第48話 競技生活との両立(6)
(誰からの電話だろう……)
発信者の名前が出てこない電話にヴァージンは戸惑ったが、少しでも部屋の張り詰めた空気を消し去ろうとして、電話を取った。すると、一度はどこかで聞いたことがありそうな声が、ヴァージンの耳元で響いた。
「グローバルキャスの副営業部長、ディック・ディファーソンと申します」
(ディック・ディファーソン……、グローバルキャス……。えっ……)
二つの固有名詞を聞いたとき、ヴァージンはそれまでの不安を心の中から消し去った。首を何度か横に振って、それから目をこすった。ともに電話位の相手には見えない動作だが、無意識のうちに彼女は動いていた。
「ヴァージン・グランフィールド選手でよろしいでしょうか……」
「はい、私です。すごく久しぶりに電話がかかってきたので、何だろうと思って、驚いてしまいました」
「まぁ、ずっと連絡を取っていませんでしたからね……。でも、今日は前にお約束したことについてですので、どうしても直接お話しようと思いまして、電話をしたのですよ」
「前に、お約束したこと……。もしかして、アメジスタ向けの中継ですか」
ヴァージンの脳裏で、グローバルキャスとアメジスタの二つが結びついたとき、彼女は思わず電話を持つ手を震わせた。思わず、何度か聞き返そうとしたが、すぐにディファーソンが話し出した。
「そうですね。今度のオリンピック、これまで一度もスポーツの中継を見たことのないアメジスタの人々にも、ぜひご覧になって欲しいと、私はあの時考えました。それから、アメジスタの政府とも、ずっとやり取りを交わしまして……、1台だけ、それもほんの30分くらいの中継ですが、実現することになりました」
「本当ですか……!アメジスタの街角で、オリンピックの中継が流れるわけですね……」
「そういうことになります。勿論、そこで流す種目は……、女子5000m決勝です」
「私が出る種目ですね……!」
ヴァージンは、女子5000mという言葉を聞いた瞬間、思わずその声が裏返った。一方、ディファーソンは、彼女の慌てぶりには同調しないとばかりに、さらに言葉を続けた。
「アメジスタの政府には、最初17日間のオリンピック中継を全て流すように働きかけましたが、アメジスタではどの競技も世界一レベルが低いと言われてしまい……、次々断られて、最後はアメジスタ出身の選手が出るからという理由だけで、女子5000mだけは中継していいということになったんです」
「ありがとうございます……!アメジスタにとって、そもそも初めてのテレビですから……、アメジスタで生まれた私がテレビに映っているのを見るだけで、盛り上がると思います」
「間違いなく、盛り上がるでしょうね。そこで、大記録が出れば、それだけでアメジスタ人は喜びますよ」
「本当に、あの瞬間に13分台を出せたらどれだけ素晴らしいことかって思います」
ヴァージンは、そう言うと軽く笑ってみせた。電話の向こうにいるディファーソンも、それに合わせて笑う。それからディファーソンは、ヴァージンに告げた。
「今回、窓口はグランフィールド選手自身に変わりましたので、中継の数日前から、現地の声をメールでお届けします。せっかくネットの回線が繋がっていますので、アメジスタの人々の声をお届けできればと思います」
「そういうこともやって頂けるんですね」
「えぇ。ただ……、いろいろな声をお送りしますので、もしレース前に見たら不安になってしまいそうな状態だったら、レースが終わり自分の結果が分かってから見ることをお勧めします」
「分かりました。でも、さすがに3ヵ月も先の話なら、私のタイムも元通りになっていると思います!」
ヴァージンは、そうディファーソンに告げた。その後、今回の中継の詳細を後日郵送するとディファーソンに言われ、ほどなくして電話は切れた。
(中継……!ついに、アメジスタのみんなに、私の走っている姿を届けることができる……!)
