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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
たどり着けない場所なんてない
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第48話 競技生活との両立(3)

 1月、フューマティックの街は、冬とは思えないほど穏やかな陽気で、降り積もった雪が眩しい光に照らされて、青白い光を放っているかのようだった。その光の間をかいくぐって、ヴァージンはインドア競技場に入った。

 受付を済ませ、ロッカールームに向かう最中に、ちょうど着替えを済ませたカリナが、サーモンピンクの髪を束ねながらすれ違った。

「グランフィールドだーっ!……この前、追い越した、それでも私にとっての大先輩!」

「ありがとう。でも、この前のレースのようにはいかないです。私だって、まだ力はあるんですから」

「それだったら、もっと速いペースで、グランフィールドについて行けるかもしれない!」

 カリナは、はっきりとうなずいて、ヴァージンに向けて右手を高く差し出した。ヴァージンの右手がそれに呼応するように上がると、その勢いでカリナはハイタッチを交わした。

(カリナさんは……、世界競技会で優勝しても、さらに上を目指そうとしている……。もし今回、私にまたついて行くような展開だったら、インドア世界記録はかなり更新できるかもしれない……)

 ヴァージンは、トレーニングルームへと向かうカリナに振り向いて、うなずいた。


 今回のフューマティック選手権では、カリナ以外にヴァージンのライバルとなるような選手は出場していなかった。女子5000mに出場する全15人が、1周200mのトラックの上に並ぶ。これまでのレースと違うのは、世界競技会で頂点に立ったカリナが、最も内側からのスタートになっていることだ。

(カリナさんは、序盤から飛ばしていかないはずなのに、この場所から出るというのが珍しい……)

 ヴァージンの目が、そっとカリナに振り向いたとき、低い声が選手たちの耳を貫いていった。

「On Your Marks……」

 ヴァージンは、まっすぐ前だけを見た。世界競技会の後、一人で二人分の荷物を背負わなければならなくなったことなど、この瞬間には頭に片隅に消えていた。ただ、目の前のレースに集中するしかなかった。

(今の私は、アスリート。記録に立ち向かう、一人の人間……)

 号砲が鳴ると同時に、ヴァージンは一気に400m68.2秒のペースまで加速しながらコーナーを回っていった。最も内側からスタートしたカリナは、すぐにヴァージンの後ろに付き、背後から様子を伺う。

(いつもの展開になっている……。あとは、追い上げてくるカリナさんを、私の足で振り切るだけ……)

 コーナーの数が多い分だけ、アウトドアのときのように設定ラップを維持するのは難しいが、それでも400mごとの体感タイムは、確実に69秒を上回るペースで突き進んでいく。

 10周、2000mを過ぎたあたりで、ヴァージンの背後から靴音は、一人を除いて消えていった。

(やっぱり、思っていた通りカリナさんは私をどこまでも付いて行く……)

 2000mからカリナが伸びていくことは、これまでいくつかレースを見てきた中ではなかった。それでも、この1年でタイムを大きく伸ばしてきたカリナの実力を考えれば、どこで伸びてきても油断はできなかった。

(どこで出てくるんだろう……。もし早めに出てくるのなら、勝負のし甲斐がある……)

 ヴァージンの従える「Vモード」が、早くもカリナとの勝負に向けて、ヴァージンの脚に力強いパワーを送っている。ペースを上げないまでも、靴底からの力で、これまでよりも楽に走れているように思えた。


 そして、16周、3200mを過ぎたあたりでカリナが動いた。

(前に出てくる……!)

 背後からの、わずかな風の変化を感じたヴァージンは、そこで「Vモード」をやや強く踏み込んだ。ほんのわずかペースを上げたヴァージンに、背後のカリナのペースがぴったりと合わさっていく。

(だいたい……20mの差くらいになっている……?)

 ヴァージンは、次の1週を終えた直後に、コーナーから後ろを振り返った。目で見たその差は、20mより少し短くなっているようだ。心なしか、カリナのペースがラップを重ねるごとに上回っているようだった。

(最終的には、私を抜き去る。そんな計算で、カリナさんは動いているのかも知れない……!)

