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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界最速の脚でさえ あと少し届かない
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第47話 ラストチャンス(5)

 ギリギリのところで逃げ切ったカリナが、両手を高く上げて喜び、姉メリナに駆け寄る。メリナも、飛び込んできたカリナの体を優しく抱きしめ、大舞台での優勝を喜び合う。カリナのタイムが14分04秒13、メリナが14分04秒38。それよりもわずか2秒遅かったヴァージンは、二人の前に立つこともできず、トラックの内側で立ち尽くした。

(グローバルキャスが注目していた通りのレースになってしまった……。私には、何かが足りなかった……)

 常に姉を追い続けて、ついにその前に立ったカリナ・ローズの、まさに独り舞台と言ってもいいようなレースに翻弄されていたことを、改めてヴァージンは思い知るしかなかった。14分06秒73のタイムは、自己ベストから見れば6秒以上も遅く、その自己ベストで戦えれば結果はもう少し違ったものになったかもしれない。

 だが、喜び合う二人は現実で、ヴァージンが望んでいたものはただの空想に過ぎなかった。

(夢の記録まで、あと少しのはずなのに……。13分台は、すぐにでも出せるはずなのに……)

 ヴァージンは、首を小さく横に振った。そして表彰式を終えると、彼女はすぐにロッカーへと消えた。

(私には、次がある。次こそ、あの二人を後ろに引き離して……、13分台に挑むしかないのだから)


 しかし、彼女のその決意さえ、わずか数分の儚い決意になろうとは、彼女は思いもしなかった。

 選手入場口を出ようとしたヴァージンを待っていたのは、腕組みをしながら立つコーチ・マゼラウスと、穏やかな表情で立っている代理人・ガルディエールだった。二人がこうして並んで立つ姿は、少なくともスタジアムの中では一度もなかった。

「君のレースは、全部見させてもらったよ」

 ガルディエールの落ち着いた声に、ヴァージンは首を小さく縦に振る。目線がわずかに下を意識した時、ヴァージンは、ガルディエールが手に白い封筒を握っていることに気付いた。

(白い封筒……。これからいったい、何を渡そうとしているのだろう……)

 ヴァージンの膝が、わずかに後ろに傾けようとしたとき、ガルディエールは話をさらに進めようとする。

「結果は3位。勿論、君にも、私にも満足のいく結果じゃなかったね」

「はい……。あと少しで追いつけたと思ったのですが……」

 ヴァージンの声が、無意識のうちに小さくなる。彼女の目の前は、今にでもメリナとカリナの背中が見え隠れしそうな気配に包まれていた。

 だが、そのような不思議な空間でさえ、ガルディエールの徐々に低くなる声に、かき消されていった。

「これまで君は、素晴らしい記録を打ち立ててきた。それはもう、世界中の誰が見ても、疑いようのないことだ」

「はい」

 ガルディエールの口調がどこかおかしいことに、ヴァージンは真っ先に気付いた。彼女が13分台に挑戦するようになってから、電話口でたびたび流れているような低い声を、彼はヴァージンの目の前でしているのだった。

「けれど、それはもう過去の栄光に過ぎない。今の君からは少しずつ、将来性を見出せなくなっている」

「将来性ですか……。まだタイムは、伸びると思います」

「それを決めるのは、君自身じゃないはずだ。君は、自分自身の頑張りでいくらでもそれを跳ね返せる」

 ヴァージンは、ガルディエールに対し、ついに何も返せなくなった。スタジアムの喧騒とは切り離された、静かな空間が、三人の間に流れていた。その中で、ガルディエールはヴァージンに、そっと告げた。

「アスリートを支えるエージェントは……、少なくとも私の方針としては……、その選手がこの先どれだけの金を残せるか。それでしか見ない。過去にどれだけの結果を残してきたかなど、全く評価しないんだ」

(過去を……、評価しない……。それに、なに……、金って……!)

 ヴァージンは、やや下を向きかけた。どう反応していいのか分からなくなった。それでも、何とかしてガルディエールの表情を見ようとしたとき、ヴァージンは咄嗟に、初めてフェアランの面接に臨んだときに彼の言っていた言葉を思い出した。


――私は、生涯6000万の価値を約束します!

――少しでもキャッシュフローが入ってきたりするように、私はしてみせます。具体的な計画は既に持っています!


