第48話 競技生活との両立(5)
5月になり、ヴァージン自身がエントリーしたネルスでのレース当日になった。だが、レース以外のことで多忙だった彼女に、当日に向けて体の状態を万全にすることはできなかった。いや、万全な状態にできていると信じて立った、レース前のサブトラックでさえ、体が少し重く感じられたほどだ。
(今更、スタートしないで「DNS」と書かれるのは辛いし、夢の記録を狙うチャンスが1回減ってしまう……)
ヴァージンのレーススケジュールも、ここ数年では考えられないほど間隔が開いており、ここを逃せば次はサウザンドシティまでない。彼女は、何とかスタートラインに立ち、普段通りを意識して走り始めた。
だが、5000mを走り終えた彼女に待っていたのは、わずかに届かなかったメリアムの背中と、無数のため息だった。タイムも14分21秒88。自己ベストを考えれば、最悪と言っていい走りだった。
「競技生活に集中できません」
レースの後、ヴァージンは自らマゼラウスをカフェに誘った。マゼラウスは、初めて誘われたことに戸惑いの表情を見せるも、テーブルに着いた直後のヴァージンの一言で、その戸惑いが吹き飛んでしまった。
マゼラウスは、すぐに表情を険しくさせ、ヴァージンをじっと見つめた。彼からは、無意識にため息が出た。
「ヴァージン……。ついに、音を上げたか……」
「はい。エクスパフォーマとのやり取りもそうですし、スケジュール管理もそうです。オリンピックをまたアメジスタ代表として特別枠を申請しなきゃいけないのもありますし……、それ以上に……」
そこでヴァージンは言葉を詰まらせた。マゼラウスは、その隙に頭をヴァージンに近づける。
「それ以上に、何かあったのか……。言ってみろ」
「はい。社会人として、やってはいけないことをしました……。去年の税金の申告忘れです……」
「なるほどな……。今まで、そういうのもガルディエールがやってたものな……」
「難しいです。結局、高いお金を払って、税務コンシェルジュが5日間手伝ってくれました……」
ヴァージンは、声を少しずつ大きくしてマゼラウスに伝える。最後に、意識的に声を落とすものの、カフェにいた何人かの客がヴァージンを見つめていることに気付いたのは、その後だった。
マゼラウスが、やや唸るような声を出し、腕を組む。
「そういうところまで、本来は一人でやらないといけないところだな。だが、周りがお前に求めているのは、より速く、5000mや10000mを駆け抜けることだ。決して、様々な業務に強い人間になることじゃない」
「そうですよね……。だからこそ、私はこのままじゃいけないって、ずっと思ってるんです……」
ヴァージンはカフェのテーブルに、ほぼ同時に両手をつく。そして、マゼラウスに向かって前のめりになった。
「コーチ。あの話はどうなったんですか」
「あの話って……、この流れで話すということは、おそらくあのことだろうとは思うが……」
「新しい代理人の話です。あの後、どなたかに声を掛けたんですか……」
すると、マゼラウスは申し訳なさそうに首を横に振った。同時に、前のめりになって話していたヴァージンの体が、力なく元に戻っていった。
「コーチ、もしかして、誰にも声を掛けていないってことですか……」
「ヴァージン。お前は、そこまで私を信じてないのか。10年以上も、お前を後ろから支えているのに」
「いえ……。そういうつもりではなかったです……」
ヴァージンが軽く頭を下げると、マゼラウスはやや重そうに口を開いた。
「おそらく、今のお前はいろいろなことに苛立っているように見える。毎日が不安で仕方がない。そんな中でも、記録を出さなければいけないと思いながら、走っているのかも知れないな」
「いえ……。まだそこまでには至っていません……」
「ならよかった」
息をついたマゼラウスに、ヴァージンは一度うなずいた。だが、その直後にマゼラウスは再び口を開いた。
「……とりあえず、お前に結果だけ伝えておく。全滅だ」
(全滅って……、まさか……、私が思っていたのと逆の展開になってしまった……)
ヴァージンの口が、開いたままいっこうに閉じない。次第に、体も震え上がってきた。
「私はこの半年ほど、オメガじゅうの様々なエージェントに当たってみた。その誰もが、お前のことを知っていて、素晴らしい選手だと言う。だが、ガルディエールが見放したのと違う理由で、みな代理人になるのを断った」
