第48話 競技生活との両立(2)
翌朝、ヴァージンは珍しくトレーニングの集合時間ギリギリに出た。やるべきことが頭の中で渦を巻き、結局前の晩にできたことは、パラゴイアの高級ホテルを11月に10日間ほど仮予約を取ることだけだった。それさえも、やるべき順番を間違えていたことに、ベッドに入ってから気付くのだった。
(やっぱり、アスリートとマネジメントの両立をする生活に、まだ慣れていないのかも知れない……。エクスパフォーマと何かすることになったら、すぐにいろいろなことを考えないといけなくなる……)
やや早足でトレーニングセンターに向かっているつもりが、ヴァージンが気付いたときには、歩幅を小さくして歩いていた。そのたびに、彼女は首を横に振らなければいけなかった。
「まだ、世界競技会のショックから立ち直っていないようだな、ヴァージン」
マゼラウスの持つストップウォッチに、14分16秒という数字が映し出されると同時に、マゼラウスは低い声でヴァージンに告げた。既に感覚でタイムの目途がついている彼女は、その言葉に首を縦に振るしかなかったが、その動作さえ、普段見せているものと比べると動きが重いように思えた。
マゼラウスは、ストップウォッチをゆっくり下ろすと、一度ヴァージンにうなずき、それまでとは打って変わり、穏やかな声で問いかけた。
「ヴァージンよ。昨日、久しぶりにエクスパフォーマの本社に行ったそうじゃないか」
「えぇ……。11月にCM撮影があるので、その打ち合わせに行きました。ヒルトップさんにも会っています」
「なるほどな……。代理人がいないと、ここまで忙しくなってしまうのかと、お前を見ててそう思う」
マゼラウスは、ヴァージンの体を見て、上から下まで目を動かした。それが終わると、首を横に振った。
「お前は、大会から何日も経っているはずなのに、疲れているように見える。ボロボロというわけじゃないが、少しずつ輝きが消え失せているような感じがしなくもない」
「そうですか……。たぶん、昨日の寝不足がたたったのかも知れませんね……」
「本当に、それだけか。代理人がいなくなり、いろいろなことをお前自身がやらなくなって、疲労がたまっているような気がするんだが……、私の見方は間違ってないかな」
ヴァージンは、マゼラウスの鋭い突っ込みに言葉を返すことができなかった。マゼラウスの目を見て、小さくうなずきながら、笑みを浮かべるだけだった。
「そこで、私はお前に助け舟を出したい。聞いてみる気はないか」
「分かりました。助け舟って、どういったものですか……」
ヴァージンの体が、無意識のうちにマゼラウスに向かって前のめりになり、彼女は咄嗟に体を垂直に戻した。
「お前が一番望んでいることだ。ガルディエールに代わる、新しい代理人は欲しいだろ」
「えぇ……。代理人がないよりはマシだと思いますが……。で、どうするんですか」
「本来なら、お前を支えてもう10年になる私が、お前の代理人になったほうがいいのかも知れない。だが、私自身はコーチのノウハウは身につけているが、様々な相手と向き合わなければいけない代理人には向いていないと思っている……」
「コーチが、私の代理人になるわけじゃ、ないのですね……」
「お前には申し訳ないんだがな……。ただ、私も長年陸上競技に携わる中で、様々な代理人と話す機会はあった。少なくとも、私とお前の知名度は、名だたる代理人たちの間にも知れ渡っていることだろう」
そこまで言うと、マゼラウスは小さくうなずきながら、唇をかすかに動かした。
「そこで、私は彼らにもう一度声を掛けて、お前の代理人になってもらうように働きかけることにする。お前が早く、代理人がしていた仕事から解放されるように……、私が代理人を見つけてくる」
マゼラウスは、ヴァージンの肩に右手を伸ばそうとした。だが、ヴァージンはその手から逃れるように、足を一歩引き、その場所で体を震わせた。
「コーチ、待ってください……。それは、コーチに迷惑かけてしまうことになりませんか……」
「私は別に、昔ほど忙しくなくなったからな。代理人を見つけることはそんなに苦ではないぞ」
マゼラウスは、さらに穏やかな声でヴァージンに語り掛けるが、ヴァージンは震えが止まらなかった。何度か首を横に振って、ようやく体を落ち着かせると、ヴァージンはそっとマゼラウスに返した。
