横に振って、ついにパソコンそのものを閉じた。


 多くの出場選手が、国別に隊列を組んで行進を行う開会式。今回ほんの数十分だけの中継となるアメジスタを除く、世界じゅうの全ての国にその模様が映像で届けられる。その中で、アメジスタの国旗を手に、ヴァージンはたった一人メイントラックを歩く。それでも、アメジスタからただ一人参加するその女子は、世界で最も5000mと10000mを走る脚を携える、世界の誰もがその名を知るトップアスリートだった。

(いま、中継で移っていなくても……、今日からオリンピックが始まることはきっと分かっているはず……。もちろん、私の走る時間が、アメジスタで何日の何時頃からであるかも……、みんな分かっていると信じる……)

 トラックの直線を歩き終えたヴァージンは、その先のスタンドに掲げられた巨大ビジョンをじっと見ていた。ヴァージンの姿を映す時間はわずかでも、そこに映る映像に彼女は一つの手がかりを感じていた。


 オリンピックでの陸上競技は、今回もまた後半に行われる。レースの本番までの間に、彼女には十分すぎる時間があった。先に決勝の行われる女子10000mに向け、ほぼ毎日のように選手村の近くで10000mのタイムトライアルを行い、何度か29分台を叩き出した。29分41秒32の世界記録を軽く乗り越えられるほどではないが、ほんのわずか更新できそうな予感が、彼女には漂っていた。

(10000mは……、去年だって勝っていいはずのレース……。たとえ去年の世界競技会から実戦経験がなかったとしても、今シーズン29分台を出せたライバルはいない。だから、私はこのレースを思いのまま走れるはず)

 選手村に戻ったヴァージンは、10000mの出場選手を広げた。18人による一発決勝だが、その中でこれまでヴァージンと争ってきた強豪は、ヒーストン、エクスタリア、それに昨年の世界競技会で現れた若きライバル、マデラ・レジナール。名前だけを見る限り、そういったところだ。

(でも、その中で最も速く走れるのは……、私のはず……)

 ヴァージンは、出場選手一覧を閉じると、右の拳に力を入れた。その拳に込められた力に、彼女は勝利すら確信していた。


 10000m決勝の行われる日、ヴァージンはレースの3時間以上も前に受付を済ませ、マゼラウスが来る前にサブトラックでウォーミングアップを重ねた。すると、サブトラックの反対側に見覚えのあるサーモンピンクの神が揺らいでいるのが飛び込んできた。

(カリナさんだ……。まだ、今日は5000mの予選じゃないはずなのに……)

 ヴァージンは、ウォーミングアップの手を止め、カリナが軽く走り出す姿を遠目で見る。すると、その横に一人のカメラマンがその姿を追っていた。グローバルキャスではなく、オメガ国内のテレビ局のようだ。

(カリナさんは、オメガ代表……。オメガでは、去年の世界競技会からカリナさんの知名度が上がっているし……、仕方ないのかもしれないけれど……)

 それでも、ヴァージンはその様子に首を縦には振れなかった。自己ベストだけを考えれば、ヴァージンのほうがずっと上だからだ。しかも、カリナ自身も昨年の世界競技会で優勝してから、この日まで一度も優勝を果たせていないし、姉メリナに追いつけないことも多々あるほどだった。

(グローバルキャスは、どの選手を注目するんだろう……。少なくとも、アメジスタに流すことを考えれば、去年のようにローズ姉妹だけを扱うようなことは、絶対にしないはず……)

 そう心の中で叫び、ヴァージンはカリナから目を反らした。あと0秒09で足踏みを続けている壁を破れば、間違いなく注目を取り戻せる。そう信じて。


「女子10000mに出場される選手の皆さんは、こちらに集まってください」

 係員の声とともに動き出す、黄色と赤に彩られたファイランド代表のウェア。レジナールが、ヴァージンの目には去年よりも大きく見えた。たった一つのレースで10000mの有名選手に駆け上がった彼女を、自己ベストではるかに上回るヴァージンがじっと見つめる。

(今日、私はレジナールさんを破って、アメジスタに金メダルを持ち帰る……!)

 風のない、穏やかな空気のスタジアム。ヴァージンたちの横をスターターがゆっくりと過ぎ去っていき、スタートの位置で止まった。

「On Your Marks……」

 ヴァージンにとって、大舞台の最初の勝負となる10000m決勝。その号砲が、間もなく鳴り響こうとしていた。

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