「どういった理由ですか……」
「今のお前自身の相場が、あまりにも高すぎるということだ。女子の長距離では、もはや最高ランクの選手になっている。そんなお前を見ることに、誰もが力足らずと言う」
そう言って、マゼラウスはもう一度首を横に振る。やや下を向いたマゼラウスの目が、ヴァージンには泣いているように見えた。
「ヴァージン・グランフィールドという、世界中で有名なトップ選手に代理人がいないことは、誰も望んでいない。誰かが代理人として面倒見て欲しいと、みな思っている。だが、その誰かに、誰もがなろうとしない」
「そんな……。そんなの、あんまりすぎます……」
ヴァージンは、体を震わせながら、再びマゼラウスに向かって体を突き出した。その声ですら、すすり泣くような声になっており、ヴァージンの目の前が時折真っ白になるのさえ分かった。
「悪いが、それが現実だ……。お前が、何度も世界記録を更新し続けたアスリートだからこその、悲劇だ」
「コーチ。そういうおかしなことになった選手って、他にいるんですか……」
「10年くらい前に、たしか超一流の水泳選手で、急死した代理人の後が空白になってしまった男子がいた。1年ほど、スポンサーとの様々なやり取りに苦しめられ、結局その彼は、『こんなことになるんだったら……』と言って、競技人生を終えてしまった」
マゼラウスの目は、さらに下を向くようになった。もはや、ヴァージンの表情を見ることさえもできなくなりそうだった。そのような中で、ヴァージンは首を小さく縦に振った。
「そんな、残念過ぎるアスリートになんて、なりたくないです……」
「私だって、お前にその道を辿って欲しくない。あと少しで、13分台を叩き出せるはずだからな……。誰もが、お前に夢を抱いている中で、体がどこも故障していないのにトラックを去るなんて、あってはいけない」
「私だって……、それは一番望みたくない道です……。でも……」
ヴァージンは、そこで言葉を止めてしまった。新しい代理人を見つけるための方策が、全く見つからない中、ヴァージンはそれ以上この問題に首を突っ込むことができなくなってしまった。
(最終的には、私自身の問題になってしまうはずなのに……。競技生活に集中できなくなっているのは、間違いじゃないはずなのに……!)
ヴァージンは、カフェの椅子からほんの少しだけ立ち上がり、再び腰を下ろした。その動きに気付いたマゼラウスが、ようやく体を起こして彼女の様子を伺っていた。
その中で、ヴァージンはやや力強い声で、こう告げた。
「私は、それでもトラックに立ち続け、世界記録を更新し続けます……!そして、私の代理人になりたくないと言ったみんなに……、代理人にならなかったことを後悔させてみせます!」
(言ってしまった……。それが理想のはずなのに……、ずっと感情を抑えていたのに……)
ヴァージンは、その言葉とは裏腹に、力なく立ち上がってガックリと首を垂れた。もはや、マゼラウスの表情を伺うことすらできなかった。ただ一言、「もう帰ります」とだけ言い残し、マゼラウスに背中を見せた。
マゼラウスが、ヴァージンを引き留めることはなかった。
(私は、いつまで代理人なしの競技生活を続けなければいけないんだろう……)
高層マンションに戻って、天井を見上げると、忘れていたはずの涙がようやくこぼれてきた。マゼラウスの口から新しい代理人の名前が告げられると思って、マゼラウスを誘ったにもかかわらず、逆に彼女のほうがダメージを負ってしまったのだった。
(私が欲しいのは、もう一人の自分……。いや、自分を支えてくれるはずの存在……)
それが誰であるかも分からないまま、ヴァージンは何度も心でその仕事の名を叫んだ。それでも、ガルディエールのいなくなった後、誰も付きたがらない現状は何一つ変わらなかった。
(早く、次の代理人を見つけないと……、あの時コーチの言っていた水泳選手のように、仕事のし過ぎで、自分自身に限界がきてしまう……)
テーブルの上には、出さなければならない書類が、いくつも散らかっていた。もはや、ヴァージン一人の力では、彼女がベストコンディションで走る環境が遠くなりつつあった。
その時、もやもやした気持ちを吹き飛ばすかのような電話が、けたたましく鳴った。