「大丈夫です、コーチ。私は、まだ……、そこまで重い荷物を抱えているわけではありませんので……」
「本当か?今日のお前を見ていると、いかにも代理人のやっていた仕事が辛そうに見えるが……」
「まだ、私は辛いと思っていません……。それに、ガルディエールさんが代理人を降りたのも、私がタイムを伸ばせなかったのが原因なんですから……」
だが、マゼラウスにそう言い連ねるヴァージンの体は、それでも震えていた。走っていないにも関わらず、足の裏から疲れがあふれ出てくる。少しずつ、走り続ける力がすり減っていくような気さえした。
どうにもならない気持ちに、マゼラウスはさらに声を掛ける。
「ガルディエールが辞めたのは、あくまでも彼が決めたことだ。お前のタイムなんかじゃない」
無意識に下を向いていたヴァージンは、マゼラウスの声にそっと首を上げた。
「それに、お前はアスリートだ。私なんかよりも、もっと本業に集中しなければならないはずだ」
「たしかに……、いろいろ仕事を抱えながらも、私は走り続けないといけないんですよね……」
そう言うと、ヴァージンはマゼラウスにそっと手を伸ばす。その手は、わずか数秒もしないうちに、マゼラウスの開いた右手に吸い込まれていった。
「お願いします……、コーチ……。やっぱり、今の状態はずっと続いちゃいけないです……」
ヴァージンの手を、マゼラウスの手が強く握りしめるのを、彼女ははっきりと感じた。その手は、熱かった。
(嫌な予感は、当たってしまった……)
その日のトレーニングを終え、ヴァージンが戻ると、机の上には開いていない封筒がいくつも置かれていた。そこから最も早く届いた封筒を開くと、そこにはこの年最後となる国際大会の参加要項が入っていた。その大会の〆切が、昨日だった。
(やっぱり、コーチが気にかけてくれなかったら、全てを抱えることなどできないのかも知れない……)
様々な郵便物や電話に追われることとなったヴァージンは、自分の本業であるレースの申込さえも頭が回らなくなってしまっていた。彼女は、しまったとばかり頭を手で押さえると、すぐに体を元に戻し、同じように大会の案内が入っていそうな封筒を開けていった。今の時期は、翌年冬場のインドア選手権の募集がメインで、13分台を狙おうとしているアウトドアのレースは、前日に締め切られたもの以外に一つもなかった。
(これにしよう……)
オメガ国内のフューマティック選手権が、1月の下旬に予定されている。代理人のしてきた仕事と両立させるためには、あまり長距離の移動は避けたかった。また、オメガ国内ということもあり、世界競技会で優勝したカリナも初めての室内レースをそこに合わせてくる可能性は考えられる。
(とりあえず、次の代理人が見つかるまで、私は申込を忘れないようにしないといけない……)
ヴァージンは、申込書に自分の名前を書き、同封の返信用封筒に入れて閉じた。
(これで……、私はあの敗北から立ち直ってみせる。次のレースがあるから、私が頑張れるはず……!)
ヴァージンは、部屋の中でそっと顔を上に向けた。天井の先には、女子5000mでライバルとして待っているメリナやカリナの本気の表情が、うっすらと見えた。
(私は……、こんなところで立ち止まっているわけにはいかない……!)
次の本番まで4ヵ月以上間が開くこととなったが、ヴァージンの5000mタイムトライアルの記録は少しずつ上向いていった。自らの世界記録14分00秒09には届かないが、メリナやカリナの自己ベストから1秒以内に食い込むところまでは調子を戻してきた。
また、次のフューマティック選手権に向けてインドアでの調整も早くから行った結果、大会2週間前にはヴァージンの室内記録14分08秒73をほぼ上回るようになっていた。特に、400mを68.2秒で走るペースを意識してからほとんど決まらなくなったスパートが、ここのところしっかりと出せるようになっていた。
(これ、インドアは間違いなく世界記録を出せるかも知れない……。私が、少しずつ戻ってきたような気がする)
ヴァージンは、マゼラウスから渡されたストップウォッチを手に持ったまま、その持つ手に力を入れた。それまでの間に、エクスパフォーマの撮影をはじめとした、トレーニング外の様々な作業を両立させてきた体は、いま再びその感覚を取り戻したのだった。