電話を切ったヴァージンは、思わずその場で大きく手を叩いた。全ての窓口を引き受けるようにならなければ、こうしてグローバルキャスの担当者から直接告げられることがなかっただけに、彼女の体からそれまでの精神的な疲れが消えていくようだった。
ヴァージンの故郷アメジスタでは、これまでスポーツの中継どころかテレビ放送すら見ることができなかった。それが、アメジスタの選手が最も活躍する瞬間だけではあるが、遠く離れたオリンピック会場の映像をリアルタイムに届けることができるのだ。
おそらく、あの大聖堂の前にテレビを置き、衛星を使ってアメジスタまで放送を届けることになるのだろうか。様々なことを思いめぐらせるうちに、むしろ早くオリンピックに5000m決勝の日になって欲しいという、嬉しい焦りが彼女の中で溢れ始めていた。
(よし、これでオリンピックに向けて頑張れる力が湧いてきた……!アメジスタのみんなが見ている中で、13分台を叩き出せば、その瞬間にアメジスタのみんなが、アメジスタ国民であることを誇れると思う……)
ヴァージンは、クローゼットを開けて、アメジスタの国旗の色が使われたレーシングウェアを手に取った。エクスパフォーマが特注で作ってくれたウェアで、そこにはアメジスタのドクタール博士が開発した超軽量ポリエステルもしっかりと使われている。アメジスタという、世界一貧しいとされる国を背負って戦う姿を、そこに暮らす多くの人に焼き付けたい。彼女は、はっきりとそう誓った。
翌日、マゼラウスと約束した時間にエクスパフォーマのトレーニングセンターに入ると、マゼラウスは穏やかな表情でヴァージンを出迎えた。衛星中継の話をヴァージンから伝えたわけでもないのに、その話を知っているかのような目を、マゼラウスがしているようだった。
彼女は、マゼラウスの前に立つと、すぐに頭を下げた。
「この前は、身の程知らずの強がりを言って、すみませんでした。やっぱり私には、代理人が必要です……」
「いいんだ、ヴァージン。それがお前の考えだということは、私にもはっきり伝わった」
マゼラウスは、ヴァージンの背中を軽く叩き、カフェでの険しい顔を見せる素振りすらしなかった。
「でも……、せっかくコーチが代理人を当たってくれたのに、お礼の一言も言えなかったです……」
「それは、お前がお礼を言う話じゃないし、逆に私を責めなかっただけでも十分だと思う。それに、お前だってもう、立派な大人だからな。それなりの考えは、あっておかしくはない」
「立派な大人……。でも、まだコーチには全く及びません」
「それは人生経験の差だろうが、な。深く考えるな。27歳のお前は、私が最初に見た16歳の少女とは全く違う。今や、世界の誰もが知るアスリートとして生きるお前は、一人の人間だ。立派な人間だ」
再び、マゼラウスの温かい手が彼女の背中を叩いた。ほぼ同時に、ヴァージンはかすかにうなずいた。
「本当に、そうですね……」
「だから、まだ破ることのできない目標に向かって突き進め。それが、お前に期待されていることだ」
マゼラウスのうなずく姿が、ヴァージンの目にはっきりと映った。その顔は、あまりにも大きかった。
オリンピックまでに残された3ヵ月近くで、ヴァージンはそれまでの不振が嘘であるかのように、トレーニングのタイムトライアルから、世界記録に限りない近い数字を叩き出すようになった。14分05秒を切るのは当たり前で、14分03秒、一度だけ14分02秒台で走り切ることもあった。7月のサウザンドシティ選手権では、5月に競り負けたメリアムに大差をつけて優勝し、そのタイム14分01秒89に飛び交ったため息さえ、レース後の彼女に苦痛を与えるものではなくなっていた。
(次のレース、オリンピックの大舞台で、女子初の13分台を出して欲しい……。もしかしたら、みんなそう思っているのかも知れない……)
サウザンドシティのスタジアムに集った人々に、大きく手を振るヴァージンの目には、彼らがみな温かな目で彼女を見ているように思えた。その瞬間に、ヴァージンはアルデモードが言っていた言葉を思い出すのだった。
――あの悲鳴は、本当は歓声に変えたかったはずのもの。
――だから、残念がる人の多くは、歓声で君を迎えたかった人。
――そう思うとさ、みんな君の仲間なんだよ。大記録に挑む、君の仲間。
(みんな、私を後押ししている。決して、敵じゃないのかも知れない……。みんな、私の記録達成を待っているはずなのだから……)
ヴァージンは、トラックを出る時にもう一度だけ、スタンドを振り返った。
今にも、13分台という数字を出せそうな風が、スタジアムになびいていた。
夢の舞台が終わったとき、それらが全て幻になろうとは、この時の彼女には思えるはずもなかった。