第48話 競技生活との両立(4)
結局、それから数日経って、ヴァージンは次のレースを5月のネルスに決め、エントリーを送った。その次は7月のサウザンドシティ。いずれもオメガ国内でのレースにとどめた。
(オリンピック前に2回しか走れないけど……、移動の手配とか考えれば、次の代理人が決まるまでは無理できないのかも知れない……。せっかく、少しずつタイムが上向いてくるようになったわけだし)
しかし、それから数ヵ月の間、ヴァージンにはこれまで以上に多くの問い合わせが入り込んできた。エクスパフォーマのイベント関係の連絡もたしかに多かったが、特に4月に入ってから、税徴収局と思われる電話番号から何度も不在着信がかかってくるようになってきた。トレーニングを終えた後に電話を掛けても、平日の昼間にしかつながらない役所相手に、ヴァージンの生活リズムが通じるわけもなかった。
(何の電話だろう……。でも、税徴収局ということは、何か問題でも起こしたのかも知れない……)
ヴァージンは、昨年の賞金だけで考えれば40万リアだった。だが、エクスパフォーマからは年当たり250万リアの契約金が入ってきている。そのあたりの高額な収入に目をつけられたのではないかと、役所に連絡が付くまでの間考えるようになっていた。
だが、数日経ってようやく税徴収局につながった電話は、一言あっさりとこう言われるだけだった。
「昨年の分の確定申告がされていないようですが、こちらの指定する新しい期日までに収入等の申告書をご提出頂きますようお願いします」
(そうだ……。そんなことも、ガルディエールさんの仕事だったんだ……)
電話を切ったヴァージンは、その場に立ち尽くした。もともと数学が苦手だった彼女は、日常的に使っているタイムの計算以外に、ほとんど数学の知識を使うことなどなく、会計や税務の知識すら、ほぼ皆無だった。
(誰に相談すればいいんだろう……)
おそらく、その道のプロはいるに違いない。だが、誰に頼めばいいのか、オメガで10年以上生活しているにもかかわらず、何一つ見当が付かなかった。それに、税徴収局から電話がかかってくるということは、本来の提出期限を間違いなく過ぎている。この時点で、そういったプロに頼んだところで門前払いされるのではないか、とさえ思うようになった。
(これも、私一人でやるしかないのかな……)
ヴァージンは、ガルディエールから送られた、昨年の8月までのレシート・領収証の包みを開き、そこから一つ一つ支出をパソコンに入力していった。計算だけは足し算だけなので、パソコン上で何とかすることができた。だが、そこから税額の計算に至るまでの間に、様々な調整項目があるため、それ以上はお手上げだった。
(どうしよう……。適当に書いて提出するわけにもいかないだろうし……)
収入等の申告書を作るための手引きは、おそらくフェアラン・スポーツエージェントに送られたきり、ヴァージンのもとに転送されていない。そうなると、結局窓口に行く以外に申告書を完成させる方法はなかった。
(でも……、トレーニングを休んでまで行きたくないし……、次のオフの日に行くしかないか……)
次のオフに、ヴァージンが税務窓口に向かうと、窓口で対応した女性から困った表情で「何もやってなかったんですね」と言われ、ヴァージンは黙ってうなずくしかなかった。この時点で、ヴァージンが何とか作り上げたデータは、レシートや領収証の単純な合計値、そして収入の合計値だった。
「その支出合計は、全部あなたの必要経費に当たるのでしょうか。この数字だけ見ていても分からないですよ」
「待ってください……。それって、どういうことですか……」
その声に、ヴァージンは呆然となった。それから、税務窓口の女性が何と言ったか、ほとんど耳を通らなかった。ただ、何度か言われたことは、「職業的に個人事業者なので、帳簿の提出が必要です」ということで、ヴァージンが数えただけでも、全部で3回は言われてしまった。
(帳簿って……、何……。レシートとどう違うの……)
世界の誰もが知る陸上選手も、税務窓口では完全に世間知らずの人間だった。帳簿が何であるかすらも分からなければ、それからどのように帳簿を作ればいいかという段階まで行くわけがなかった。
最後に、窓口の女性は、ヴァージンの持ってきた書類を全て戻すと、笑顔でこう告げた。
