第48話 競技生活との両立(1)
世界競技会での敗北から1週間以上が過ぎた。
これまで、全て代理人にかかってきた電話が、トレーニング中でさえかかってくる。トレーニングを終えたヴァージンは、高層マンションに帰った後も数件の電話をするのが当たり前になっていた。
(まだ大口のスポンサーからかかってきていないだけ、この程度で済んでいるだけかもしれない……)
ビッグイベントを終えたにもかかわらず、エクスパフォーマのヒルトップから電話がかかってこない。少しずつトレーニング量を戻しつつある彼女にとって、それだけが唯一の救いだった。
数日のトレーニングで使い物にならなくなるシューズを、そのエクスパフォーマに電話し、ふうとため息をつくと、ヴァージンは帰りがけにポストからつかみ取った郵便物に目をやった。これもまた、代理人宛に届いていた書類や領収証などが彼女の元に直接届くようになっていた。
(そのうち、この部屋も書類でいっぱいになるのかな……)
プロの陸上選手になる前、アメジスタの実家でそれほど整理整頓をしていなかったことを、ヴァージンは思い出した。ジョージの書斎がきちんと整頓されていたことと比べれば、明らかに見劣りするような机周りだった。
(大事なものだけ取っておいて、あとは隅に積んでおこうか……)
ヴァージンは、そう思った瞬間に封筒を差出人だけで選別し始めた。すると、その一番下に、見慣れた名前の差出人を見つけた。筆跡も、その彼のものだ。
(フェリシオ・アルデモード……。珍しく、アルデモードさんから封筒で来た……)
このところ、メールで文章を届けてくれるアルデモードが、この時に限ってきれいな封筒に手紙を入れてきている。それだけで、普段と何かが違うことを彼女は容易に想像できた。
ヴァージンの手は、すぐに封筒の口に伸び、勢いよく封を破ると中から手紙を取り出したのだった。
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スーパー女子アスリート ヴァージン・グランフィールドへ
世界競技会、お疲れ様。銅メダルという、君にとってはたぶん不本意すぎる結果だったと思ってるよ。
その中継を、僕は家の中で見た。君は、少しだけ何かに怯えていたような走り方だった。
あの姉妹が、何かを起こしそうとか、グローバルキャスの解説の人は言ってたけど、きっと違うよね。
僕は、君がずっとプレッシャーを感じていると思っている。少なくとも、僕に言ってくれた、あの悲鳴のこと、君はずっと恐怖と戦っているような気がするんだ。
僕だって、君が応援してくれたあの試合で聞いたため息のことを、あれからずっと考えていた。チームメイトにも聞いたけど、「気にするな」で終わってしまったから、その答えを自分で見つけなきゃいけなかった。
あのね。
スタジアムで残念がる人は、みんな大記録を待っている人だと思うよ。
女子選手が、5000mを13分台で走り切れるって、その瞬間を待っている人。
むしろあの悲鳴は、本当は歓声に変えたかったはずのもの。
だから、残念がる人の多くは、歓声で君を迎えたかった人。
そう思うとさ、みんな君の仲間なんだよ。大記録に挑む、君の仲間。
僕は、今年も無事にグラスベスに残ることができた。昨シーズンは悲鳴しか残せなかったけど、今年こそゴールを揺らして、君が、そしてみんなが大歓声を上げるって、夢を見ているよ。
フェリシオ・アルデモード
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ヴァージンは、その手紙の文面を黙って追い続けた。だが、途中アルデモードの語り掛けが始まったところで、何度もその目を反らそうとしていた。たった二文字から先が、ヴァージンには読む気になれなかった。
(そんなの仲間じゃない……。たしかに、声援を送ってくれるのはすごい力になるけど……、その追い風とは全く風向きの違うもののはず……)
ヴァージンの脳裏に、再びあの悲鳴が甦ってきそうだった。とくに、アフラリのスタジアムで浴びせられた悲鳴は、そのトーンまではっきりとヴァージンの体に染みついていた。
(アルデモードさんは、仲間と一緒に……チームメイトと一緒に……、戦っている……。でも私は、たった一人でトラックに立って戦わなきゃいけない……。認識が違うのかも知れない……)