 ヴァージンは、3600mを過ぎたあたりで、再びスピードを上げ、400mあたり67秒台まで高めていった。だが、ヴァージンが予想していた通り、カリナはそのペースでも付いてきているようだ。

(これは、インドア記録をかなり更新できるかもしれない……)

 残り6周と少し。ヴァージンには、まだ足に衝撃が走っていない。もっとペースを上げ、それにまたカリナが食らいついていけば、最終的なタイムで大幅に記録更新ができるはずだ。それどころか、その時のヴァージンには、カリナが付いて来なくてもペースを上げられるだけの気力が残っていた。

(3800m、10分56秒……。私は、もしかしたら、アウトドアの記録に限りなく近い数字を出せるかも知れない!)

 ヴァージンの脳裏で、5000mを走り終えるまでのはっきりとした道筋を立てていた。そのイメージに呼応するかのように、ヴァージンのスピードがはっきりと上がっていく。後ろから付いて行くカリナも、何とかペースアップしているように感じたものの、もはや次のペースアップでは付いて来られないような走り方だ。

(カリナさんを引き離す……!私は、自分の記録しか意識しない……!)

 4400mを過ぎ、ヴァージンのペースは400mあたり63秒ほどにまで上がってきた。ここにきて、少しずつ「Vモード」から衝撃を感じるようになったが、残り3周を本気で走るには十分すぎるパワーが、シューズの底から溢れていた。

 カリナを意識しなくなったヴァージンの脚は、ただひたすら室内世界記録に向けて、トラックを駆け抜けた。


 14分06秒28 IWR


(よしっ……!)

 ゴールラインを駆け抜ける瞬間、ヴァージンは久しぶりに歓声を聞いた。すぐに記録計へと目をやると、これまでの室内自己ベストを2秒も上回るタイムが映し出されていた。

 その時、記録計の前でじっと室内記録を見続けるヴァージンに、横からカリナが手を伸ばした。少なくとも10秒ほどの差はあったものの、カリナは余力を残しているかのような歩き方だった。

「今日は付いて行けなかった……。グランフィールドの本気、すごく速かった……」

「カリナさんだって、あそこまで食らいつくとは思わなかったです。でも、カリナさんが動いたときに、私は勝負に出なきゃって思ったんです」

「なーるほど……。でも、次は負けない!」

 そう言うと、カリナは再び右手を高く伸ばして、ハイタッチを交わした。カリナの手には、悔しさが混じった汗がにじみ出ていた。

(とりあえず、インドア記録は更新できた……。あとは、アウトドアでも自分を取り戻せるか……)


 だが、フューマティック選手権からその日のうちに高層マンションに戻ってきたヴァージンは、ポストに手を伸ばすなり、その動きが止まった。

(そうだ……。ここ1週間くらい、大会に夢中で、手紙とか何も取っていなかったんだ……)

 片手で持ち切れないほどの封筒を、ヴァージンはその手で取りだして、急いで部屋のテーブルの上に置いた。以前のように、気付いたらエントリーを締め切っていたということなど、二度は繰り返せなかった。

(来ている封筒の大半が、4月とか5月とか……、7月くらいまでのアウトドアレースの案内だ……)

 ヴァージンは、一つ一つ封筒を破り、中から大会のエントリー用紙を取り出した。だが、その数だけでもゆうに10はあり、ほぼ全ての場所がヴァージンも一度は走ったことのあるスタジアムだった。その数多くの申込用紙を前に、ヴァージンは固まってしまった。

(こんなにいっぱい……、私はどうしよう。私の体は、私が一番知っているはずなのに……)

 ガルディエールが、これまでヴァージンに無理をかけない範囲内で組んできた日程調整を、いまこの場で一人でやらなければならない。ヴァージンはそう悟った。イーストブリッジ大学の履修登録をしたときよりも、はるかに考えることが多すぎた。

(ここで走ったら、6月や7月にもう一度走って……、今度はオリンピック……。まず、そこまで何回走るかも自分で決めないといけないような気がする……)

 数多くある用紙の中から、開催日の日付が最も早いレースに手を伸ばす。だが、そこはオメガから飛行機でも10時間はかかるような場所で、意識的に遠い会場を避けてきたヴァージンにはあまり乗り気ではなかった。だが、その翌週のレースが見当たらず、なかなか楽に行けるような会場は見つからなかった。

 ヴァージンは、全ての紙を束ねて机に置き、天井を仰いだ。

「なんか、レース一つ決めるだけでも大変……。そこに、宿とかの手配もしなきゃいけないわけだし……」

 ヴァージンは、結局夜の11時頃まで、その次のレース予定を決めることができなかった。同じ日に室内世界記録をとったことが、もう何日も前の話であるかのように……。

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