「申告書の作成を手伝ってくださる税務コンシェルジュを、こちらで紹介しましょうか。グランフィールドさん」
「手伝ってくださる方……。税務コンシェルジュ……。私、またやり取りが増えてしまいます……」
「それでも、もう期限を過ぎていますし、1日でも早く書類を作成して頂かないと、困ります。最悪の場合、賞金の差し押さえも考えないといけません」
そこまで言われて、ヴァージンはうなずくしかなかった。賞金の差し押さえが何であるか、身をもって知っている彼女に、再び不自由な生活を送ることになる結末だけは避けたかった。
(また電話のやり取りが増える……)
それからの1週間は、もはやトレーニングどころではなくなってしまった。税務コンシェルジュまで登場することになり、この先どうなるか気が気でなかった。
ある日、ヴァージンがトレーニングセンターから戻ってくると、高層マンションの下で60歳くらいの男性が帰りを待っていたのだった。明らかに、マゼラウスより風格がありそうで、彼が税務コンシェルジュのようだ。
「初めまして。あなたが、ヴァージン・グランフィールドさんでよろしかったでしょうか」
「はい……。税務、コンシェルジュさん……、ですか……」
「えぇ。税務窓口から指名を受けて、そちらの税務を担当することになりました、コンシェルジュのケリー・タックスビルです。アスリートの税務申告は、今までやったことないですが……、よろしくお願いします」
(やったこと……、ない……)
ヴァージンは、タックスビルとほぼ同時に頭を下げながら、心の中で息を飲み込んだ。そもそも、ヴァージンの職業が世間一般から見ればごくわずかの存在であるため、それに詳しい税務コンシェルジュもほとんどいないとのことだった。
それでも、ヴァージンの部屋に入ったタックスビルは、目の前にある資料を一目見て、彼女が一度は整理した領収書を全てバラバラにし始めたのだった。
「ちょ……、ちょっと待ってください……。これ、全部支出で、合計金額もそこに書いてあります……」
「いや、グランフィールドさん。この家の電気代とか、水道代とか……、それと郵便のレシートも全部入れているようですが、全部が全部必要経費になるわけじゃないんですよ。なので、おそらくこれを持っていったところで、税務窓口の方から整理してくださいなどと言われるはずですよ」
「たしかに……、言われました。あと、帳簿をつけてくださいとも言われました……」
「帳簿は、そのレシートがどういう経費なのかを知るために、どうしてもつけなきゃいけないものなんですよ。オメガ国では申告の時に帳簿を提出しなければいけませんので、どういう職業であれ個人事業者は作らなきゃいけないんです」
ヴァージンは、タックスビルの言葉にただうなずくしかなかった。そのことも知らずに、10年以上もアスリートをやっていたと思うだけで、恥ずかしくなった。
「でも、大丈夫です。一応、原則的な方法で収入等の申告書を作ります。ですが、私が見ても分からないものは、グランフィールドさんに聞きますから、よろしくお願いします」
「分かりました……」
その日、17時頃から始まった作業は、20時までかかってレシートの整理しか終わらなかった。税務コンシェルジュなら数時間で終わるとばかり思っていたヴァージンは、「明日も来ます」と告げたタックスビルを、じっと見つめるしかなかった。
机の上には、三つに分けられたレシート・領収証の束がきれいに並んでいた。そこには、100%、0%、事業費率などとつけられた付箋が貼られていたが、当然ヴァージンには何のことか全く分からなかった。
(競技生活との両立は、できない……)
もはや、大会まで2週間を切っているこのタイミングで、夕方のトレーニングの時間が削られる彼女には、身を削るような状況だった。タックスビルが帰ってから家事や食事を手短に行うものの、結局寝る時間が削られることとなってしまった。
5日目に、ようやく書類を作成し終えたタックスビルから「来年の申告からはぜひうちでお願いします」と言われたものの、彼女は税務コンシェルジュとの新たな契約を一度保留にした。
(次の代理人を、早く見つけるしかない……)
ヴァージンは、何度も首を横に振りながら、高層マンションを出るタックスビルを見送った。