ヴァージンは、アルデモードからの手紙をゆっくりとたたむと、それを部屋の隅に積もうか迷いだした。だが、アルデモードという名前を再び目にしたとき、彼女はそれをテーブルの上に残したままにしておいた。
それから数日が過ぎ、着信履歴にヒルトップの名前が登場した。ヴァージンが折り返しの電話を掛けると、新しいCMの撮影ということでそのロケの打ち合わせをしたいとのことだった。幸い、ヒルトップの都合が付く日はトレーニングをオフにしていた日だったため、彼女はその日に合わせてエクスパフォーマの本社に向かった。
「代理人が降りてしまったというのは、さぞかし辛いことだろうと思いますよ。他の競技を含めても、トップ選手と直接打ち合わせをすることはほとんどありませんから、今日ここでグランフィールド選手とお会いできたことは嬉しいですが、少し申し訳ない感じがします」
机ひとつの会議室に通されたヴァージンに、ヒルトップは真っ先にそう告げた。
「大丈夫です。少しずつ、代理人のいない生活にも慣れてきましたし……、ガルディエールさんを満足させられなかったのは、私ですから……」
「それでも申し訳ないですから、私どものほうで、今回のロケをいろいろと手配しますよ」
そう言って、ヒルトップはヴァージンに新しいCMの素案を見せた。モデルアスリート4人が、高地の草原でトレーニングを重ね、最後は満員の競技場でそのパフォーマンスを見せる、といったものだった。そして、概要を言い終えると、ヒルトップは少し間を置いてヴァージンに告げた。
「高地の草原は、パラゴイアのアイネス山脈の裾野です。競技場は、オメガ国内で撮影しますけど、高地ロケは2泊3日でパラゴイアに行って頂きまして、別々に撮影をして頂きます」
「パラゴイアは、ここからだとかなりの遠征になりますね……。アメジスタからのほうが近そうです」
「カルキュレイム選手にも、同じことを言われましたよ。でも、ご安心ください。飛行機代や宿泊代は私どものほうで持ちますから、ロケ日に合わせてスケジュールの予約だけ行って頂けませんか」
「分かりました。スケジュールの調整とか、予約とかして、数日中に日程をご相談させてください」
ヴァージンがヒルトップに言うと、ヴァージンに渡したロケ案の紙の上に「OK」の2文字を書いた。
「私どもとしても、来シーズンからCM展開したいですし、現地スタッフのロケもありますので、11月中にはロケしたいところですね。年が明ける頃には、パラゴイアの高地は寒くなってしまいますし」
「分かりました。そのつもりでスケジュールを考えておきます」
「はぁ……」
エクスパフォーマの本社を出たヴァージンは、勢いで引き受けた言葉にため息で抵抗するしかなかった。これまでガルディエールがヴァージンの撮影スケジュールを組んでおり、そこに向かうまでの飛行機代、宿泊先なども全て手配していた。これからは、それを一人でやらないといけないことに、この時彼女は改めて気付かされた。
(パラゴイアのホテルと言っても、できればトレーニング施設があるところのほうがいい。朝走っても邪魔にならなそうな道とか、できればランニングコースが整備されているところのほうがいいかな……)
その足で、ヴァージンはオメガ国の中でも一、二を争うほど巨大な書店に向かい、パラゴイアの観光案内やら地図やら買うことにした。そして、高層マンションでそれを広げるが、アイネス山脈のロケが行われそうな場所の周辺にはホテルがほとんどなかった。タクシーで1時間ほどかかりそうな麓に、トレーニング施設が充実してそうな高級ホテルが1軒見つかるだけだった。
(ここにするしかないのかな……。でも、他の「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」のモデル選手は、どうやってここでの2泊3日を過ごすのだろう……)
ヴァージンは、首を一度横に振ってメールを開き、他の3人のモデルアスリートに尋ねてみた。すると、5分も経たないうちにカルキュレイムから同じホテルを示された。
(やっぱり、ここにしよう……。あとは飛行機……、コーチとのスケジュール調整……、あとは……)
ヴァージンは、パソコンの前で固まってしまった。全てガルディエールがやっていたことだけに、もはや彼女には何から始めていいのかさえ、分からなくなってしまった。
「やることが多すぎる……。でも、代理人がいない選手は、みなそうして競技生活と両立しているはず……」
そう言って、ヴァージンは少しだけ目線を上げた。ため息をつく余裕さえ、彼女にはなかった。