(たしかに、ストレームさんと綱引きをしているとき、お金とかそういうのが出てきた……)

 ヴァージンは、拳を丸めたくてもそれができなかった。怒りは、あっという間に鎮まってしまった。

 彼女の心が落ち着いたのを見計らったかのように、ガルディエールは再び口を開いた。

「私も、この決断をするのは、過去の自分に申し訳なく思っている。でも、私自身や、フェアラン・スポーツエージェントがこの先大きくなるためには、この決断も必要だと思う。悪いが、この書類を受け取ってくれ」

「はい」

 ヴァージンは、ガルディエールから両手で差し出された封筒を、丁寧に受け取った。その中身が何であるか、開けなくても分かっていた。ヴァージンに封筒を渡したガルディエールの表情は、それでも落ち着いていた。


「私と、ヴァージン・グランフィールドとの契約も、今日限りとさせてもらう。このような終わり方で、君には本当に申し訳ないが……、この世界はそれほどシビアだ。たとえ君が、有名選手に上り詰めたとしても……」


(やっぱり……。ラストチャンスという言葉は、本当だったのかも知れない……)

 疲れ切った膝が、足元から揺れていく。封筒の中身が分かっているのに、ガルディエールから直接別れを告げられ、体が正直になれないはずもなかった。それでもヴァージンは、小さな声でガルディエールに尋ねた。

「あの……、今後のレースとか、何も引き継ぎとかないんですか……」

「全く決めてない。マゼラウスと、それにモデルアスリート契約を結んでいるエクスパフォーマには、先にこのことは言っておいたよ。次のエージェントが見つかるまでの間、君が窓口になる。それから……、たしかグローバルキャスのアメジスタでの中継の話も、全部窓口は君になる」

「そんなの……、今の私には荷が重すぎます……。代理人がいなくなってしまうと……、レースやトレーニングの合間に、そういうことをやらないといけないわけですよね……」

 ガルディエールは、ヴァージンの訴えに対しては、首を縦に振るだけだった。全く関係が変わってしまったガルディエールから、彼女はついに目を離し、隣にいるマゼラウスに向けて一歩だけ近づく。

「コーチ……、助けてください……。私ひとりじゃ、ガルディエールさんのぶんまで背負えないです……」

「先にこの話を聞いた私にも、どうしていいか分からない。お前がまだ代理人が付いてなかった頃も、セントリック・アカデミーのスタッフにそのような活動を手伝ってもらってたくらいだからな……」

「うそ……」

 ガルディエールが代理人としてヴァージンを支えることになる前は、彼女のスポンサーの規模はそこまで大きくなかった。その頃でさえも、セントリック・アカデミーがバックについていた。今はもう、抱えているスポンサー――世界有数のスポーツブランドの、それもモデルアスリートになっている――の規模が大きすぎる。そして、セントリックはそのエクスパフォーマに吸収されてしまった。これから先に待っていることは、ヴァージンには容易に想像できた。

 それでも、ヴァージンの肩を叩き、「これからは遠くから君を応援している」という言葉を最後に、ガルディエールはその場をゆっくりと離れていった。彼女の足は、どこを踏みしめているのかさえ、分からなくなった。


 その場に立ちすくんだヴァージンに、マゼラウスがそっと声を掛けたのは、それからしばらくしてからだった。

「私は、ガルディエールの考えも、ある程度は理解できる。それでも、全てを信じることはできない。おそらく、お前自身だってそう思っているはずだ。違うか」

 その言葉で現実に戻ったヴァージンは、マゼラウスに少しだけ涙を見せた。気持ちは、隠せなかった。

「言われてみれば、そうですね……」

「奴は、さっき私にこう言った。一昨年、ウォーレットの一件で世界記録を出すことを陸上機構から止められたとき、お前が強く反対する中で、奴は陸上機構にあっさりと従っただろ」


――女子5000mの世界記録は、もう終わりだ……。これ以上速くなることはない。


「たしかに、あの時ガルディエールさんとは、すごく温度差がありました……」

「そういうことだ。奴は、お前がそれでも無理して世界記録に挑んで、怪我でもして、金が入ってこなくなることだけを恐れた。そう、私に告げた」

「そうだったんですか……」

「いま思えば、それがエージェントの本性を見せた出来事だったかも知れない。それからだろ、お前に対して冷たくなったのは……」

 ヴァージンは、小さく首を縦に振った。

「本当に、どうしてガルディエールさんの変化に見抜けなかったんだろうって、思いたくなります」

「まぁ、そんなことを言うな。それに、お前自身が終わったわけじゃない。私は、お前をこれからも支えるからな」

「コーチ……」

 ヴァージンは、思わずマゼラウスの右手を取り、強く握りしめた。


(ガルディエールさんの言ってることも、正しいと言えば正しいのかな……)

 もう、エージェントから電話がかかってくることのない、静かな高層マンションの一室。ヴァージンは、そっと天井を見上げた。

(代理人だって、仕事でやっている……。ガルディエールさんだって、生きていかなきゃいけない。お金だけは……、何に代わるものでもない……)

 納得したくないのに、納得せざるを得ない。ヴァージンは、無意識のうちに「当然」のことを信じていた。

(それに、私だって祖国のために、賞金を「アメジスタ・ドリーム」に寄付しているんだから……)

 ヴァージンは、右の拳をそっと握りしめた。それは、代理人を失ったとしても走り続けようという、小さな意思だった。

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